- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000224673
感想・レビュー・書評
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上村忠男の名前はスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』の訳者として知っていたのだが、政治思想の研究者として、歴史認識などに関わる多数の著作がある人らしい。その上村氏が済州島と沖縄についていい本を書いていると人に薦められて読んでみた。本は、若くして亡くなった韓国のグラムシ研究者の遺児である女子高生にむけた手紙という形をとりつつ、「歴史を、歴史の外に置かれているもの、あるいは『歴史の他者』との関係のなかで根本的に問いなお」すための導きを著者が得てきたというサイード、吉本隆明、森崎和江等々の著書を紹介する形で書かれている。だからといって、これら思想家たちの著作を平易な言葉で案内してくれる本だと期待したら大まちがい。手紙という形をとっていながら、ここには「対話」はなく、上村氏が語り続けるのはひたすらに自分の思想であり自分の「構え」なのだ。「他者に開かれた歴史のために」書かれた本としては、なんとも奇妙なことではないか。1960年代から思想形成をしてきたという著者が引用する本の中には興味をひかれる議論もたくさんあったが、著者が試みるのは、これらの著作を導きに、済州島や沖縄を「まったくの他者」として受け止めることで、知識人としての自らを「言説のヘテロトピア」へと転位することである。著者はこの構想をサイードの知識人論にならうものと考えているようだ。だが、知識人としての責任を自らにひきうけるサイードの実践は、自らの「構え」に終始するようなものではなかったはずだ。ひとりの実在する少女にむけた手紙という形をとりながら、実際には、彼女は対話を通して私の存在を揺るがせるかもしれない他者としては認識されておらず、ただ上村氏自身の思想を語る鏡の位置しかあたえられていない。この構図って、大浦信行の映画『日本心中』とか伊東乾の『さよならサイレントネイビー』にも共通してる。けっして言い返さない少女を鏡に、延々と私語りするシンポ的男性知識人たちの態度こそ、考察の対象として興味深いのでは?
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