日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る (ブルーバックス)

著者 :
  • 講談社 (2020年9月17日発売)
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感想 : 74
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最近歴史の調査が進んでいることもあって、以前にがっこうで習った有名な事件の真相が一般の本でも紹介されるようになってきました。とても興味深く読んでいます、それらを読むと当事者である武将も、私が理解できる考え方や行動をしていたことが徐々にわかってきました。

さて、この本は新聞か何かの広告で見つけて興味を持ったものですが、海上自衛隊で船の設計などに関わった方が、サイエンス(様々な計算など)を通して、歴史上の有名な3つの事件、事柄(3つ目な戦艦大和の存在意義)について述べています。

どれも素晴らしい視点で歴史の事件を捉えていていますが、本人は歴史学者じゃないのでと謙遜していますが、本を読み限り、歴史書もかなり詳細に研究されているようです。特に、第一回目の元寇である文永の役にて、日本の騎馬武士たちも集団戦法を使って戦っている絵(p58)は驚きともに、なんだかホッとした安心感がありました。最初はともかく、最後まで名乗りを上げた戦いをしたなんて、信じたくなかったので。

この本は著者である播田氏の一冊目のようですが、今後も続編を是非出して欲しく思いました。

以下は気になったポイントです。

・高麗は元からの命令(6か月後に軍船建造)を間に合わせるために、伐採・輸送に大人数をかけて期間短縮をし、かつ原木の乾燥を省いて生木のまま加工を始めた、生木を使うと曲がりや歪みが生じて水漏れの原因となるが(p25)

・実際に戦ったのは蒙古兵の中の、雇われ高麗兵が多数混じった寄せ集めの歩兵集団で、騎馬兵は指令官クラスで3%程度、いまでも対馬、壱岐には「モッコリ(蒙古)」「コックリ(高麗)」と言うと子供が泣き止むという伝承が残っているといわれる(p38、39)対馬海峡を横断するには海流の2倍の速度(2−3ノット)は必要となる(p45)

・竹崎季長は肥前の御家人・白石勢のおかげで九死に一生を得た、日本の武士団はけして一騎討ちに固執していたわけではなく、むしろ集団騎兵による突撃戦法を多用していた、白石勢の騎馬軍団が蒙古軍を蹴散らしている絵はほとんど知られていない(p59)

・蒙古軍の上陸地点が息の浜でなかったとすると、文永の役の全容も全く異なってくる、宮崎宮は炎上したものの博多の街は燃えなかった可能性がたかい、博多の街は何度も燃えているので発掘からはどの時代のものか判別が難しい(p63)

・近年の研究では鎌倉時代でもじつは一騎討ちなどは稀であり、ほとんどが集団で戦っていることが明らかになっている(p76)

・蒙古軍5000と武士2000人の日本武士団は集団騎馬攻撃で武器効率をあげるランチェスター第一法則に基づいた戦略で戦ったことにより、歩兵5000人の蒙古軍と互角に対抗した。蒙古軍の死者は半数の2500で壊滅状態、日本武士団も半数の1000を失ったが、騎馬は740が残存という結果となる、日本側の文献と数字が合う(p82)

・二重構造の日本刀は振り降ろして相手の剣に当たった時に、硬鋼の部分は圧縮力が加わることで大きな衝撃、軟鋼の峰部分は延びて引っ張り力が働き、衝撃を吸収する、軽量ながらよくしなって曲がらず折れずよく切れる日本刀は接近戦最強の武器となった(p85)

・世界の剣の多くは単層の硬鋼製で、衝撃で折れなくするため、刀身は厚く、重量は重く、おもに突きと、腕力で叩き切るために使うが、湾曲した日本刀は引き切る力が主体で、突きも可能。湾曲している日本刀は馬上から振り降ろしても食い込んで落とすことはない(p86)

・蒙古軍は上陸に時間がかかって全軍が一度に進軍できず、小刻みに兵員を増やすという最悪の逐次投入となって失敗した。博多の戦いで蒙古兵の戦死者を5000とすると、全体の約19%となり軍事セオリーからは撤退しかない(p87)

・蒙古軍が恐れたのは日本軍に援軍がくることと、北西風が吹き始めること、旧暦11月になると吹き始める季節風で、これが吹くと玄界灘は大荒れとなり当時の帆船では渡れなくなる、高麗国王の死により出撃が3か月延びたことが決定的な遅れとなり、これが謎の撤退の直接の理由である(p88)

・戦国時代の部隊は、上級武将を指揮官とする部隊(100名程度)を一つの単位として構成していた。馬上侍10、長槍20、旗指物20、弓10、鉄砲10、小旗1名、小荷駄隊(食料、武器を馬で運搬)20−30、2万の兵隊ならこれが200組(p105)

・英雄と呼ばれる人々には、決してギャンブルに運命を委ねず、リスクを小さくする努力を最後まで怠らない共通点がある、桶狭間の戦い、関ヶ原の戦いも準備は周到極まりなかった(p144)

・砲弾の威力は砲弾の容積で決まり、それは弾径の3乗に比例する、なので41センチと46センチ(18インチ)では、威力は1.41倍となる、パナマ運河を渡る必要から運河の幅を考慮すると、アメリカは41センチ(16インチ)の主砲が最高であった(p159、165)

・戦艦大和の貢献として、1)日本の重工業や機械工業の基盤作り、造船業はあらゆる製造業が集約した総合産業、造船が戦後に興隆したのは、大型ドックとブロック工法による、2)大和の巨大な測距儀は、レンズから機械式計算機を使って距離を計測するもので、カメラ、精密機器の発展に貢献した(p219)

2020年10月8日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2020年10月8日
読了日 : 2020年10月6日
本棚登録日 : 2020年10月5日

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