- Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003258712
作品紹介・あらすじ
夢と狂気の領域に文学の世界を切り拓き、フランス幻想文学の祖とあおがれるノディエ(1780‐1844)の傑作アンソロジー。入れ子のようにつぎつぎと重なってゆく悪夢を描いて読む者を感覚の迷路へと引きずりこむ「スマラ(夜の霊)」、愛すべき妖精と美しい人妻の哀しい恋の物語「トリルビー」など6篇を精選。
感想・レビュー・書評
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フランス幻想文学の祖と呼ばれる
シャルル・ノディエ(1780-1844)の短編集、全6編。
採集した民話を取り込んだような素朴なテイストあり、
夢の入れ子が織り成す、おぞましいタペストリーあり、
心の美しい者に対する優しい眼差しあり……といった趣。
図書館館長に任ぜられ、館内の住居で亡くなったというのは、
少し羨ましい気がしないでもない。
以下、全編についてザッとネタバレなしで。
■夜の一時の幻
語り手は深夜の墓地で出会った奇妙な男の身の上話を聞いた。
孤独な心と心の穏やかな触れ合い、そして、幻影の共有。
■スマラ(夜の霊)
魔女と精霊が跋扈する悪夢の入れ子。
恋人リシディスとイタリアのアローナで幸福に過ごす
ロレンツォが見た甘美にして奇怪な夢の世界。
■トリルビー~アーガイルの小妖精(スコットランド物語)
慎ましく幸せに暮らす夫婦の家には、
トリルビーという名の小鬼が住み着き、
他愛無いいたずらの傍ら、妻の動静を見守り、
時にはさりげなく彼女をサポートしていた。
ところが、ある日、妻がそれを夫に告げたところ、
夫が司祭に相談したため、大事(おおごと)に……。
あなたが、あなたを愛する僕の存在を確信し、
家にいることを許してほしいだけなのだと、
プラトニックラヴを黙認してくれと訴える
トリルビーだったが、
妻は妖精に気を許すことすら不貞の域に入ると捉えて
煩悶するのだった(うーむ……)。
■青靴下のジャン=フランソワ
18世紀末のブザンソンに、
偏執狂にして幻視者でもあるジャン=フランソワという
青年がいた。
彼が見た白昼の幻、そして、予言とは……。
■死人の谷
16世紀、万聖節の晩の事件、
隠者の谷が「死人の谷」と名を替えた出来事。
旅人を快く迎え入れる人のいい鍛冶屋と
その家族の許に現れた、奇妙な二人の客について。
■ベアトリックス尼伝説
一度は修道院を裏切り、挙げ句、身を持ち崩した
ベアトリックスだったが、
神への愛を失わなかった彼女にもたらされた奇蹟とは……。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フランス幻想文学の祖といわれるノディエ(1780-1844)の短篇集。夢や狂気を通して、現世や理性の向こう側を描こうとしていたように思う。こうした幻想的な作風が、ゴーティエやネルヴァルなど次世代のロマン主義作家に受け継がれていくという。
「夜の一時の幻」(1806)
本短編集の中では一番印象に残っている作品。美は、現実世界の内部に於いては、つねに喪失態という在り方でしか、それゆえ憧憬の対象という在り方でしか、在り得ないのか。卑小さと幻滅とで埋め尽くされた即物的な現実に、美が現前する余地は無い。欺瞞的な名付けと暴力的な整序とで以て断片化された世界を sachlich に遣り過ごすための技術としての理性に対して、美は常に捕捉し尽せない過剰であり続ける。理性と現実の外部への、夢と幻想と狂気への、ひいては死への超越によって、初めて成就される=決して成就されざる、美への全き陶酔・没入・合一。
「かわいそうな狂人よ!・・・。地上の空しい科学など、きみがいま見つけたものにくらべたらなんになるんだ?・・・、きみには不明なところはひとつもない。きみの日々を雲がいくらか覆っていたとしても、この星のように、きみはそれを抜け出して、新しい生の中に生まれながらの品位と美しさを取り戻すのだ」
ロマン主義的な美と狂気と死の観念をよく表している。
「スマラ(夜の霊)」(1821)
夢の中から夢の中へと転位しつつ溢れ出てくるイメージ。誰の夢なのか・どこまでが夢なのか。それを追う速記術のように綴られていく過冗な語彙と比喩。こうした夢を記述しようとする試みが、遠く20世紀のシュルレアリストに受け継がれていったのではと想像する。目眩くイメージのスピード感のある連なりが自動記述(オートマティズム)を連想させた。
一度読んだだけでは筋を十分に読み取れなかった。「・・・のような」という冗長とも思える比喩の修飾句が多く、どの表現が現実そのものの描写でどの表現が比喩であるのか、混乱してしまったのが原因だった。長い文中のどこが比喩の部分であるのかを確かめながら、そこをカッコに入れていくような気持ちで読み進めていくと、それなりに筋が理解できた。筋が分かってしまうと、とても面白く読むことができた。
「青靴下のジャン=フランソワ」(1832)
こうした日常のすぐの隣にありそうな不可思議さという趣が面白い。尤も、狂人に超自然的な能力を見出して称揚したがるロマン主義的心性は、正常者・健常者というマジョリティ=特権的立場からの"施し"とでも云うべき代物であって、サイードが批判したオリエンタリズムと同様の、いわば差別意識の裏返しであると思う。
そもそも、理性による断片化を被らない無垢なる全体性という観念を措定することは、逃れていくべき外部・遡及すべき起源・立ち帰るべき土壌といった観念を措定することは、不可能だ。目指すべき超越の辿り着く先、その終着点というようなものは無い。なぜなら超越それ自体が無際限の反復運動としてしか在り得ないから。帰るべき場所は無い。この断念を痛切に意識できるかどうかが、所謂19世紀ロマン主義と20世紀の時代精神との分水嶺となるのではないか。
冒頭、優れた幻想物語を創り出すための最も大事な条件は、自らそれを信じることだ、と述べてから次のように続けているのが興味深い。ここに、幻想ひいては虚構とその作者とのあいだにある根本的な矛盾の機制が表現されているように思う。幻想作家は常に予め醒めてしまっているのか。
「ところが、自分の作りだすものを信じている人は一人もいないのだ。うますぎる効果の組み合わせや、凝りすぎた頭の遊び、下手な警句などが、すぐに、語り手の話の中に不信家の姿をあばきだしてしまう。すると幻影は消えてゆく。ちょうど種あかしをした手品師か、操り糸を見せてしまった操り人形師のようなものだ。まるで影絵芝居の散文的で興ざめな舞台裏のように、すべてが一度に消えてしまう。仕掛けを見てしまったのだ。・・・。なんといっても消えてしまった幻影くらい馬鹿ばかしいものはないからだ」
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その他、ロマン主義的な感性がよく表れていると思われる個所を幾つか引用しておく。
「もうすぐおれと婚約する約束もしてくれた。なにしろ、オクタヴィはいつもおれのほうに手を広げていてくれるんだ。・・・。たしかにいままではそれに触れられなかった。でも、もうすぐ、時が来る。そうすれば、その手がおれをつかんで空のかなたへ連れていってくれる」(「夜の一時の幻」)
「こんな昔のお伽噺や魔法仕掛けを信じてたまるか。恋するものや、気違いや、詩人なら頭がかっかと燃えていて、空想は幻で満たされているのだろう。やつらの考えることといったら支離滅裂で、理性の限界を越えてさまよいだすのだ。 シェイクスピア」(「スマラ(夜の霊)」) -
目的は収録の1編「スマラ」。
50ページほどの短編ですが「レシ(物語詩)」「エポード(第三歌)」といった章に分かれてます。文も内容も、イマジネーションにあふれていて、小説と言うより散文詩と呼んだ方がよい気がします。
だとしたら、装飾の多い華麗な文に酔うのが正解なのでしょう。残念ながらこちらの感受性不足で、ほろよいにはなりましたが酔いきれなかったのは少し寂しい気もしました。
若い頃に出会うべき本であったかというと、それはそれで甘い毒に当てられてたかもしれません。 -
夜の一時の幻
スマラ(夜の霊)
トリルビー
青靴下のジャン=フランソワ
死人の谷
ベアトリックス尼伝説
著者:シャルル・ノディエ(Nodier, Charles, 1780-1844、フランス、小説家)
編訳:篠田知和基(1943-、中野区、フランス文学) -
再読。やっぱり「スマラ」がとても怖い。構造も複雑で夢や妄想と現実の境界がわからなくなる。スマラという怪物そのものも恐ろしいし。
「トリルビー」はキリスト教がケルトの妖精などを邪神よばわりして追い出そうとした歴史が背景にあると思うので、ちょっと腹立つ(※作中の修道士に)。妖精トリルビーに愛されて板挟みになる女性ジャニーも、基本身勝手なのであまり同情する気になれない。
※収録作品
「夜の一時の幻」「スマラ」「トリルビー」「青靴下のジャン=フランソワ」「死人の谷」「ベアトリックス尼伝説」 -
入れ子になっていたり、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか曖昧模糊とした作品が並んでいます。これがフランスの幻想小説なのでしょうか。ストーリーを追っていくのは大変ですが、世界観に浸るには申し分ない面白さでした。作品の配列としては後に行くに従って読みやすい、理解しやすい作品になっているように感じました。
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いったいどこまで沈んでいけば、あるいは浮上していけば目を覚ますことができるのだろうと、読んでいる間ずっと、つかめない現実をつかもうとあがいていたような感覚が続いていた。はまりこんだぬかるみはしっとりとしていて冷たく、悲しいほどに甘美で恐ろしい。妖精も悪魔も幻視者も霊もほぼ同等に忌まれる中、過ちから生まれた最後の奇跡だけが光を掲げているが如く見えるのが何とも皮肉めいている。
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ここに描かれているのは、狂気ではなく狂乱だ。全てが激しく蠢き、動揺している。その摩擦熱に、それぞれの物語の登場人物がうめき声をあげているような感覚だ。確かに、一見すれば、そういう状態は狂気に見えなくはない。だけど、その芯には、確かな意思の力強さを感じる。だからこそ、こうして、一つの作品として、大きな流れになっているのではないか。
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日本ではあまり知られていない作家ではありますが、幻想文学の分野では有名な作家です。『スマラ(夜の霊)』の悪夢と狂気に満ちた世界や、何処かほろ苦い妖精との恋物語など、童話的なものも書いています。
まさに幻想異譚。