反貧困: 「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)
- 岩波書店 (2008年4月22日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004311249
感想・レビュー・書評
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これは必読です。
弱者への差別がなきようにぜひ読んでほしいもの。
これを読んだら「自己責任」と言う人は
働いても~の人にはいないというのが分かるはずです。
(浪費なんかする状態にもない)
しかしながら腹立たしいのは役所の対応です。
一人では突っ返すくせに第三者がいるとそうでない。
変ですよね。
(中には本当にインチキする愚か者はいますが)
それと派遣会社のあれは
すごくひどいですよ。
実際に行った人が言っていましたもの。
こういった待遇が消えることを願うばかりです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
貧困・・・自分には関係ないと思ってしまうかもしれないけれど、明日は我が身、と言えなくもない日本。
この本を読んで、ホームレス、ネットカフェ難民と言われる人々への見方が変わりました。
と同時に、私たちは何も知らされていないということ、政府や経財界の人たちは、国民を見捨てても、自分たちが潤うことしか考えていないということがよく分かりました。
http://glorytogod.blog136.fc2.com/blog-entry-940.html -
貧困が社会の安定のために解決しなければならない大きな問題になっていることを再認識。
「溜め」の理論は興味深かった。貧困だけでなく、社会全体にも当てはまる話。内部留保への考え方など。 -
やっぱり貧困問題に関わりたいと思った。日本の貧困問題はまだまだこれからだと思う。
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前向きな気分と憂鬱な気分、両方を感じた本だった。
著者の主張は「貧困は自己責任ではない」という点に貫徹していて分かりやすい。
なんといっても現場での活動に従事している人だから、
出てくるエピソードが生々しくてこれまた興味を誘う。
「生活保護を申請にしに役所に行ったら、役人に嘘を言われて帰された」
ということが常態化しているとするなら、少なくともこの国はまともではない。
そして状況を変えよう、と頑張ることへ素直に拍手を送ってよいのではと感じた。
一方で、人の意識を変えることの難しさに頭が痛くなる。
貧困の渦中にある人に対し、「自己責任だから放っておけ」という言説が通用するのは
「自分には関係ない」という考えがあるからではなかろうかと。
自分が転落することが想像できない、あるいは想像できるとなおのこと、
「他の人に配慮している余裕はない」となってしまうのかもしれない。
ともすれば余裕が欲しくてしょうがないので、やっぱりリソースの分配ということには
ならない気がするのです。
どうすればいいんだろうな。
恐らく、貧困の問題を解決していくためには、もっと身近なイシューとして
自分に引き付けて考えるための仕組みが必要なのではなかろうかと思う。
金だけでなく、金で解決しきれない部分をフォローするための仕組みが必要で、
それはやがて自分を支えるものでもある、というような。 -
有名な湯浅氏の本。
今更ながら読む。
貧困について様々な角度からほりさげている。
一度踏み外すと奈落の底まで落ちていくすべり台社会。
溜めという表現で、お金だけでなく人間関係などの貧困についても触れる。
北九州がかなり批判的に書かれているけど、生活保護行政というのはここまで自治体格差があるものなのか。
最低賃金と生活保護、介護保険、医療保険、年金、憲法25条、さらには9条まで、政策の根底は繋がっていて、ややもすると底下げのスパイラルがおきがち。
それは、私もそうだけど、日本人の生活保護に対する偏見も一因のようだ。
わかりやすいけど難しい。
もう一度読み込む必要があると感じている。 -
湯浅氏は東京大学の博士課程在籍の後、野宿者や生活困窮者の支援活動を続けてきた人。本書は、日本社会に「貧困」が厳然と存在しているという事実を伝え、貧困問題を我々市民及び社会がどのように捉えるべきか・そしてそこから如何に脱却するかを、著者自身の活動経験を踏まえて論じている本。
日本社会は、「雇用」「社会保険」「公的扶助」の三層のセイフティネットが適切に機能せず、一旦足を踏み外すと一気にどん底の貧困状態まで転落してしまう「すべり台社会」だという。発端は90年代の長期不況の中で、財界の主導下に労働者の非正規化が進み、雇用が不安定化したことだ。更に非正規の労働者ほど社会保険のネットからも零れ落ち、最後に役所で生活保護を申請しようとしても違法に却下される。こうして貧困層に転落した者が、最悪の場合には犯罪(児童虐待、親殺し etc.)や自殺に走ってしまう。「先進国」の中で教育費の家庭負担が極めて高い日本社会では、親世代の貧困が子世代へと引き継がれてしまう。挙句、日本政府はこうした貧困問題を調査・認知しようとしない・・・。
湯浅氏は「貧困」という概念を単なる所得の低さではなく、"望ましい生活状態にアクセスできる現実的な可能性"としての"溜め(経済的な"溜め"としての金銭や資産だけでなく、いざとなったら助けてくれる親族・友人等の人間関係上の"溜め"、自分に対する自信等の精神上の"溜め" etc.)"が総合的に欠如している状態であると捉えなおす。つまり「貧困」とは、"望ましい生活状態"が現実的な選択肢とはなり得ない状況であり、この観点から「貧困=自己責任」論を明確に批判している。もっといえば、「貧困」とは、「貧困」を生み出せてしまうほどに"溜め"を欠いた社会の側の問題である、とする。こうして、「誰に対しても人間らしい生活と労働を保障できる」「人間が人間らしく再生産されて」いく「強い社会」が目指される。
興味深いのは、先日取り上げた堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』と同様に、本書でも貧困と戦争の関係に触れていることだ。貧困に免疫のない社会は戦争に免疫のない社会でもあると言い、「憲法九条(戦争放棄)と二十五条(生存権保障)をセットで考えるべき」だとする。
冷静かつ知性的な文章の下に流れている血の温かさが、本書の随所に感じられる。「生を値踏みすべきではない」という湯浅氏の言葉は重い。堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』と併せて読みたい。