- Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004308003
作品紹介・あらすじ
日本語はどういう言語なのか。日本の文化・文明とどうかかわって来たのか。質問に答えながら問題の核心に迫って行く。日本語はどこから来たか、いかに展開して来たか、日本語の過去のみならず現在を見据えて、将来日本人は文明にどう対処すべきかを語る。著者の生涯を懸けた見解をあますところなく披瀝する渾身の書き下ろし。
感想・レビュー・書評
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日本語の教室
著:大野 晋
岩波新書 新赤版800
日本人とはいったいなにものなのか、日本とはいったいなんなのか、日本語とはなになのか
本書は、日本語の起源というテーマから、言葉をつかってそれを伝えようとしているのです
■第1部
タミル語、南インド、スリランカの言語が、古代日本語の起源であるという説を唱えています
南インドのドラヴィタ語族は文法の構造が大体日本語と似ている
自分の見つけたタミル語と日本語との共通が本当に確かなのか、古代にさかのぼって全体として検討しなければならない
日本語は8世紀までしかさかのぼることができない。タミル語にはサンガムという紀元前2世紀に2400首を集めた歌集がある
インド本土ではすでに失われている慣習が、スリランカ北部に残っている。
2つの言語がいつとはわからなくても、昔なんらかの理由で関係があったに違いないと認めること、それが第1番目の仕事です
実は朝鮮語とタミル語との間に、100語あまりの対応語があることがわかった。それに加えてタミル語の北西隣りのカンナダ語も、朝鮮語との間に同じくらいの対応語をもつことがわかってきた。
①タミル⇒朝鮮⇒日本という一本の線、②タミル⇒朝鮮、タミル⇒日本という2本の線、という想定がありうるでしょう
いちばん最後に文の判断辞がくる日本語も朝鮮語も脚韻はもてない、それはタミル語もおなじだ
■第2部
明治時代には日本語には5つの文体があった 漢文体、漢文読み下し文体、和文体、候文体、口語体である
江戸時代まで日本人は明晰・簡明・論理的な表現には、漢文をつかい、優しい心、自然を感受する心、情意を表現するには和文を使ってきた。その2つが日本人の心を働かせることができる両輪であった。
本居宣長は「日本とは何か」という問いを出した人。その答えを見出す道を教えた人は、賀茂真淵です。その答えとは、「古事記」を読むこと、古事記研究の前段として万葉集の研究に一生を投じた人です
本居宣長以前には、古事記を全部読めるようにした人はいなかったんです。
日本というのは、基本的な文明をすべて輸入品に頼ってきた国です。学問するというのは、マナブという。マナブとはマネブ、つまり、真似をすることです。
日本語の中にタミル語が残っているということはそれだけ、タミルの文明が日本に比べて数段優れていたということです
ゆとり教育が日本語のゆたかな教育を壊してしまった。日本ほど母国語と外国語とを含めて言語教育の時間が少ない国はありません
日本語がよくできない日本人はアメリカに滞在しても英語ができるようにはならないそうです。母語によって客観的世界を出来る限りくわしく理解し、母語によって的確明晰に表現できる力を養わないで外国語をうまく使おうとしても可能であるはずはありません。
目次
まえがき
第1部 さまざまな質問に答えて
(質問1)日本語がよく書ける、よく読めるようになるには…
(質問2)「私のことを打った」など、ことをつけるのはどうしてですか
(質問3)仮定のことを言うのに過去形を使うのは何故ですか
(質問4)日本語が南インドから来たとは本当ですか
(質問5)それは途中どこかに中継地があるのですか
(質問6)語源の話を聞かせていただけませんか
(質問7)日本語の詩に脚韻がないのは何故ですか
(質問8)古文の「係り結び」は現代語と何か関係があるのですか
(質問9)「大きい」と「大きな」とはどんなちがいがあるのですが
第2部 日本語と日本の文明、その過去と将来
(質問10)漱石や鴎外は『源氏物語』を読んだでしょうか
(質問11)漢文の学習を復活させたいのですか
(質問12)戦争に敗けることが言葉に影響するものなのですか
(質問13)漢字制限はよいことだったのではありませんか
(質問14)日本の文化、文明をどう見ておいでなのですか
(質問15)文明の輸入国日本には何が欠けているとお考えですか
(質問16)これからの日本がどうすべきなのか具体的にお話し下さい
あとがき
ISBN:9784004308003
出版社:岩波書店
判型:新書
ページ数:224ページ
定価:880円(本体)
発売日:2002年09月20日第1刷詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筆者のエッセイ?
日本語とタミル語がいかに関連あるかが、熱く語られています。
日本語の由来に興味がある人におすすめ。
もしかしたら中村真一さんの『日本語でソネットのような定型詩を作りたい』という情熱を、全否定してしまったことを悔やんでいるのかも?
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【へぇ~成る程。だった箇所】
・移動、方向を表す時は「へ」、目的地を表したいときは「に」
・「私の(こと)を」は低く扱うとき、「あなとの(こと)を」は高く扱うとき
・「た」は「過去」以外にも、「気づき」「記憶」などの意味もあるから注意。
・「が」は未知のことにつながる。「は」は既知のことにつながる。
・「大きい」は「大きな」から派生した言葉。
・形容詞「ク活用」主に状態を表す。「シク活用」情意を表す。
・ヤマト言葉に比べ、漢語は語彙が豊富で卓越している。
・戦後の漢字を減らす政府の陰謀により、専門書の読めない学生が増えている。
・日本は輸入により学問を発達させてきたので、「学ぶ」というと真似するという意味合いになる。
・学級内の児童数を減らそうと言ったら、文部省から駄目出しされたそうだ。
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夏目漱石や、森鴎外が「源氏物語」を理解していたかどうかは、正直あまり興味ないです。 -
2024年1月読了。
田口まこ『短いは正義』での紹介から読む。
旧制高校出→東京帝大→学習院教授という教養主義の権化のような経歴の著者の「古き良き学者による自分の業績を一般読者にも分かりやすく読めるように」書かれた一冊で、200ページ程度であることから簡単にしかも最後まで知的好奇心を刺激されながら一気に読んだ。
以下抜き書き。
14ページ
単語には一つ一つ物を捉える角度があるので、それが違うと、重なるところはあっても、中心のっところは大きく違ってきます。
19ページ
人の話す言葉のどれが正しいとするかは、なかなか難しいことです。それはどこに基準店をおくか、いつの時代、どこの言葉を規準とするかによります。どれが正しいかというところに踏みこむと、保守的な態度の人、新しいことを好む人、いろいろあって、その人の人生や世界に対する考え方が言葉の選択の上に出てきます。
36ページ
日本語(和語?)は一語で一義、中国語(漢語)は似たような意味の概念を複数の漢字の組み合わせで細かくいくつにも分けることができる。
57ページ
日本語のセンテンスの作り方の最も基本の文型の一つは、
AはBである。
AはBする。
という形です。
→基礎の基礎を超えた超基礎とも言える内容だが、改めて振り返ってみるとまさにそのとおり。
59ページ
川島武宜『日本人の法意識』を引いて、「は」の用法を端的に解説しているところが痛快で面白い(要は「悪文の例」として紹介されているのだが)。
「は」の間に色々な修飾を挟むと主語と述語が離れてしまい読みにくくなるのだが、その解説がなかな読ませる。曰く「一つ一つ区切るとセンテンスが鮮明になる。鮮明になるということは強くなるということです。ところが日本人は強い行動をきらう。なるべく薄衣を着せて、霞がかかるように動く方が上品で優雅だと思い馴れています。(中略)しかし、自然科学から得た知識がこれほど世界を動かしている時代に、知的判断の交換に使う文章ならば、霞の衣で包むことを美徳としていていいかどうか。
→これはビジネスにも通じると思う。ビジネス上の文章は可能な限り短くかつ誤解が生じないように明確にしたい。だからといって日常生活の全てをその価値観で包んでしまっていいと言うほど、人間の文化生活は単純なものでは絶対にない。
68ページ
日本語の「AはB」という基本文型では、「Aは」で一度切れて、文末のBと結ぶのだから、AとBの間は短い方がいい。
→再びだがこれは本当にビジネス文書では鉄則にしたい(そこそこのポジションの人でもそうなっていないことが間々ある)。
94ページあたり
「ノデアル」を消す作業をしたという著者のエピソードの紹介。論文でも書かない限りあまり使わないかもしれないが意識はしておこう。
99ページ
「ガ」がくると、それまでの叙述はすべて保留の条件と化してしまい、判断の本体は「ガ」の下にくることを示します。
→なかなか抽象度が高いと思うが確かにそうだ、というこの一文も「が」の前は保留条件になっている。
110ページ
著者による志賀直哉評。曰く「志賀直哉は本質的に何だったのか。「写生文の職人」だったのではないか。名工でも職人は世界のことなど考えに入れない。たしかに彼は明晰な文章を書いた。しかし、文章が明晰に書けることと、何を書き、何を扱うかとは、別のことでありうるのですね。だから、文章の書き方だけを考えていても、そこにはおのずから問題があることも心得ておく必要があるということになります。
→うーむ、すごい含蓄がある。文章が明晰であることと内容の深浅は比例したり反比例したりしないということか。
121ページ
新聞の社説を縮約させるという課題を、学生に年間で20回くらいさせたというエピソードの紹介。「人文系は金にならない」とか寝惚けたことを言っている人は本当に考えを改めた方がよいと思う。
146ページ以降
200ページの新書で日本語の本質を紹介しているが、そのうちの50ページ程度は敬語の説明に当てられていると言うこと自体、如何に敬語なしには日本語が成立しない言語なのかということを思い知るキッカケになっていると思うのだがどうだろう。
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使い分け、起源、日本語の大切さなど思ったより面白かった。また読みたいと思う。
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「に」と「へ」の使い方から始まりどっぷり浸かるように読む。何度も再読したい一冊。
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日本語に精通する事と論理的思考の繋がりを再認
特に漢字を理解する事の重要性
確かに大和言葉だけでは事象の機微は表現し難い -
日本語の教室
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ここに、僕の言いたいことは全部詰まっていました。
と言うのは、あまりに僭越に過ぎますけれど。
冒頭は、古代日本語の起源について触れます。
著者の大野晋氏の論説に依れば、古代日本語の発祥は、IndiaのTamil語らしい。
これは、「やまとことば」と呼ばれる、漢語以前の日本語についての論説です。
始めに読んだ時は、へぇ、いろんな説があるもんだ、としか思いませんでした。
しかし、本も中盤へと差し掛かるに連れ、主題がshiftしていきます。
そして、そこで書かれる内容は、まさに!と膝を打ちたくなるものでした。
僕が前から主張している事柄に<b>言語は全ての基礎となる</b>というものがあります。
即ち、思考の組み立てにおいても、感性の発露においても、全ては言語。
その人の「母語」となる言語形態、そして、その規則性に支配されている、というもの。
日本人、と言うidentityは、日本語という<b>言語</b>です。
文明、文化、思想、感性などの、全ての基礎は母語に依るのです。
本書には、似たようなことが分かりやすく書かれています。
まあ、ぼくの主張ほど極論ではないですけれどね。
そして、何よりも共感したのは、言語教育の過ちによる害悪についての論説です。
漢字を減らすこと、古文、漢語を学ばせないこと。
これらによる計り知れない影響について、とても克明に説明しています。
感心した一文を、以下に引用しましょう。<blockquote>文明と言っても実はその基本は、「集める、選び出す、言語化する、論理化する」という行動にある。「組織としてものを見る」態度にある。その行動と態度において傑出した人を世に天才といっているが、天才はその集団が保持するロゴス的姿勢の水準から生まれるものだと思います。ただし、ここで注意すべきは右に上げた人々はみな戦前の教育を受けた人であり、漢文や漢文訓読文で育ち、明晰・的確・秩序を心がけて育った人々だということです。</blockquote>この前のsentenceでは、湯川秀樹氏を筆頭にした日本の学者さんたちが挙げられています。
文明、というものの本質を、見事に突いた文章だと思いました。
そして、いまの日本に足りないものが何なのかを、よく表す文だと。
日本語の特色として、論理性の欠如が挙げられます。
これは、精緻に、かつ厳密に文章を紡ごうとすると直ぐに分かります。
冗長に、そしてクドくなり、どんどん分かり難くなっていくのです。
一方、感性や情感を表すのには、非常に適した言語でもあります。
微妙なnuanceを、少ない語彙で綺麗に表すことが出来る言語です。
筆者は、こうした言語の特色を捉えた上で、必要なものは俯瞰する視点だと説きます。
つまり、細部に目を凝らし、断片で判断するのではなく全体を見渡して評価すること。
そして、全体の流れやbalanceを常に意識する思考能力を身につけること。
感性だけでは、冷静で本質的な議論や思考は不可能だからです。
正確な論理性による精緻な骨格があってこそ、そこに肉付けされる感性が際だつ。
これは、全てに共通する美意識だと僕も思います。
いまの日本語教育は、その骨格部分を無視しすぎている。
だから結果として、「美しいもの」が見えなくなっているのではないかと思うのです。
あまりクドクドしく書いても仕方ないですね。
とりあえず、一読してみて下さい。
これは、かなりの名著だと評価します。 -
日本語の歴史や日本文化について多く書かれている本。
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日本語のを上手に使うための本というわけではなく、日本語とはどんな言語なのか、日本語を学ぶとはどういうことなのか、そして戦後の日本が失ってしまったものとはなんなのか、という哲学めいた内容が中心でした。
「日本語をもっと上手に使いたい」「美しい日本語を使いたい」という人には向かない内容です。昨今多い「美しい日本語」へのアンチテーゼとも言える「論理的な日本語」については襟を正す思いで読んでいました。
この本を読めば、我々が現在使っている日本語が、いかに戦前から衰え、衰弱してしまったか、という危機感を持つことができるかもしれません。
16の質問を通して大野晋の考えが展開していきますが、特に「漢字」「漢文訓読体」に関する記述が面白いと思いました。たしかに教科書によく掲載される文学的小説の代表作家、夏目漱石、芥川龍之介、中島敦、森鴎外、といった面々は、どれも漢文的調子で文を展開していますし、漢文を愛読していたことが、歯切れの良い文章形成へと繋がったことを感じさせられます。
日本的、源氏物語的な、情緒に訴える作品は好まれますが、論理的な文章展開を源氏物語から学ぶことは出来ないでしょうし、簡潔な言い回しや、客観的な視点などを多く含んだ漢文の教養が、しっかりとした文章表現を支えていたという話は納得できるものです。
また、晩年力を注いでいた「タミル語起源説」に関してもまとまった記述があります。個人的には、基礎語、文法のみならず、宗教的慣習や、生活的慣習まで類似しているということは、信憑性は高い学術論に思うのですが…。「日本語の起源」等を読み、考えてみたい課題です。
また、学問に対する思いも熱く、たんに好きだから好きな本を読んでいた、というだけの大学時代の学び方に対しても反省させられました。
さすが、日本語を生涯学び続けた人だけあり、文章が大変読みやすく、幅広い知識と豊かな語彙には舌を巻きました。