零の発見: 数学の生い立ち (岩波新書 赤版 49)

著者 :
  • 岩波書店
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本棚登録 : 899
感想 : 78
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  • Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004000136

作品紹介・あらすじ

インドにおけるゼロの発見は、人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる。その事実および背景から説き起こし、エジプト、ギリシァ、ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫、ソロバンや計算尺の意義にもふれながら、数字と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った、数の世界への楽しい道案内書。

感想・レビュー・書評

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  • ゼロのおかげでN進法が使えるようになるなんて革命的な出来事です。世界はやがて、0、1の二つで表せるようになろうとは、当時のインド人も考えもしなかったとおもいます。ありがとう、インド人。

  • (2018年1月のブログ内容を2020年11月に転記したものです)

    ○ インドとギリシャの数のかぞえかた

    零はインドで発見されたというのはよく知られていることですが、興味があり、詳しく読もうと手に取りました。

    私たちが何気なく行っている数の計算にも実は長い歴史がありますが、その歴史の中で、「位取り記数法」という考えに至るのにとても長い時間が必要だったことが書かれています。わたしたちが27529と書くとき、1番初めの2は20000を表すのに対し、4番目の2は20を表しています。同じ記号で2種類の数字を表しているのです。言われてみればそうですが、あまりにも普段自然に使いすぎているので、これを読んだときなるほどと思いました。BC五世紀の古代ギリシャでは

    M(β) ,ζ φ κ θ (M(β)は (Mの上にβ))

    と書いたそうです。ここでは20000はM(β)、20はκと書かれています。27029であれば

    M(β) ,ζ κ θ

    となるでしょう。1瞬4ケタの数かなと思ってしまいますが、2729であれば、

    ,β ψ κ θ

    となります。20000と2000と20にはそれぞれ別の文字が割り当てられているのです。これは当時の数字が計算のためのものではなく、そろばんなどの道具で行った計算結果を記録しておくための道具だったことに起因するようです。

    インドでなぜ、それとは逆に、0を置くことによる位取りが行われていたかということには諸説あり、本書でも明確にはしていませんが、インドでは数を郵便番号や電話番号のように順に読んでいく流儀があったことも原因のひとつではないかといっています。27529であれば

    2アユタス 7サハスラ 5シァタ 2ダシァン 9

    と読んだようです。これは現代日本で

    2マン 7セン 5ヒャク 2ジュウ 9

    と読むのに似ていますね。

    このような読み方をすると必然的に空位(0)という概念が出てくるのではないか、というのは面白い考察だと思います。


    ○ 数の概念の拡張

    さて、0の発見だけにとどまらず、数が自然数から実数まで拡張していく歴史も述べられています。これこそ本書の中心ではないでしょうか。


    本文を一部引用します。

    “ギリシァ人は、数学的事実――たとえば、ユークリッド幾何学における諸定理――は数学者がこれを発見するに先立って、すでにそれ自身存在しているものと考えていた、これに反して、現代では、数学的事実は、ポアンカレのいったように、「数学者自身が――時として数学者の気まぐれがこれを創造する」のであると考えられている”

    人間のこころを説明するためのワードも、そのような飛躍が必要なのかもしれません。自然数(有理数の一部)から無理数への飛躍、これは離散から連続への飛躍でもあります。特に性に関して述べるとするならば、男女という枠組みから脱して様々な分類がなされていますが、これらは全て離散的な概念であり、連続的な性という考え方を持っている人は、少ないのではないでしょうか。真実は後世にまかせるとしても、そのようなことを考察するには十分な価値があるように思えます。そのために、数学の歴史というのは一つのロールモデルになるのではないでしょうか。

  • ずっと読みたかった岩波新書の名著で、初めて数学史というものに触れてみた。人間が数字をどう捉えてきたのかということを考えもしなかったが、小中高で習ってきた数学の伏線回収の連続でとても楽しかった。対数えらい。

  • 零の発見に関する文章は全体の一割ほど。後は数学に関する雑編集。数学の生い立ちと副題にあるのでもっと系統だったというか、時系列的に進むのかと思いきや、本当にばらばら。半分ほどで退屈を感じた。尻切れとんぼどころか羊頭狗肉な感じすらした。
    第二章?の直線を切る、の話の時間の段は面白い。

  • あまり自然科学には興味のない自分でもスラスラ読めたので初級者向けの本かと思われる。つまらなくはないが、率直な感想としてはやはりあまり興味は湧かないと思った。ただ、0の概念の発見は人類史上有数の発見なのだと痛感した。このような認識は教養として必要なものであると思う。

  • 50ページで力尽きました。今までの数学書は読者を置いてけぼりにするからこの本は違いますよと最初に宣言していたが、結局は置いてけぼりにされた。

  • 2011年3月

  • 792

    吉田洋一
    1898年東京生まれ。1989年逝去。東京帝国大学理学部数学科卒業。第一高等学校教授、東京帝国大学助教授、フランス留学を経て1930年北海道帝国大学教授。1949年立教大学理学部数学科教授。著書:『零の発見』、『微分積分学序説』他多数。M&Sでも『微分積分学』、『ルベグ積分』、『数学序説』(娘婿の赤摂也と共著)を収録。


    こんにちのように、自然科学が進歩し、また、産業が異常な発達を見た世の中にあっては、必然的に厖大な数を取扱う場合が多く、インド記数法は一日も欠くべからざるものとなった。あるいは、そういうよりも、インド記数法なくしてはこんにちの科学文明はもたらされえなかったと考える方が、むしろ、適切であるかも知れない。

    形式的な考えかたというけれども、形式的であるところが実は数学の特徴なのであって、これがなかったならば、こんにちの数学の進歩はえられなかったろう、といっても過言ではないのである。代数学がギリシァで発達しなかったことについては、さきにものべたギリシァ数字の影響も無視することはできないが、一つにはまたギリシァ人の数に対する考えかたが、ある意味で、きわめて具体的であって、代数学のような形式的方面には向かなかったということも、その理由として考えられているのである。

    ギリシァ時代に零が発見されなかったのはなぜであるか、という疑問に対しても、いまのギリシァ数学の具体性ということを理由の一つとして数えることができるであろう。ところで、それならば、とくにインドにおいて零の概念の発達を見たのはなぜであるか、ということが当然問題になるのであるが、こういう種類の問題に対しては明快な答を期待しうべくもないことは最初から明らかであろう。なかには、これを「空」というようなインドの哲学思想と結びつけて考えようとしている人もないではないが、これは、はたして、いかがなものであろうか。こういう高遠な考えかたは、ただ興味だけを中心とした見地からは、捨てがたい味があるにしても、とうてい問題の本質に多くの光を投げえないのではないか、と思われるのである。

    十三世紀も終りに近づくにしたがって、イタリアの諸都市においてはインド記数法がようやく日常の用に供せられはじめたらしい。その一つの証拠をわれわれは一二九九年に発せられたフィレンツェ政府の布告において見ることができる。

    地味ゆたかな流域を擁するアルノ河にまたがって「花の都」の称をえたフィレンツェは、十字軍の影響その他のためにヨーロッパの商業が活発になってくるとともに、しだいにその繁栄を加えてきた都市であって、十三世紀にはヨーロッパにおける産業および金融の一大中心となるほどの成長をとげた。この都市に銀行業をいとなむ者の数が、このころ、すでに二十二家に達していたという事実からもその繁栄の度をうかがうことができるであろう。こうした銀行業者たちのなかには、この世紀の終りごろにいたって、簿記の記入にインド記数法を採用するものが現れてきた。前記の布告は、すなわち、この新しい数字の使用を禁止しようとする趣旨のものであったのである。

    西洋の数学はギリシァにおこり、ギリシァの数学はピュタゴラスにはじまる、といわれる。  もとより、ギリシァの数学とても、忽然として無から生まれでたものではなく、またピュタゴラス以前に数学に心をひそめたギリシァ人が全然いなかったわけでは決してなかった。  ナイル河の流域に幾千年の文化を築き上げたエジプト人は、ギリシァ人にさきだって、すでにかなりの程度の計算術と幾何学的知識とをもっていた。

    もっとも、近ごろになって、バビロニアの数学が全然経験だけの産物であるということに対しては、疑いをもつ人が出てきた。彼らは、たとえば、二次方程式の解法その他の代数学的知識を心得ていたのであるが、こういう種類の複雑な公式類が思いつきや経験だけで得られるとは考えられない、どうしても、複雑なものを一歩一歩単純なものに還元していく方法によって得たものと見るべきで、もしそうならば、これはすなわち単純なものを出発点として複雑なものの証明をおこなったということにほかならない、というのである。また、ギリシァ数学の文献が多くは失われて、いま残っているものはそのきわめて小部分だけに過ぎないことはよく知られてはいることであるが、バビロニアの数学の文献はこれにくらべて、さらに、はるかに乏しいことを考えて見なければならない、すなわち、現在えられた材料だけでバビロニア人が「証明」を知らなかったとにわかに断定もできまい、というのである。

    なお、バビロニアの数学は天文学と密接に結びついて発達したという説が一般におこなわれているが、最近の研究によればバビロニアにおいては計量的天文学が出現するに先だって、久しい以前に「純粋数学」がすでに高度の発達の段階にあったことが明らかになってきた。このことは、バビロニアの数学が実用向き一点張りの「技術」に過ぎなかったと断言するのはすこしく早計であることを示すものであろう。

    ここにいう態度の相違がいかなるものであるかは、ここにこれを詳説するいとまがないが、きわめて大ざっぱないいあらわし方をすれば、ギリシァ人は、数学的事実 たとえば、ユークリッド幾何学における諸定理 は数学者がこれを発見するに先だって、すでにそれ自身存在しているものと考えていた、これに反して、現代では、数学的事実は、ポアンカレのいったように、「数学者自身が 時として数学者の気まぐれがこれを創造する」のであると考えられている、ということができるであろう。とくに幾何学についていえば、ギリシァ人にとっては、真の空間はただ一つ与えられたものであって、ユークリッド幾何学はその空間の性質を演繹的方法によって記述しようとするものであった。しかるに、現代の考えかたからすれば、ユークリッドの空間以外にいくらでもちがった構造をもつ「空間」を創造しうるのであって、そのいずれが真の空間であるかということは意味がない、ただし、考察の範囲を日常の経験にとどめておくかぎりにおいては、ユークリッドの空間をもちいることがもっとも便利である、というだけのことになるのである。こうなってくると、こんにちの幾何学は、ユークリッド幾何学がその内部において多大の進歩をとげたという程度のものと見るべきではなくして、そこに幾何学的なものにたいする態度の上に革命的な飛躍があったと考えなくてはならないであろう。

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99384214

  • 数学についての歴史書。
    数式はほぼ皆無。
    数学についてではなく、数学の歴史について知りたい人向けの本。

    インドで発見されたとされている、0という概念が数学という学問のの発展において果たした役割を解説している。さらに、0の存在が位取り記数法に著しく貢献したこと、その記数法や製紙技術などが近代以降の筆算の発達や数学の発展において大きな役割を果たしたことなどが述べられている。

    また、微分積分学において重要な概念である連続性についても、デデキントの切断を通して解説が行われている。トピックの一つとして、古代ギリシャ数学の三大難問の一つである、「円と同じ面積をもつ正方形を作図できるか」という問題について、簡単な考察をおこなっている。

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著者プロフィール

吉田 洋一(よしだ・よういち):1898−1989年。東京生まれ。東京帝国大学理学部数学科卒業。第一高等学校教授、東京帝国大学助教授、フランス留学を経て北海道帝国大学教授、立教大学教授、埼玉大学教授。著書に『函数論』(岩波全書)、『零の発見』(岩波新書)、『微分積分学序説』(培風館)、『微分積分学』、『ルベグ積分』(以上ちくま学芸文庫)。共著書に『数学序説』(共著者赤攝也、ちくま学芸文庫)。

「2023年 『数学の影絵』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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