- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004110620
作品紹介・あらすじ
自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後の方向を問う。
感想・レビュー・書評
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1966年刊行のかなり古い本になるが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以降、マックス・ヴェーバーに惹かれる自分があり、解説本として定評があったこの本を手に取った。なお、著者の大塚久雄さんはヴェーバー研究の大家で、岩波版の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳者としても知られている。
本書は四つの独立した章からなっているが、それぞれがヴェーバーに関する講演を下敷きにしてまとめられたものである。
■第一章 社会科学の方法 - ヴェーバーとマルクス -
「人間の営みにほかならぬ社会現象を対象としたばあい、自然科学と同じような意味で、科学的認識ははたして成りたつものであろうか」といった社会学を含めた人文科学が抱える問題に対して、ヴェーバーとマルクスがどのように取り組んだのかを比較対照したもの。タイトルとしても取り上げられていることからわかるように、本書の四つの論稿の中でももっとも力が入っており、分量も長い。
マルクスは『資本論』において、経済現象が「自然史的過程」として現れることを前提として、自然を取り扱うのと同じ科学的方法を用いることができる、とした。それに対して、ヴェーバーはあくまでその研究対象を具体的な生きた人間諸個人に拘り、目的論的関連を人間諸個人を行動にまで動かす動因として捉えて歴史的に因果関係に移し替えることを社会科学の方法として採っている、と主張する。ここでは、ヴェーバーの視点を借りたマルクスに対する一定の批判を含んでいる。
その議論の中で、ヴェーバーにおける宗教学の重要性の高さが浮かび上がる。なぜなら宗教が諸個人の目的論的行動に影響を強く与えるものであるからである。上部構造の運動が経済的な諸構造によって制約されるとするマルクスに対して、ヴェーバーは宗教を始めとする文化諸領域の独立性と個別の影響を重視するのである。逆に宗教意識をはじめとした文化諸領域における独自な動きが経済の動きを根底的に制約すると考えるのである。そこが著者がヴェーバーをしてその社会学の方法がマルクスのそれを射程においてより広いと評価するゆえんである。言い換えるとヴェーバーは、利害の側だけでなく、理念の側から歴史過程を見ているというのである。それが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であり、『宗教社会学』によってなされたことだと指摘する。
社会学における宗教の影響とその扱いは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で扱われた宗教改革の時代から科学的認識が進むにつれてますます少なくなるものと当然考えられていたであろう。しかし、イスラム教国における宗教の影響や、アメリカにおける保守的キリスト教の影響を考えると社会学の領域においてまだ現代的課題であると言える。そこでヴェーバーらがその先鞭を付けた社会学の方法が有用となる時代でもあるのではないか。
■第二章 経済人ロビンソン・クルーソウ
『ロビンソン漂流記』は読んだことはないが、無人島に漂流してそこで生き延びるために色々と主人公のロビンソン・クルーソウが頑張った、みたいなものだろうという印象があった。著者のここでの着眼点は、ロビンソンが無人島において資本家のように考えて働き、最後には損益計算書を作って黒字であったことを確認して神に感謝したというその行動原理である。これは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが分析した、この時代においてはイギリスなどの限られたプロテスタント国の中産層だけが持つエートスを示していると指摘する。
プロテスタンティズムの倫理により、お金を儲けるというのが目的ではなく、経営それ自体を自己目的としたがゆえに資本主義のエートスを形成したというのがヴェーバーの分析の大きな結論だが、ロビンソン・クルーソウという仮構の人物が、それを正に体現していたのではないかというのがここでの指摘である。
『ロビンソン漂流記』が広く受け容れられたのは、当時のイギリスにおいて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘された資本主義の精神を体現する経営者が広まっていたことの証左なのだという。どちらかというと子供向けの物語と思っていたこの話の中から時代のエートスを見るのは鋭い視点なのである。
■第三章 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって - アジアの文化とキリスト教 -
ベネディクト・アンダーソンが『菊と刀』で指摘した、西洋の「罪の文化」の日本(東洋)の「恥の文化」という二分法がある。その何年も前に、ヴェーバーも同じように西洋の「内面的品位の倫理」と東洋「外面的品位の倫理」という対抗的な二つのエートスをその宗教社会学の中で見出している。ヴェーバーは、宗教分析を通してその精神的な由来を追求し、発生の源を理解しようとする。「動機の主観的に思われた意味を解明しつつ理解することによって、社会現象を因果的に説明する」というのがヴェーバーの姿勢である。
ここではじめに分析するべき文化宗教・世界宗教と呼びうるのは、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、儒教、の五つであるとヴェーバーは考えている。かつて柄谷行人が『探求』で世界宗教について論じたのは、こういった歴史的かつ社会的問題における世界宗教の重要性を理解していたのだと改めて考える。
こと宗教ということでは、ヴェーバーとマルクスの違いが際立つ。
「マルキシズムは神を抜きにしたカルヴィニズムだ」(ベルンシュタイン)とするものもいる。一方で、マルクスの自称後継者たちは「宗教は民衆のアヘン」として宗教を捨て去ったため、ソビエト連邦でも中国でも宗教は冷遇されていった。しかしながら、マルクス自身は何らかの別の形で宗教意識という視角から社会構造を見極めようとしたとも言える。
だからこそ、キリスト教とくにピュウリタニズムの文化と儒教・道教の文化による社会的エートスの対照比較を通して、儒教 = 恥の文化、ピュウリタニズム = 罪の文化、と呼んで。
またヴェーバーは、宗教の社会における位置づけにより、平民宗教と支配者宗教に分けて考える。その上で東洋においては、前者が道教もしくは仏教が担い、後者が儒教によって担われるという二重構造をしていると指摘する。一方で、西洋ではキリスト教がそうであったように平民宗教が常に支配者宗教をのみこんでいくような動きがあって、一体のものとして発展をしてきたという。
ここで、ルース・ベネディクトの議論にも戻るのであるが、彼女の「恥の文化」と「罪の文化」の対比には、その鋭い着眼点に感心をしたものだ。しかしその前提として、マックス・ヴェーバーの宗教倫理の分析の中にその対比の萌芽があり、彼女にもおそらくは知識としてはあったのではないかと想像する。
ピュウリタニズムが原罪の概念からして徹底的にペシミスティックなものが根底にあるのに対して、儒教は現世的オプティミズムがある。儒教の文化における、現世への変革力の弱さも見ている。現世的な「道」や「君主」に従うことこそが「徳」であるという概念があるが、それが現状維持に働いているというのだ。
「ピュウリタンたちが現世を完全に拒否したがゆえに、かえって、それを楽観的に肯定した儒教とは比べものにならぬ程の強さで厳正に働きかけ、それを根本的に変革してしまうという、たいへんな精神的エネルギーを生み出す、そうした一見逆説的な結果を歴史の上にのこしたからなのです」
果たしてグローバル化を果たした現代社会においてどこまで有効なのか、と問うべきなのだろうが、実際のところこの宗教意識から来る動因は、深くいまもまだ社会の底を流れているのではないかと思われる。
■第四章 ヴェーバー社会学における思想と経済
まず日本における神道は、宗教というよりも思想と言い換えた方がいい。ここでいう「思想」というのはそういうものである。そして、そのレベルにおける宗教と、社会経済のあいだには厳しい緊張関係が形作られる。ヴェーバーの特徴はそこに見いだすべきであるというのが著者の主張だ。
「ヴェーバーのばあい、宗教と経済、この二つを対極とする緊張の関係のなかに、歴史的現実の動きを押しすすめる根本的なダイナミックスを見出そうとする。この二つの対極のうち、宗教ないし思想の方を無視して経済だけをとってみるとすれば、自分でもときに言っているように、マルクスに近くなってしまう」
人と社会は、利害によってのみで動くのではなく、理念によって動き、利害は理念によって制限を受けるのだというのがマルクスを批判的に経てヴェーバーが得たであろう結論なのだ、と。
「ヴェーバーは、こうした利害状況というものが歴史過程のなかで諸個人を動かしていくのだが、歴史の曲がり角ともいうべきようなところでは、やはり理念が決定的な作用をすることになる、というのです」
宗教はまた民族とも密接につながっている。著者は、「現在においては民族というものを無視して現実を十分正確にとらえることはできないのではないかと思います」という言葉を最後としている。
大きな物語が終わり、そこでは個別の民族の問題や宗教の問題が立ち昇ってくるのである。そこではヴェーバーの提起していたような問題が現代的にも大きな課題として表れるのであれば、いままたヴェーバーがもっと読まれてもいいと改めて思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
面白い。ロビンソン・クルーソーの話とか、大学でそのままやった授業なので懐かしくて泣きそう…。
「そもそも社会科学って何なの?人間は自分の意志をもってるのに、どうして科学の対象にできるの?」ということからスタート。岩波版プロ倫の訳者の講義録ということで、読み進められるか不安だったが、語り口が上手く、引き込まれる文章。イメージの湧きやすい比喩もすてき。じっくり読みたい。 -
学生時代
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301.6
「自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後の方向を問う。」
「学問とは何だろうか。歴史的にながめてみると、学問が極めて限定された特定の階層の人に独占され、また神という存在によって強く規定されていた「中世」という時代から、より多くの人(上流階級限定だが)に広まって、人間を中心としたもの展開していった「近代」へと変わってゆく中で、学問それ自体とその存在意義は大きく飛躍をとげたといえる。自然を、動物を、植物を、人間を、そして宇宙までをも学問的に研究してその存在を確かめ、明らかにしてゆく。17世紀から18世紀にはこのような自然科学が大いに発展した。同時に、人間の生活している社会や国家についての学問もうまれ、法律、政治、経済、思想など、人間が生み出したさまざまな分野についての研究や新たな考えが発展していった(社会科学)。ーこの本で読んでもらいたいのは、第二章に収録されている「経済人ロビンソン・クルーソウ」です、デフォーが書いたこの作品を読み解くことで、この時期のイギリスの社会構造分析にまで踏み込んで解説してくれます。」
(『世界史読書案内』津野田興一著 の紹介より)
目次
1 社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス
2 経済人ロビンソン・クルーソウ
3 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって―アジアの文化とキリスト教
4 ヴェーバー社会学における思想と経済
著者等紹介
大塚久雄[オオツカヒサオ]
1907‐96年。1930年東京大学経済学部卒業。専攻は西洋経済史 -
昔読んだ本
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【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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50年以上前に書かれた「社会科学は科学なのか?」
目的論が動機の意味理解によって因果関連となり、自然科学よりも確実であると。 -
著者は、社会学を学ぶ上では避けて通れない大塚久雄。
講演を行ったものに加筆・修正を加えたもの。ヴェーバーの入門書として、読みやすい1冊。
「社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス」ではマルクスとの対比、「経済人ロビンソン・クルーソウ」は経済学的にみた「ロビンソン・クルーソー」の再解釈、「ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって―アジアの文化とキリスト教」では東洋と西洋の宗教を対比させた宗教社会学、「ヴェーバー社会学における思想と経済」では宗教からさらに踏み込んだ視点での解釈となっている。 -
Ⅰ. 1near Weber
Ⅱ.ロビンソン
Ⅲ.Marx
Ⅳ. -
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フランスの文化が占めている地位を、アジアで占めているのは中国文化、それから古代ギリシャやイスラエルの文化が占めている地位をアジアで占めているのは古代インドの文化だというのです。
ところがアジアでは、結局はっきりとイスラエルにあたる役割をはたすものは出てこなかった。
仏教の一つの宗派――たぶん浄土真宗でないかと思う――がそういう方向を指し示していたといっています。145
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自分はプロテスタンティズムの倫理だけで資本主義の発生を、いや資本主義の精神の発生をさえも説明できたとは思っていない。
それには、政治的な、あるいは経済的な、その他さまざまの利害状況もまたあずかって力があったのであって、その双方から接近することこそが不可欠なのだ、と。193
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