- Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003102824
作品紹介・あらすじ
芭蕉・蕪村・一茶・子規など元禄から明治まで29人の俳人の句およそ200句をとりあげ、俳句とはどういうものか、どう味わったらよいかを説く。ずばりと句の核心を言いあてる評解、自在な語り口は見事という他はないが、その背後には「俳句は即ち芭蕉の文学」だとする虚子(1874‐1959)の確信があった。
感想・レビュー・書評
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初めて俳句というもの触れたが、かなり面白!90年前の文章とは思えないほど、粋で瑞々しい文章だ。大岡信による解説文の方が古臭く感じるほど。読後もトイレに常備してたまにページを開いている。
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紹介された句の中で、芭蕉と一茶の良さが際立つ。
多量の句を簡明な解説とともに読むため、俳句とは何かを体験できるようになっている。
161ページからの詳解は、力強い説明で、納得しやすい。166ページの想像せよ、感じないだろうかを畳み掛ける文章は、俳句における趣を理解してもらおうという筆者の意思の表れである。句を音読しながら読んだが、リズムや情景が大変おもしろかった。 -
俳句のお勉強を考へてゐた時、子規の句集とともに並んでゐた。
自分で俳句を考へるにあたつても、ひとの俳句を句会で選ぶにあたつても、結局どの俳句がよくて、さうでないのかがわかつてゐないことが多く、鷹羽さんの著書から学ぶことはかなりあつた。
ものを発見すること。俳句の目指すところはそこだと思ふ。ひたすらに自分の気持ちを排除する。なぜなら賢しらな人間の目によつて、もののかたちが歪められてしまふからだ。
発見をするといふことは紛れもない観察者の存在を前提としなければならない。しかし、詠まれた俳句からは徹底して観察者を排除する。もののかたちといふものは、この絶対的な矛盾をどういふわけか成り立たせてしまふ。
虚子といふ方も存外、これまでの日本の数々の芸術書の執筆者に違はず、多くを語らない。これは良い句。あまりよくない句と、批評はいたつてシンプルである。何がどうかうではなく、それは詠めばさうなつてゐるのだから仕方ない。
きれいなもの風景を頭の中で作り上げる。しかしそれはものの姿ではない。あくまで頭の中であつて、作意にしか過ぎない。自分でものを見つける。そこに俳句の始まりがある。 -
的確な解説。芭蕉の文学としての俳句論。