- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000611770
作品紹介・あらすじ
軍部の独断専行に心を痛めつつ、最後は「聖断」によって日本を破滅の淵からすくった平和主義者-多くの人が昭和天皇に対して抱くイメージははたして真実だろうか。昭和天皇研究の第一人者が従来の知見と照らし合わせながら「昭和天皇実録」を読み解き、「大元帥」としてアジア太平洋戦争を指導・推進した天皇の実像を明らかにする。
感想・レビュー・書評
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伝記だからこそ編集者の意図(資料の取捨選択)が働いていることを認識して読まなければならない。公式な伝記ということで書かれていることがすべて正しいと思い込むのは非常に危険ということ。
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考え何処らが無数にある本。宮内庁編纂の「昭和天皇実録」を基にここに書かれたこた、書かれなかったことを、宮内庁職員が当たった第一次資料と比較しながら論じている。に昭和天皇=平和主義とのイメージを、意図的に再生強化せんとする点は明らか。これが実録の問題点であり、実録を読む場合の注意点。次に実録と第一次資料から浮かび上がる、昭和天皇の戦争責任の考え方。これは非常に複雑。わずか40歳前後で世界を相手に戦争を行う、その統帥の役を担わなければならなかったその苦労と苦悩。天皇の命すら守らない前線(関東軍)に怒りを露わにしつつ、結果が出ると起きてしまったことは仕方ないと事後承認、かつ、よくやったと褒めてつかわす。国土拡張を一義と捉え、太平洋での海戦連敗に何処かで米軍をガンと叩けないのかと地団駄を踏む。前後の象徴の役割は肩荷が降りたど同時に物足りなくはなかったか。昭和天皇を考えるとき、物事を単純に考えることはできない。戦況その他を、軍部のそれとは別に、真に客観的に分析しありのままを天皇に奏上できる人、組織、システムがあれば、統帥のあり方や天皇の判断もまた違ったものになったかもしれない。
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宮内庁『昭和天皇実録』が、昭和天皇と戦争・軍事に関わる問題についてどのように記述しているか、何を取捨選択しているかを批判的に分析している。『実録』に対しては、歴史学の現在の研究水準に照らして意識的な隠蔽や作為があることは、公開当初より多くの研究者によって指摘されてきたが、本書は特に宮内庁が企図する「昭和天皇=平和主義者」像と矛盾する史実、「好戦的」と受け取られるような行動や、積極的な軍事作戦介入・指令の事例(たとえそれが「適切」なもの、「有能さ」を示すものであっても)が『実録』に採用されていないことを典拠史料との比較から具体的に明らかにしている。
1980年代までの昭和天皇をめぐる歴史研究は戦争責任の追及と連動して、天皇の戦争指導への関与の究明が中心であったが、昭和天皇死後は戦時期以外の史料状況の改善もあって、平時における政治行動の解明に広がり、生涯全域に渡って個別実証の蓄積は進んだ。しかし、戦争責任論から「解放」された分、マルクス主義流の天皇制絶対主義説の失墜(さらに加えれば日本共産党の天皇制打倒方針の転換)もあって、戦時期の昭和天皇の動向に対しては、「不都合な事実」に目を瞑った奇妙な「立憲君主」論が学界でも幅を利かすようになり、むしろ後退している側面も否めない中、著者は一貫して昭和天皇の戦争責任の解明をライフワークとして孤軍奮闘してきた。日本社会・学界の趨勢を考えると、天皇制の批判的研究自体が再びタブー化する恐れもなきにしもあらず、それだけに本書は価値のある1冊である。 -
平和主義者で終始戦争には反対していたという昭和天皇像は虚像である。
帝国主義時代の国家元首、大元帥として戦争を指導した(しようとした)というのは、むしろ、こちらの方が自然であると感じる。
これにより、昭和天皇を責めはしないが、国家システムとしては、天皇親政はやはり無理であったということ。
東京裁判的には、戦争責任があるが、東京裁判自体が復讐劇なので、無視して良い。 -
「昭和天皇実録」が公表され、膨大な資料が明らかになったが、その内容はどうなのか検証した本。
しかし、いつ誰と何の目的であったか、どの会議に何の議題で出席したかなどは詳細に書かれているが、その中でどの様な議論が行われたかは殆ど記されておらず、実際の天皇の姿を拝察することはできない資料と感じる。
宇垣の「戦藻録」や杉山メモや近衛文麿等の資料を裏付けるものではあるのだが。
軍令部曹長永野大将
日米国交調整は不可能、戦争となれば一年半で石油を消費し尽くす、この際打って出るのほか無し(木戸幸一日記)
天皇
両国戦争となりたる場合、結果は如何。自分も勝とは信ずるが日本海海戦の如き大勝は困難なるべし。
永野
日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし。
天皇(木戸に)
捨て鉢の戦をするとの事にて、誠に危険なり。
武藤軍務局長
外交に万全の努力を傾け、天子様がお諦めになって御自ら戦争を御決意なさるまで精出せねばならぬ。
・御下問奉答資料
南方作戦(対米英戦)が一段落した後、北方攻勢(対ソ戦)の開始が前提
対ソ戦まで広げた場合はかなり苦しいが、対米英戦だけならば全く戦力・物資面での心配はないという論理。長期戦になればむしろ南方資源で戦力が培養され、米英には東南アジアの資源が流出せず、ますます有利になる。生産は年々増加するのに対し、損失は1942年をピークに以後減少を見込む。
上記に基づき、陸軍統帥部は奉上を繰り返す。
・天皇の度重なる細かい戦術意見。
ガ島への戦艦金剛・榛名による艦砲射撃について作戦のマンネリ化を戒める。これを軍令部は重視せず、結果、待ち伏せ攻撃に合い、戦艦比叡・霧島を失う。
イタリアの敗北を受け、ドイツ日本とドミノ倒しを危惧。参謀総長に「日本も考え時に非ずや』(真田少将日記)
実録にはシチリア島における戦況に付き奉上を受けられるとのみ記されている。
サイパンの確保を天皇は主張するが、結果大敗北(大型空母沈没3隻、航空機喪失395機、他空母4隻中大破で連合艦隊機動力は壊滅、米軍の損害は極めて軽微。
台湾沖航空戦奉上
敵空母16隻撃沈破と奉上、実際は空母2隻少破のみで沈没は他の艦船も含めゼロ。しかし奉上は訂正もされず。
全体を通し、軍は戦争の状況を見通し、実情把握のレベルが低すぎる。これは決して結果を知っているからではないだろう。この程度の能力で戦争をするのだから犯罪以外の何物でもない。これらが九段に祀られているのだから恐れ入る。
天皇についていえば、実録にて軍事・政治・儀式に関わる天皇の姿が残されたことは評価できるが、戦争・作戦への積極的な取り組みのあり方は殆ど抹消されている。過度に平和主義のイメージを残したのは問題であると結論付けてある。
これらの資料を読んで感じることは、天皇は政治には立憲君主として自身の主張を強く言うことは控えられているが、軍事に関しては大元帥という立場であり、積極的に関与するのは当然というか必要と言えよう。実録ではそれらを敢えて記載しないことは残念でならない。 -
昭和天皇の正式な伝記としての「実録」に書いたこと、書いていないことを通して、実は天皇が、戦争の実態を知らされていなかったのではなく、戦争にポイントでは深く携わり、陸海軍への不満を持ちながらも、戦争に積極的な姿勢になっていたことを著者は主張する。不満とは暴走に対する不満だけではなく、戦争への自信を持っていない事への不満が随所に出てくる。陸軍観兵式への年3回の参加への記録が詳細。また15年戦争の開始から終結までの数多い御前会議、面談者の記録などから、相当の情報を把握していたと考えられる。実録では、戦争の関与を書かず、平和主義者としての強調を図りつつも、少ない記述から天皇の戦争への関心の深さが推察されるようだ。天皇自身、そして側近たちの日記からその実情を探っていく。
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実録では、昭和天皇の平和主義なイメージを損なうような記述が出てこないことが多い。
天皇は、陸軍中野学校の設立は国内政治に対する謀略ではないかと懐疑的だった。
天皇は、軍の戦線拡大に非常に不満でそれを抑えようとしたが、結局軍が拡大していったときにそれを追認していった。帝国主義君主として、領土を穏便に拡張していくことは当然と思っていたのが影響したのか。