職業としての政治 (岩波文庫 白 209-7)

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  • Amazon.co.jp ・本 (121ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003420973

感想・レビュー・書評

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  •  「政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である」という文章を読んで、深いなと思った。政治に対して鋭く、痛い指摘だと思った。現在と未来の両方を見据えて政治を運営してほしいなと感じた。

  • この学者の本を読むのは、久しぶりです。10年ぶりでしょうか。正直、何の記憶もありません。いい機会ですから、まとめて読んでみましょう。地元のブックオフで購入する。予想外に面白い本です。読みやすいのです。比較的新しい訳だからかもしれません。馴染みやすい話題だからかもしれません。政治家には、二つの種類の政治家が存在する。第1に、政治のために生きる政治家です。第2に、政治により生きる政治家です。第1の政治家は、精神的満足を得るための政治家です。これは、容易なことではありません。貴族等以外は困難です。実業家はどうだろう。忙しいから無理です。故に、第2の政治家が支配的になります。日本もそうです。そんなところです。

  • 政治: 本質的属性は権力。権力の分前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力が政治。
    政治はどこまでも政治であって、倫理ではない。しかし、政治が権力という極めて特殊な手段を用いて行われているという事実は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課する。主観的にどれほど高貴な意図から出たにせよ、それだけではおのれの権力行使を倫理的に免責できないはずだから。
    目的と手段との緊張関係は、ここでは他のどんな生活領域よりも厳しい。
    政治とは、情熱と判断力の二つを行使しながら、硬い板に力をこめてじわじわと穴を開けていく作業。
    自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、それにも関わらず!と言い切る自信のある人間。
    可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、それにも関わらず!と言い切る自信のある人間だけが、政治への天職を持つ。

  • 東大京大教授が薦めるリスト100選抜

    No.74

  • 政治を行う側の目線で書かれた本を読んだのは初めてだったので新鮮だった。
    職業政治家たるもの、「心情倫理」(沸き立つ感情、不毛な興奮)よりも、人間社会の欠陥も計算に入れて結果を予見する「責任倫理」に従って行動すべきである、と。

    「興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない」(p102)

    ヴェーバーの考え方は至極リアリスティックで、ときに冷徹だ。
    しかし最後の数行の記述はアツイ。

    「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ない」(p105)

    「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場から見て――どんなにおろかであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ」(pp105-106)

    ヴェーバーは、官吏の倫理は政治指導者のそれとは真逆のものであるという。
    「自分の行為の責任を自分一人で負う」のが政治指導者の名誉であるのに対し、官吏の名誉は、上級官庁の命令を(その命令が間違ったものであっても)「命令者の責任において誠実かつ正確に」執行することにある、と。(p41)

    一般論として至極正論ではある。
    が、「それにもかかわらず!」と言い切る情熱は、一介の官吏にも必要不可欠な資質だと俺は思っている。

  • 政治の本質は暴力。権力関係に影響を及ぼすべく行動をとっていくことが政治である。汚い部分を目にしてもなお、挫けず行動を取れる人物こそが政治を業にすべきなのだ。

  • 古典なのに、古さを感じない。政治家に覚悟を問うている。そこまでの覚悟を持った人に投票できているのかな。。

  • 最近はとかく政治が批判されることの多い時代で、かくいう私自身も政治に対しては批判的な想いもかなり抱いているのだが、そもそもではどういう形が政治においては理想なのだろうか。この問いをぶつけられると、おなじように政治不信に陥っている多くの一般市民も、黙り込んでしまうのではないだろうか。もちろん、漠然とした基準はあるだろうが、しかしそれっていったい正しいの? 突き詰めて考えると、どうも私は政治家や政治にそこまで詳しいわけではないぞ、となる。そう思ったら、ぜひ本書の一読を勧めたい。理想の政治家像はもちろんのこと、そもそも政治とはなにか、という部分から記述が始まっており、民主主義の世界で「主人公」を務めるひとりとして、非常に参考になるしまたしなければならない内容で溢れている。また、冒頭で触れた政治批判についても本書に登場しており、どのような時代も政治は変わらないのだという感想も持った。それにしても、全部を把握したわけではないが、この薄さ・価格でここまでの内容があるのは驚きだ。政治家はもちろん、そうでない人も1度は読んでおくといい。ところで、本書を読んだこともない国会議員なんて、まさかいないよね?

  • 2年ほど前に『職業としての政治』というヴェーバーの講演録を読み、最近また読み返した。考えさせられる講演だったのでつらつらと書評を記す。「しょうがない」は「仕様がない」と書く。こうすればこうなる、といった仕様書なんて本来ないんです。いや、本当に。私たちは意図せぬ結果を常に招く、だから、どんな結果になろうと、それが当初の意図、「心情倫理」に反していたとしても、その結果に対して責任を取らねばならない。(取る「べき」ではないし、まして取った方が良いではないことに注意) これがヴェーバーが言う「責任倫理」であり、政治家はこれに忠実たるべきだ、と彼は言う。この姿勢は職業政治家に限らず、我々のあるべき姿として読むことも可能だろう。(というより私はそのように読んだ。) 我々は自分の意志で母親のお腹に宿ったわけではない。気づいたら「私」として、「人間」としてそこに在った。何の違和感もなしに。これは例外的な事態ではない。この世には気づいたら始まっていることしかなく、逆に言えば、「気づく」ということが全ての始まりなのかもしれない。だが、あくまで始まりに過ぎない。この地点では、まだ「単なる物理現象」の域を出ない。なぜなら、ここで言う「気づく」とは「認知」に過ぎないからだ。ではどうすべきか、どうしたら能動性(=自分の意志)を確保できるだろうか?ここに命懸けの飛躍がある。ここがロードス島だ。ここで跳べ!(言ってみたかった。)ヴェーバーならこう答えるだろう。すなわち、「現在置かれた状況を認識した上で、まるごと自己の問題として引き受けること、つまり責任を負うことである」と。さて、「責任と自由意志が不可分である」ことは、ずっと昔から言われてきたことであり、新しさはない。だが、それを敢えてヴェーバーが言わねばならなかったということ、岩波文庫に収録され古典として認められているということ、その意味を我々は考える必要があるだろう。

  • 後半のマックスウェーバーの熱さは神。
    道徳ではない。政治家の有様は将来に対する責任のみ。

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著者プロフィール

1864-1920。ドイツ、エルフルトに生れる。ハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律学を専攻し、歴史、経済学、哲学に対する造詣をも深める。1892年ベルリン大学でローマ法、ドイツ法、商法の教授資格を得、同年同大学講師、93年同助教授、94年フライブルク大学経済学教授、97年ハイデルベルク大学経済学教授、1903年病気のため教職を去り、ハイデルベルク大学名誉教授となる。1904年Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集をヤッフェおよぴゾンバルトとともに引受ける。同年セント・ルイスの国際的学術会議に出席のため渡米。帰国後研究と著述に専念し上記Archivに論文を続々と発表。1918年ヴィーン大学教授、19年ミュンヘン大学教授、経済史を講義。20年ミュンヘンで歿。

「2019年 『宗教社会学論選 【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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