- Amazon.co.jp ・本 (159ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003311813
作品紹介・あらすじ
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」-こう説きおこした新渡戸(1862‐1933)は以下、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察し、武士道がいかにして日本の精神的土壌に開花結実したかを説き明かす。「太平洋の懸橋」たらんと志した人にふさわしく、その論議は常に世界的コンテクストの中で展開される。
感想・レビュー・書評
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今年2024年で、書かれたのは1899年(明治32年)。
125年前のこと、しかも38歳の時。
この時代に世界中の文学を勉強をし、そして日本の精神の根本にあるものは何であるのかを、実際にあったことに触れて、またヨーロッパの歴史や文学を引用して描き出されている。この本で日本人の精神道徳の成り立ちが世界的に一段と広まったのだろう。
あなたの宗教は何ですか? と問われたら
私は一応 仏教です、と答えるが、日本人の根本にあるのは、封建制度の武士道から裾にひろがった精神なんだと、改めて気が付いた。
桜を愛でる日本人で良かったな、と思う反面、果たして今の日本人は何処にいる? 何人いる?と探している。そして日常生活の中で傲慢になっている謙虚のなさをも反省もしている自分がいる。
新渡戸稲造さんの本 もっと探してみよう!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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有島武郎の母方の親戚である新渡戸稲造の著。有島周りの知見を広げるため読んでみる。本著は全編英語によるもので訳は矢内原忠雄によるものになる。昭和15年から始まる矢内原の仕事は戦後現代語訳も担当し、おそらく矢内原での本作が広く知られているのではなかろうか。
著作の発端は新渡戸とラヴレーの「宗教無くしてどのように道徳教育を授けるのか」から始まる。ラヴレーだけではなく米国人であった妻からも問われ、半ば苦し紛れに武士道と答えたところが本著の発端になる。キリスト教文化圏に武士道を単元ごとに伝える作品であるが、訳者矢内原曰く、新渡戸が熟読玩味していたカーライルの影響を受けた「簡潔・真摯なる行論中に諧謔皮肉を交えたもの」になっている。
そう、皮肉が効いているのである。少なくとも想像よりもかなりライトに読むことができる。
おそらく薩摩士族の英才教育に苦しめられてきた有島が新渡戸を師と仰ぐ理由はここにあるのではないだろうか。
このためであろうかやはり当時の評価として右派による批判はあったようだ。
しかし、訳者が違う版(峰竜一郎版か?)なのだろうか、感想サイトに私とは印象が違う感想を書かれているのをみて、本当に同作を読んでいるのか不安になった。 -
図書館で借りた。
新渡戸稲造がアメリカにて英語で出版した本の和訳版。文字通り「武士道とはなにか」を語った本だ。150頁くらいなので、さらっと読める。
新渡戸稲造という人物はお札にもなっているのでもちろん知っていたが、その新渡戸稲造が書いた本は初めて読んだ。歴史人物や文学作品からの引用がものすごく多く、都度都度クイズ的に「あの話知ってるよな?」と問われているような感覚を受ける。文系の教授センセイってこんな感じなのかな、という印象だ。最後にはそれらの登場人物の索引まで付いている。
アメリカでも話題に登った本ということだが…、肝心の本質『武士道』については「まぁ、そうかもしれないですねぇ」くらいの印象。道徳、人・義・礼・智などの思想、ハラキリなどについて記述されているものの、前途の引用クイズの印象が強すぎて、私には正直ピンとこなかった。
wikipediaなどによると、この本で武士道を語るにはダメだと反対論者がいるらしいが、それはそれで理解できる気がしたし、同時に武士道を英語で記したことにこの本の価値があるのだろうとも感じた。 -
2022/12/13 読書会課題本
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「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」。こう述べる新渡戸(1862―1933)は、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察し、武士道がいかにして日本の精神的土壌に開花結実したかを説き明かす。「太平洋の懸橋」たらんと志した人にふさわしく、その論議は常に世界的コンテクストの中で展開される。
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武士道を体系的に解説している。だいたい儒教の解説。現代でも大和魂・侍魂などと称されるものがこの武士道精神だと思う。
将来的に物質面での成功を求める功利主義と道徳はキリスト精神のみ生き残ると予想している。実際功利主義は完全に現代社会の大前提の思想となっている。キリスト教は力を徐々に失い無神論者が増えている。現代の道徳を担っているのはどこなのか自分は知らない。 -
儒学の立場から武士道を確立。山鹿素行『武家時紀ぶけじき』1673
毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができる。武士道というは死ぬこととみつけたり。山本常朝つねとも『葉隠』1716 ※佐賀藩士
信実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である。▼礼節をわきまえ、惻隠の情(同情心)を失わず、私心を捨てる。▼武士道が重んじるのは行動である。知識ではない。新渡戸稲造『武士道』1899
※欧米人の疑問「宗教がなくて、どうして道徳を授けられるのか」に答えるため。
※日清の後、日露の前。
「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふことを「葉隠」は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。三島由紀夫『葉隠入門』1967
「あなたは無心になろうと努めている。 つまりあなたは故意に無心なのである。 それではこれ以上進むはずはない」こう言って先生は私を戒めた。オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』1982 -
新渡戸稲造氏が1900年に英語で出版したBushidoを、1938年に矢内原忠雄氏が日本語に訳したものですが、本書ほど欧米における日本理解を促進させた本はないのではないかと思われるほど重要な本だと思います。新渡戸氏は主要読者が英米国人ということ、かつ本人がキリスト教徒ということもあって、武士道の考え方をキリスト教との比較、あるいは古代ギリシャ、ローマ、あるいはシェイクスピアなど英米文学の巨匠の言葉を参照しながら解説しています。そのためか日本人であれば相当の高い教養がないと全文を理解するのは困難なのですが、本書を読んで腹におちるところが多々あり、武士道の思想は現代日本においても生きている、と断言できることも確かです。1回だけ読むのではなく、何度も読めば読むほど味が出て理解が深まる本です。
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義理の解説に納得するものです。
キリスト教文化圏の人が「愛」を動機として為すべき、と教えられ身に付けている家族や隣人への行為を、
日本人は、たとえ愛が不足している場合でも「義理」を感じて実践する事が出来る。
と、僕は理解しました。
逆に言うと、日本人に「愛」を求めるのには無理があると思いました。
例えば、「義理」として家族の看病をする日本人に、「愛」を以て看病をしろ。と求めると、少々酷なように思います。
義理として看病するにしろ、
愛情をもって看病をするにしろ、
実際のところは同じ事をしているのですから、あえて
「愛情を以て接しなさい。」
と言う必要は無いと思います。
アメリカのテレビドラマなどを観ていると、恋人同士は頻繁に言葉で愛情がある旨を発言し、確認しています。
本書を読むと、
「なるほど、キリスト教文化圏で育った人は、家族や近しい人へ接する際には、根拠として愛が必要で、それを表現する訓練をしながら育ち、平然と表現できるのだな。」
と理解出来ました。
ただし、これを日本人に求めるのは、やはり無理だと思います。
例えば、しばしば
「子供に愛情がわかず悩む」
と親の嘆きを耳にしますが、
僕はそんなときに
「日本人なら当然です。愛情が沸かずとも、義務として接してあげましょう。」
とアドバイスをするとずいぶんと楽にしてあげられるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
家事や、家計のための収入を得るための仕事を、
義務として為しているときに、
もし愛情の裏付けに不安を持った時には、是非とも思い出したいものです。
「愛」の裏付けを必要とするのは、キリスト教の文化で育った人の考えで、
あらかじめそのように育てられた人にしか出来ないもので、
日本人は「義務」として世話をすれば良いのだ、と。
もし、「愛」があるのか?と疑問に思ったら、それはアメリカのテレビドラマの見過ぎだ、と気づきたいものです。