震える天秤 (角川文庫)

著者 :
  • KADOKAWA (2022年8月24日発売)
3.27
  • (1)
  • (16)
  • (13)
  • (6)
  • (1)
本棚登録 : 144
感想 : 24
4

人類は法の下で生きている。歴史を見ても、法という考え方は古い。古代と呼ばれるような時代、法はすでにあり、そこで生きる人々は法に依拠し、法に従い、ときに法に抗って生きてきた。抗えば法に基づいて裁きを受け、法が決めた罰則を甘受することになる。ゆえに、法はいつも、人の罪に対する防波堤として機能してきた。
人の罪を定め、罪に見合った罰則が用意され、人々の秩序の維持装置としてそこにある。それが法だろう。

ところで、法もまた「人」が生み出したものである。人が自らを律するために編み出した秩序維持装置といえば聞こえはいい。だが、法というものが権力者によって恣意的に定められ、権力者がおのが権力を維持し続けるための道具となっていたともいえるのではないだろうか。

『震える天秤』は、法の及ぶ限界に挑んだ作品といえるかもしれない。
日々ニュースに流れる高齢者の運転の問題。曰く「アクセルとブレーキの踏み間違え」、曰く「事故を起こした高齢者は認知症の疑いあり」――。これらはもちろん法にしたがってその罪の度合いが検証されるが、認知症と判定されれば引き起こしてしまった事故に対する罪は問われない可能性もある。その多くは、最近しばしば見聞きする多くの事故の一つとして、瞬時に消費されてしまうだろう。
たとえ一見すると事故に見える出来事の裏に、高齢者による運転事故とは別の何らかの思惑が隠れていたとしても、それは事故というセンセーショナルなニュースに隠されてしまうかもしれない。思惑があるということは、つまり何らかの意図や目的が存在することをいう。思惑を隠蔽するために事故という事象が恣意的に使われていたのだとしたら……?

この物語には、過疎化が進み、限界集落の典型のような村が舞台として用意されている。こうした村には、パブリックな法とは異なる「ムラ社会」にのみ適用されるしきたりが存在する。村を一歩でも出ればそのしきたりは無効化されるが、村に住んでいる限りそれは”絶対”である。往々にしてしきたりは明文化されることはないが、村に住む人々は都会と比べて移動が少なく、人々の新陳代謝が低い。そこに住む人々は、固定化され、しきたりは口伝えに伝承されてゆく。一般にはしきたりを犯すいわゆる「掟破り」には、一般の法とは異なる重い罰が課されるように思う。そして、その村にとどまる限り、それはあらゆる法に優先して適用される。

さて『震える天秤』では、その村に住む人が、「村の外で」事故を起こす。村の外での事故を警察が捜査するのだが、彼らは当然現行法に基づいて「認知症の疑いのある高齢者が引き起こした、アクセルとブレーキを踏み間違えたことによる事故」という紋切り型の見立てを導き出すだろう。その結果として人が一人命を落としたとしても、法の下では事故は事故であり、認知症を患っている高齢者が引き起こしたのであれば罪には問えない可能性だってある。
一方で、村に住む者たちの結束は固い。超法規的ともいえるしきたりで、彼らは強固につながっている。それはしばしば過酷な環境下で生きなければならない村という環境に適応するための知恵でもあろう。都会のように、人間関係を疎結合にしていては生きられない。しきたりといった結束を固めるための装置は、村で生きるために不可欠なものである。だが、しかししきたりはことほど左様に強固であるがために、村の内外を排他的に分断する。
この物語では、村という結界の中で生きる人々が、結界の外で起こした事故に村の構成員としてどう向き合うのか。そのときに法としきたりはどう機能するのか。それらを描こうとした実験小説が、この『震える天秤』なのではないかと思えた。
取材を試みたフリージャーナリストの視点を通して、しきたりというベール越しに見えてくる真実、すなわち村人たちの思惑によって、最初に出会った事故はその姿をどんどん変化させてゆく。それをジャーナリストとともに追いかける読書体験は、思いのほか楽しく、かつ悲しい。
そして、しきたりに縛られる村人と、事故に関与しつつも村の外で生き、しきたりの縛りなく事故と向き合う村外の人々のコントラストもまた読みどころであるに違いない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説(ミステリー)
感想投稿日 : 2022年11月14日
読了日 : 2022年11月14日
本棚登録日 : 2022年11月10日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする