- Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004310075
感想・レビュー・書評
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デカルトまでのギリシャ・ローマ世界における思想について、通史的にざっと知識を整理しようと購入したが、そのような実用的な用いられ方を拒むような著者の文体にあえなく返り討ちにあい、結局2度3度と読み返すことに。「世界と、世界をめぐる経験のすべてがそこに結晶しているような一語を語りだすためには、幾重にも錯綜したことばのすじみちを辿りなおさねばならない。そのとき哲学的思考が抱え込む困惑は、日常の風景を反転させ、世界の相貌を一変させる一行を探りあぐねる詩人の困惑と、全く同質のものであるはずである(p.30)」。本書で哲学者の思索をなぞる著者のことば自体もまさにこのような詩的な響きを帯びており、どの文章にも安易な読み飛ばしを阻む深みが潜んでいる。
以下覚え書き。
第1章 イオニア学派、ミレトス派
タレス
自然(ピュシス)に目を向け、世界の原理(アルケー、始まり)を問う
アルケー=水
アナクシマンドロス
自然=反復と循環、アルケー=無限なもの(アペイロン)
アネクシメネス
無限なもの=アエール/プネウマ(空気)
第2章
ピタゴラス
輪廻(身体という牢獄からの魂の解放)→身体を超えた秩序(ロゴス)
魂(プシュケー)、知性(ヌース)によるロゴスの知覚 →「数こそが原理」
どれでもなく、どれでもあるもの(e.g.直角三角形)
数が生むハルモニア(調和)
ヘラクレイトス
アルケー=常に消滅しながら生成しているもの(e.g.炎)
「万物は流れる(パンタ・レイ)」
ロゴス=相反・対立するものの両立(=調和)
クセノファネス
神は非物体的な一者、不動でなければならない
第3章 エレア学派
パルメニデス
存在だけがあり、無はあり得ない
では、あるものとは?→それ自体は生成も消滅もしないもの(他のものは「ない」)
エレアのゼノン
「多」と「動」の否定
多・動は有限(現にある数だけある)かつ無限(間に別のものがある)→矛盾(帰謬法)
カントのアンチノミー(無限と不定の混同を批判)への影響
アリストテレスの反論「無限の分割は有限時間内で可能(分割の場合は時間も無限…一対一対応)」X「際限」
メリッソス
空虚はあらぬものだが、運動のためには退去する場所として空虚が必要(古代原子論へ)
第4章 エレア派への回答
「何かが変化したというためには、変化しないものが必要(アルケーは変化しないとすれば多と動も生じない)」
エンペドクレス
元になるものは不変、その結びつき方が変化する
アナクサゴラス
生成は混合であり、消滅は分離である(生成も消滅もなく、常に同一のまま存在し続ける e.g. 種子)
デモクリトス
あらぬものもある(「あらぬもの=空虚におけるあるもの」の運動→現象と感覚における差異を生ずる)
エピクロス
原子は性質を持たない(性質=ノモスは変化するが、原子は変化しない)→では、差異はどのように生ずるか?
プラトン
虚偽や誤謬は「ある」の反義であり、これらがあるならば「あらぬ」もある →「あらぬ」=「ではない(差異を生成)」cf. サルトル「無化」
第5章 ソフィストたち
神話的思考への啓蒙
プロタゴラス
人間の感覚への「あらわれ」が全てのものの尺度 → では存在とは異なる「あらわれ」とは何か?
ゴルギアス
存在は人間に捉えられず、捉えられたとしてもそれを表現することはできない
ソクラテス
「アポリア(行き止まり)」→無知の知(無知ゆえに知を愛し求める=フィロ・ソフォス→philosophy)
対話術「エレンコス」においても答えを与えない(知らないから)
シノぺのディオゲネス
小ソクラテス学派(キュニコス学派(犬儒派))
プラトニズムへの反感
第6章
プラトン
イデア…当のものごとが、「それ」によってまさにそのものごとである、そのもののこと
目に見えないイデア=エイドス(すがた、形相)への希求…愛知者
「探求のアポリア」知らないものをなぜ探究できるのか
→「想起説(アナムネーシス)」…潜在的には全てを知っている、学ぶ=想起する
「等しさ」と「等しいもの」は違うものなのに、「等しいもの」から「等しさ」を直感するのはなぜか?→「等しさ」が「等しいもの」のうちに「現前」→イデアのみが真に、永遠に存在する
諸事物とイデアの共通項は?(アリストテレス「第三人間」)
「一」と「多」変化する事物を超えて真なる存在であるイデアを思考
第7章
アリストテレス
プラトンのイデア…自然=神の技術、イデアを参照し想像する → 秩序(ロゴス)は世界の外部に存在
→ 自然それ自体のうちにロゴスが求められるべきでは?
自然的存在…自らの運動と停止の原理を持つ
技術が自然を模倣する
自然=生長するものの生長、運動の原理、存在者の存在の始源
四原因説
質料のみでは実体は得られず、形相(何であるか、エイドス=ロゴス)が必要
質量が形相を可能性として含む=可能態、質料が形相を伴う=現実態
製作行為=質料に潜在する形相を顕在化する技術、自然の比(ロゴス)に従う
1. 自然がロゴスを内在=目的論的な自然像
2. 徳(エートス)…働きそれ自体が目的となるような人間の素質
「形而上学」…自然学を超える(メタ)学=存在論、実体とは何か
第一の実体:個物
第二の実体:種(エイドス=形相)…実体の本質
現実態にある形相…可能態にある形相にとっての「目的」
全ての存在者にとっての目的=「純粋形相」=「神」
運動は永続的でなくてはならない(永続的でないなら運動開始前と終局後に何らかの変化があることになる)
→「第一の動者」はそれ自体永続的であり、かつ運動してはならない
動かされず動かす「不動の動者」…愛されるものが愛するものを動かすように動かす
神的なものの「観想」→最高の至福
第8章 ストア派の論理学
タブラ・ラサ…経験論へ
真実:表象と対象との一致(しかし、対象との対応により真理を定義するのは循環論では?→真アカデメイア派の古代懐疑論へ)
意味と指示の区別(明けの明星と宵の明星の指示対象は同一だが意味は異なる)
質料と形相の区別(アリストテレス)の受容
「神」=全ての質料に浸透するロゴス、理性それ自身
ストアの決定論…因果関係による順序と連鎖(ロゴス=宿命=神)
自然と調和して生きる→国家を超えた「世界市民(コスモポリテース)」
アパティア(無感動)…感情に流されてはならない、全ては自然に従う
→現在こそが永遠、現在が最後の瞬間であるかのように生きる
第9章 古代懐疑論(ピュロン主義)
セクストス・エンペイリコス
感覚的なものへの疑い(エレア派に起源…パルメニデス「思いなし」、古代原子論者「ノモス」)
判断中止(エポケー)により、独断論者の「体系」を批判
メガラのエウクレイデス
パルメニデスの「一つの同じもの」とソクラテスの善の結合
ディオドロス
活動こそが能力を表す、現実的なもののみが可能的である(cf. アリストテレス「現実/可能態)
パイドン(エリス派)
アルケシラオス(新アカデメイア学派)
ストア派の循環論(真の表象と偽の表象を隔てる基準があるとする)を批判
ピュロン主義者たち
表象と思考を対置し、判断中止へ至る方策=「トロポス(いい回し)」
「トロポイ(感覚の仕方)」は相対的→一旦判断を停止(アポリア)する必要
批判的合理主義(演繹的体系の無根拠性を指摘)の原型
第10章 新プラトン主義
フィロン
二段階創造説…「思考される世界」「感覚される世界」
神は「エイコーン(神の似姿、一性)」を範型として人間を創造
プロティノス
存在=一性(一つでなければ存在できない、多による一の分有)
多を形作る一を、一としているもの→三つの原理(「一者」「たましい」「知性」)
たましいが身体を一つのものにし、知性はたましいの活動を規制する
プロクロス
一者は存在に先立ち、他のものの存在の源となる「第一の原因」であり「善」
第11章
アウグスティヌス
感覚への懐疑論(新アカデメイア派)への反論…真なるものの認識は如何にして可能か
「感覚する私(=欺かれる私)」は確実に存在している(デカルト方法的懐疑との類似)
自ら存在し、自らの存在を知り、自らを愛することは感覚による表象(=欺き)を介しない
確実・真なるものは人間の内面に存在、理性による判断が真理(一性)を捉える
内面における「神」という絶対的外部性があるからこそ、完全・真なるものが認識できる
時間の経過で散り散りになる「私」を統合しているのは「神=永遠の現在」である
第12章
ボエティウス
「三位一体論」…たましいと身体が「一つ」cf. プロティノス
普遍論争の原点
「存在=単に在ること(存在の文有、偶有性)」と「存在者=本質的に在ること(実体)」の差異
アリストテレスの「善」…分有ではなく、実体により「善」なるもの=「神」
単純なもの、一なるもの、善なるものでは「存在」=「存在者」
「存在そのもの」である「神」から流出する「善」により、存在者は「善」となる
「永遠」=無限の生命の、全体的で同時的な完全なる所有
第13章
偽ディオニュソス
「神」=闇に隠れるもの 無知により到達可能(神秘主義)
エリウゲナ
「神」=「創造し創造されないもの」かつ「創造せず創造されないもの」=存在を超えた「無」
スピノザの先駆?
アンセルムス
スコラ哲学
さまざまな善を可能にする「共通な或るもの」=「最高の存在者」
神の存在証明:それより大なるものを考えることができないものでも考えることができる!=実在しているはず(カントの反論:完全であっても存在するとは限らない、「存在する」はものに関わる述語ではない)
第14章
トマス・アクィナス
アリストテレスをラテン世界に逆輸入したラテン・アヴェロイスト「二重真理」批判
- 「可能知性(全ての人間が持つ単一の知性。アリストテレス「能動知性(身体の形相であるたましいに作用)」に対置される)」批判…全ての人が同一であるのは自由意志の否定であり不合理
- 「世界の永遠性(アリストテレスも主張)」批判
スコラ哲学的な存在証明の非自明さを指摘
「五つの道」による神の存在証明①第一動者②始動因③必然性④秩序⑤目的因
第三の道…偶然的世界が存する以上、必然的な神もまた存在せねばならない
a世界の存在、b世界の本質(=偶然性)、c神の存在、d神の本質(=必然性)のとき、
a:b=c:d(存在の類比)という比によって、経験的地平から神が証明される
世界は神を出発点とした被造物=世界は神の存在を「分有」する
神だけが「自存する存在そのもの」であり、他の一切の存在者は神から流出(=創造)される
第15章 神の絶対性へ
スコトゥス
「存在」の一義性…同一主語について同時に肯定と否定がされ得ない述語
「存在」はカテゴリーに先立って有限/無限の両者に適用される「超越概念」
神に適用されれば無限、被造物に適用されれば有限→神と被造物を介在
オッカム
「神の予定」予定に反することができなければ全能ではなく、予定に反するとき全知でない
神は未来の事柄について確定した知を有する=神にとっては全てが現前する、一切が現在
永遠とは全体の現前、神の予定=未来の未確定な事柄についての確定された知
偏在する神
デカルト
無から一切を創造する神
人間が法則を必然と感じるのは神が絶対性を人間に植え付けたから詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本社は古代から中世にかけての西洋哲学をまとめたものである。一般の西洋哲学史の本は、人物名とその人が唱えた概念を一文でまとめた形で纏められているものが多いが、本書は歴史のコンテクストを追いながら、それぞれの人物の思想について、具体的かつ論理的に説明しており、とても面白かった。説明してある内容はそれなりに分かりにくいものだと思うのだが、著者の日本語は大変良質で、ゆえに見事なまでにコンパクトかつ分かりやすく説明していたため、理解しやすかったように思える。
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論理力を鍛えられる本。個人的にはこれを、時間をかけて精読することで、大学時代に論理力を鍛えた。
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本書は15章で構成されており、それぞれが対応する哲学の歴史的変遷、どのような思想が論じられていたかを具体的な哲学者や学派を通して説明されている。
大まかにそれぞれの哲学者がどのような思想を持っていたか知るのには適しているが、細部まで説明がなされているわけではないので、よく知りたいならば本書で紹介されている哲学者の著書を読むべきだ。
西洋哲学への入門書として、また歴史的変遷を見直す一つの手段として非常に有効であると言える。 -
西洋哲学の流れを、時の哲学者の思考過程を再構成するという独特の方法で紹介した著書の、上巻に相当する本です。
収録されている時代は紀元前500年から紀元1500年ごろまでの、実におよそ2,000年間。ソクラテスよりはるか昔のタレスやピタゴラス、プラトンやアリストテレスを経て、アウグスティヌス、トマス、デカルトまでを網羅しています。登場する総勢30人以上の哲学者に偏りや過不足がないのかどうか、正直さっぱりわからないのですが、たぶんこれ以上の事柄を紹介されていたら、おそらく私の頭がパンクしていたでしょう。新書に詰め込める情報量の限界を見せてもらう思いでした。久々に、読んでいて頭が痛くなるという体験をさせてもらいました。中学時代にホーキングの本を読んで以来でしょうか。
読んでいると、哲学というのはどうして難しいのか、という問題が何度も頭をよぎります。私たちの感覚を超えた世界を捉えるとき、たとえば神話のように、混沌とした内容をそのまま提示されると、案外読み手としては楽に飲み込むことができる。しかし、その混沌とした世界に人間の作った思考秩序を導入しようとすると、それはとたんに理解不能度を増してしまう。私には哲学的思考が、どうも後者の典型なのではないかと思えました。哲学がアブラハムの諸宗教と出会ったあたりから、ようやく理解しやすくなったように感じられたのは、土台にある世界観が秩序付けられた結果なのかもしれません。
存在と不在、一と多、有限と無限、神と人・・・哲学のテーマは2項対立のオンパレードです。このような考え方は、否定語(=not)が他の単語から独立した、屈折語を使う西洋人に独自の発想だったのかもしれない。だとすれば、否定語(=ない)が文の付属物のように扱われる膠着語を話す日本人には、いっそう理解しにくいものかもしれない、などなど。考えることはあまたありました。
しかし、本書の形式である「哲学者の思考過程の再構成」が、果たして入門書としての本書の性格にどれほど寄与したのか、はなはだ疑問です。確かにこの方法は、名前だけの羅列よりもずっと実のあるものだったかもしれない。けれど、原典を多く引用し、哲学者のじかの思考を本書に吹入しようとしたのは、少し欲張りすぎではなかったでしょうか。結果として、思考の過程よりも結果が多く書かれている原典によって、かえって理解のしづらい構成になってしまった気がします。また、通史というのであれば、哲学者同士のつながりを(物理的交流やテーマの流れを問わず)もっと整理した形で提示してほしかったなあと思います。
後半は愚痴のようになってしまいましたが、デカルトまで到達した哲学史の旅が、本書の続編にどうつながっていくのかとても楽しみです。
(2008年6月 読了) -
やっと読み終われた…という感じ。
最初のほうの記述がとてつもなく私好みの文だったのですが、途中は鳴りをひそめていた気がします。
自然から神に至るあたり、実感に欠けてくるのが問題なんですかねぇ。神って言われると、ウッてなってしまいます。
でも新書にしては細かくて面白かった。特に前半がいい!
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タレスに始まり中世へ・・・。なんとやわらかで滑らかな語り口!熊野先生の講義を受けたことあるのですが、彼の喋りの独特の空気がそのまま文字になっていて感動した。引き込まれるなあ。