ジェルミナール 下 (岩波文庫 赤 544-9)

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  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003254493

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  • この岩波文庫版『ジェルミナール』全3巻は1994年に一度復刊され、現在再び売り切れになっているようだ。翻訳は1954年のもので古く、旧字体が使われている。慣れてくるとふつうに読めるのだが、苦手な人は論創社でハードカバーの新訳が出ているようだから、少し高いがそちらを読んだ方がいいかもしれない。
    世界文学史上の傑作に数えられる作品だろう。
    『居酒屋』『ナナ』に比べても圧倒的にストーリーが面白く、ぐいぐいと引き込まれる。
    鉱山労働者たちの悲惨な窮乏をえがき、彼らの全面スト抗争をテーマにしているのだが、いたずらに「労働者」を理想化するでもなく、彼らも、ブルジョワ(使用者層)も、いちようにリアルに、醜悪さそのままに造形化している。
    職を求めてふらりとやってきた『居酒屋』の洗濯女の息子エティエンヌが主人公で、めきめきと仕事を覚え、人望も上がり、にわか仕込みながらマルクス主義的な思想をかじってストライキのリーダーとなって、その演説で人びとの大喝采を浴びるに至る過程は、ほとんどRPGの「勇者」のような上昇過程であるが、予想どおりストライキは2ヶ月にまで長期化して人びとは飢える。
    労働基準法など存在もしていなかった当時、エティエンヌと共に知恵をめぐらす幹部も存在しなかったし、統率のとれない労働者集団は単なる暴徒と化す。
    「パンをよこせ!」と怒鳴りながら彼らは徘徊し、使用者側にすりよっていた商人の死体を蹂躙する。この、死体に対する陵辱の場面はむごたらしく、たぶん当時のフランスでも読者をぎょっとさせたのではなかったか。YouTubeでの米兵の動画をも連想させるこのショッキングな場面のゆえに、この小説が『居酒屋』『ナナ』ほどに日本で有名になりえなかったのかもしれない。
    しかし群衆の残虐を、エミール・ゾラは冷静に淡々とえがく。ちょっと白戸三平の『カムイ伝』『カムイ外伝』を彷彿とさせる。
    ゾラは「群衆」の描写がうまい。
    なにか共通の概念を得ることで、人びとは一体化して熱狂し、自らの「正義」を疑うことなく暴力的行動にまで走るが、きわめて気まぐれでもあり、何かつごうのわるいことが起きるとそれを一斉に誰かのせいにし始め、恩も昨日の信頼も忘れて、生け贄をつるし上げる。・・・こうした「群衆」の姿は、現在の「日本国民」そっくりそのままでもある。
    主人公エティエンヌはストの失敗を周囲から自分のせいとして責められ、友人のアナーキストが仕組んだ事故で崩壊した炭鉱に閉じ込められるが、究極の飢餓を乗り越え、最後はたった一人、生き延びる。会社をクビになるものの、こんどはパリで革命理論家として活動を始めようという、ラストは希望に満ちた雰囲気で終わる。
    ゾラはマルクス主義というか、共和主義に希望をもっていたのだろう。
    「ストライキ」なるものの草創期をえがいたこの小説のインパクトは強烈だが、この時代から100年を経て、労働者たちの権利はかなり制度的に守られるようになったし、文明圏ではほとんど「飢える」ほどに困ることはなくなった。私たちは膨大な先達が築き上げてきたものに乗っかって、あぐらをかいているわけだが、肉体労働や「ぎりぎりの生活」から遠く離れることで、「リアルな生の意識」というものまで失ってしまった。
    この小説はそうした原初的な生の光景を蘇らせてくれる。

  • 「それは無限の悲哀だった、世代の苦難だった、人生の陥り得る極度の苦悩だった。」


    よわった心につけこむやつらはずっといる。苦悩を救済の刺激とみなすこと、それこそが哀れであると、そんな寛容がいたくて眩しい。
    スヴァリーヌの絶望。にんげんへの愛と期待ゆえの絶望。無責任な無関心。凶暴化する人びと。バタイユとトロンペットの友情。ネグレルの献身的探索。
    みんな、怒りの矛先をさがしている。ひとはどこまでも残酷で、独りよがりなやさしく儚い生きもの。
    愛だけじゃ幸せになれない。けれど愛さえあれば、幸福になれると信じる日もある。欲しかったのは、それだけだったのかもしれない。すべては、愛のためだったのではなかったか。?? それも欲望のひとつに堕ちてゆく。
    スヴァリーヌの神々しい描写の理由。けれど 神 もまた、ひとびとを惑わすもの。そんな皮肉がおかしい。わたしたちは、いまにも崩れそうなこの "地上" において、ひとつの出口をもとめて翔ける。生の深淵へと。
    ああ、なんという悲哀。なんという諦観。なんという希望なのだろう。
    「生きていることは善いことだ、旧い世界はいま一度び春を生きたいと希っているのだ。」
    夢は夢のなかで夢のまま、その安寧の夢をみる。


    「ああ、神さま、今度はあたしの番です、あたしを取って下さい!・・・・ ああ、神さま、憐れと思って亭主を取って下さい、他の者たちも取って下さい、そしたらかたがつくんですから!」

    「負けた者の密かな願いが爆発したこの叫びの中で彼の眼は濡れていた。それこそ彼が苦悩を永久に失いに行きたかった逃げ場だった。」

    「おまえたちはな、何か自分のものを持っている限り、またブルジョワに対するおまえたちの憎しみがただブルジョワになりたくて堪らない要求だけから来る限り、決して幸福になる資格はないだろうぜ。」

    「一体、誰の罪なんだ?」

    「こういう経営者たちは絶えず腹を空かしている資本という食人鬼に一人ずつ喰われてゆき、大会社の澎湃たる上げ潮に溺らされて間もなく消滅する運命にあったのである。」

    「大地は復讐しているのだ、大地は動脈を切断されたので、こんな風に血管の血を放出しているのだ。」



  • 中下巻は、まとめて感想。

     四部からは資本家と労働者の衝突が激化。しかし、おそらくなかば本能的に森の中でスト突入の気勢をあげる力強い場面の一方で、最初の段階から一枚岩とは言えぬ新しく外部からあらわれた指導者エティエンヌに対する古参の活動家の嫉妬から来る足並みの乱れや、一労働者から急速に仲間うちの指導的地位に成り上がったことで慢心におちいるエティエンヌ、またエティエンヌと張り合うことでスト破りに走るライバルの姿など、活動につねに付随する醜悪な人間関係も漏らさず描かれている。

     ストライキに突入するも、軍も派遣され緊張状態、衝突をさけつつスト破りの鉱夫をつかまえてつるし上げ、労働者の憎悪の的だった商店の店主を事故死に追い詰め、死体をも損壊して辱める。これもまた民衆運動のまぎれもない一面。強い憎悪は生活的にかけ離れた上流階級よりも、とりあえず自分に近しい階級のものにたたきつけられる。それは、彼らが自分たちと同じ階級に属するにもかかわらず、自分たちの階級(固有)の倫理を遵守しないとみなすから。

     ストライキは工場に打撃を与えつつも、準備不足のままストに突入を強いられた労働者の生活はそれ以上のペースで困窮。頼みの第一インターからの支援は焼け石に水。マユの家でいちばんこころ優しい娘だったアルジールは栄養失調から体調を崩して医者にも手の施せぬままに死ぬ。エティエンヌの約束した言葉におぼろに夢見た理想郷との落差に恨み言も言わず。


     ロシアからの亡命革命家スヴァリーヌはフランス人気質を激しく痛罵。
    「それがおまえたちフランスの勞働者全部の考えなんだ、寳物を掘り出すと、それからはエゴイズムとのらくらの一隅に納まり返って、獨りッきりでそれを食おうというのがな。おまえたちなんか金持連中を大聲で責め立てたって意味がない。おまえたちには運好く手に入れた金を貧乏人に返す勇氣なんかありゃしないんだ……。」
     物質的利益に拘泥するフランス人労働者を責めるスヴァリーヌの言葉はますます亢進してゆく、「おまえたちはみんな薙ぎ倒され、ひっくり返され、腐敗の中にぶち込まれるだろう。おまえたちのような臆病者と享樂家の胤を根絶やしにする人間が生れるだろう。ほら、おれの手を見ろ、もしこの手で出來るなら、こんな具合に地球を摑んで、粉々に碎けるまで揺すぶり、おまえたちがその殘骸の下敷になっちまうようにしてやるんだが。」

     たやすく国民性ということは言わない方がいいとは思うのだけれど、このときやはりスヴァリーヌはスラブ的としか言いようのない心性を示している。ほとんどドストエフスキーの人物が唐突にあらわれたようである。物質的な闘争を軽蔑し、だしぬけに全世界の獲得さもなくば破壊へと至る革命への希求者にはまた別の物語があるだろう。



     スト破りとしてさらにベルギー人が導入されて、工場は運転再開を目指す。小さな描写しか与えられていないがここはわりと重要。工場の再開を止めさせようとする労働者、炭鉱へ突入し憲兵隊とにらみ合う。「他国者を殺せ!」投石が始まり耐えかねた兵士の発砲から斉射へ。労働者のまとめ役だったマユ、多情な女ながらエティエンヌの言葉をキリストのものように受け止めていたムケット、小娘のリヂらも打ち倒される。


     労働者に衝撃を与えた一方で、工場は懐柔策も用意し、問題の一因となったベルギー人鉱夫の解雇をしらせる。ここにフランスの炭鉱夫よりも悪い条件を課せられ、資本の都合のいいタイミングで今日に雇われつつ国内労働者の直接的な憎悪を浴びせられ、明日になれば無権利のまま、また路上に放り出されるという外国人労働者の問題が端緒的にあらわれている。『ジェルミナール』のなかで、このベルギー人炭鉱夫たちは、一人として個人としては描かれず、また主体的な声を発することもない。またフランス人の鉱夫から、彼らの声を聞こうという働きかけも一切ない。いや、今だってこの問題は解決していないのだ。


     生活の悪化で組合は壊滅状態、英雄だったエティエンヌは一転して、かつての仲間たちから石もて追われる立場に。労働者は三々五々生産に戻り、ジャヴァルと別れ、マユの家に帰ってきたカトリーヌとともにエティエンヌも生活のために鉱山に入る。しかしある人物のサボタージュにより鉱山は崩壊。エティエンヌやカトリーヌ、ジャヴァルたちは生き埋めとなる。


    「それから彼は最後の卷煙草を投げ棄て、振り返りもせず、眞暗になった夜の中を遠ざかって行った。遠くのほうでその影は小さくなり、闇と溶け合った。彼の赴く所は彼方、未知の國だった。町と人間を吹き上げるために、ダイナマイトのある所ならば何處でもよい、彼は平然たる態度で根絶に赴いたのである。斷末魔のブルジョワジーが、足下で、一歩あゆむ毎に、街路の舗装が破裂するのを聞くことがあればあれば、それはきっと彼の仕業であろう。」


     悲惨な事故を前にして、鉱夫たち、また工場主の一族であり共和主義者を名乗りながら一貫して斜に構えた態度を崩さなかった技師ネグレルらの恩讐を越えた救出活動が行われ、死の直前のカトリーヌとついに結ばれたエティエンヌのみが救われる…。




     筋書きだけを取り上げれば、重苦しい、あまりに重苦しい物語なのだけれど、しかしここにはやはり死と再生をくぐりぬけた主人公がいる。敗北に次ぐ敗北の物語に「芽生えの月」のタイトルを冠したゾラの意図は明らかで、開幕において星影もない、暗く広漠とした裸の大地を越えて町に入ってきた場面とは対照的に、生き残ったエティエンヌは春の日差しのもと、労働者の組織をふたたび、今度こそは強固に組織し、練り上げられた準備の下に闘争を続けることを決意しながら鉱夫街を出てパリへ向かう。

     その後のエティエンヌの道が、しかしやはり平坦でないことをわたしたちは知っているけれども、それは醜さまでも含めて下層の庶民の闘いを描ききったこの作品の価値をなんらおとしめるものでは、ない。わたしはこの作品が大傑作であるという立場に立つ。

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著者プロフィール

エミール・ゾラ
1840年、パリに生まれる。フランスの作家・批評家。22歳ごろから小説や評論を書き始め、美術批評の筆も執り、マネを擁護した。1862年、アシェット書店広報部に就職するが、1866年に退職。1864年に短編集『ニノンへのコント』を出版、1865年に処女長編『クロードの告白』を出版。自然主義文学の総帥として論陣を張り、『実験小説論』(1880年)を書いた。1891年には文芸家協会会長に選出される。

「2023年 『ボヌール・デ・ダム百貨店』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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