土門拳 写真論集 (ちくま学芸文庫 ト 14-1)

著者 :
制作 : 田沼武能 
  • 筑摩書房 (2016年1月7日発売)
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感想 : 4
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奈良の古寺、とくに室生寺を何度も撮影しに来ていただけに奈良県人としては昔からよく知る人物であった。(おそらく)親父が買い求めたのであろう写真集が実家にはあった。また土門の故郷である山形県酒田市は、仕事の都合で新潟に3年弱暮らした折、月イチで通った土地でもある。馴染の客が数軒あり、営業に行っては食事もご馳走になったりとよく世話になった。土門の記念館にも、仕事が早く終わったからと、帰りの汽車の時間までの間に先方の社長さんの案内で訪れたこともある。そこで見た中宮寺の半跏思惟像のなんと美しかったことか。いろんな点で接点のあった写真家ではあった。

が、人となり、考え方に触れるのは本書で初めて。これまでは土門拳という人間性とは全く関係なしに作品を眺めていた。寺や仏像といったモチーフ、モノトーンの作風から、重々しく実直、真摯で頑固なイメージを抱いていたが、本書で語られる写真に向き合う姿勢、芸術に対する探究心は常人の安易な想像の域を超えていた。文章とはいえ、もの凄い気迫に圧倒される。

本書は日本写真家協会の会長を務めた田沼武能が編んだ土門拳の文章だ。

構成の前半は専門誌の月例公募作品に対する講評が並ぶ。作品ごとに熱い批評が加えられている。時に作品を離れて自らの写真論を展開、講評そっちのけで筆が走る。後半は講演会でのスピーチ、学生たちとの討論会など。時折写真論や作例のない作品講評が並ぶ(恐らく土門の思想がよく出ているということで採用されたのであろう。作例なしに読む作品講評は少々掴みどころがないが)。

写真界きっての名文家と言われるだけあって、たかが素人の作品講評にここまで書くか?!という文章が連なる前半部分は圧巻でさえある。当時掲載されていた雑誌の読者層のレベルは知らないが、当然相手は素人である。アマチュアに対してはアマチュアらしくと説く(「アマチュアはそのアマチュアリズムの故に尊いのです。(中略)諸君は自分の立場に高い見識と誇りを持って、悠々と勉強をして頂きたいものです)。 とはいえ、別の投稿子の作品には「(前略)本当に大事なのは感動そのものではなくて、その感動を一枚の写真として適確に打出すところの写真家的実践である」と、相手を一人の写真家と遇してコメントしている。

月例も回を重ねるごとに、そのレベルがどんどん上がっていったのであろう、講評にも熱が入り、より精神的なアドバイスが増えてくる。

「マチエールは近代写真の強い肉体ではある。しかし、その肉体は深い精神を宿しているのでなければ意味がない」

「手段は目的ではない。手段と目的が弁証法的に統一された境地こそが近代写真のありかたである。手段だけが空転するのでは、遊びになる。」

もはや趣味の写真では済まされないと辛辣な言葉が多くなる。通り一辺倒の技術的な助言ではなく、写真に向き合う姿勢、考え方といった精神論にまで議論は深まっていく。そして、常連投稿子には、その成長過程を見据えた上で単独の作品だけでなく過去の流れを踏まえての指導が入る。単なる月例公募ではなく誌上土門拳塾の様相だ。本書は抜粋のため、その全容が記されているわけではないが、中には福島菊次郎など後々写真家として名を成す人物も含まれるなど、どれほどその当時の後進たちが熱心にこの月例公募を目指して投稿したかが容易に想像できる。これだけ熱い批評を貰えるならばと、さぞや発奮したことだろう。

「人生の美はもとより、その醜をもたじろがずに写し抜く激しい精神なくして、何でリアリズムといい得ましょう。」

後々”乞食写真”と批判される作風に通じる言葉も飛び出している。ストリートフォトグラフィの新たな境地を開いたリアリズムの探究は果てしない。とはいえ別の項では、一人の常連投稿子に対し、

「ぼくたちがどんなに奔放にして無辺際な自由にあこがれようとも、現実に具体的には、常に歴史的、社会的に規制された条件的、相対的な自由しか持ち得ない」

と、今の肖像権、パブリシティ権に配慮したかのように、何でも好き勝手に撮っていいものではないと現実的考えも披露したりもしている。1957年の文章でだ。 さらには

「”人権”も”平和”も、代々の保守党政府によって、再軍備問題を中心にときには大幅に、ときには小きざみに削りとられていっていることは、動かしがたい事実である」

と、まるで2016年の現在発言しているかのような内容も含まれる。

とにかく”執念”という言葉が一番似合うだろうか。現実社会との関わり方ふくめ、テーマ、被写体へのアプローチへの迫り方がハンパない。

「もっと眼が見えないものを撮っていく。もっと思想的に社会的なモチーフを探っていくという段階にきているわけです。今の場合モチーフとわれわれの関係とは非常に広く、かつ密接になってきている。道を歩いて財布が落ちていたから思わず拾うというような、落ちている財布を探すような撮影でなしに、はっきりと財布が落ちているにきまっているという、そういう財布の探し方になってきているわけです。」

作品となる対象を求める求道者ぶりには鬼気迫るものがある。

これらの文章が多く記された1950年代でさえ、写真機自体の技術的、機能的な発展に対し、写す側の人間性を鋭く説く。

「ピントが生々しく合うということはどうでもよくなった、ものがありのまま写るということはどうでもいい。だから、非常に能率の高い、いいレンズが出来て、高度に発展した科学に立脚しながらその機械的な条件を打破するというところに、われわれ写真家の目的があるわけです。簡単にいえば、科学としての、機械としての写真でなしに、人間の業、あるいは人間の叫びとしての写真をなんとかして手に入れたいということになるのではないかと思う。」

今のデジタル全盛の最新鋭機種を手にしたらどんなふうに思うのだろうか。便利になった分、我々は機械的な条件、高度に発展した科学を凌駕し打破することがますます困難になってきていると感じるが、それでも土門は人間の叫びをその作品に込めようと阿修羅の形相で仁王立ちするに違いない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: エッセイ
感想投稿日 : 2016年1月25日
読了日 : 2016年1月24日
本棚登録日 : 2016年1月18日

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