- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004313892
感想・レビュー・書評
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古典を読みます
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「古典力」は「教養がある」と比例関係にあると思う。
そういう意味でも、たくさん読みたいのだがなかなか続かない。挫折しそうになると、この斎藤先生の一言一言を読み返し、「読み切ってやるぞ!」という意気込みをまた復活させるのである。ありがたい本だ。 -
齋藤孝さんは明治大学文学部教授。この本では「古典力」を身につけることがなぜ必要かを説き、”齋藤流マイ古典50選”を紹介しています。
[塩見図書館長] -
斎藤流の古典ガイド。「クライマックス読み」、「さかのぼり読み」、「我田引水読み」等の具体的な方法を十条に分けアドバイスしている。この部分では、自分でも出来るかなと希望を持つが、次の具体的な古典50選(おまけのプラス50選も)のガイド部分になると暗い気持ちになってくる。カラマゾフ、源氏、千夜一夜等の超難物が並ぶのを見るとやはりねと段々気持ちが萎えてくる。結局、古典制覇への意欲は、読む前とあまり変わらないというのが正直な読後感である。
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斎藤孝先生の本は、いつも背中を押してくれる本が多い。
インターネットをはじめとする情報環境の激変は、世界中の知、情報にアクセスすることを容易にした。だが、膨大な情報の海に飲み込まれて、自分の立ち居地が分からなくなっていることが、実は多いのではないか。トラフィック量が膨大となった流れの中にいることで満足して、考えなくなっていることに原因がある。要は、「足場」が必要なのだ。「心の重心」を保つことが大切なのだ。長い時間に晒されてきた古典は、それを助けてくれる。だから、「マイ古典」を作りなさいと斎藤先生は言う。
『カラマーゾフの兄弟』、『千夜一夜物語』、『嵐が丘』、『生物から見た世界』、『オイディプス王』、『君主論』など、50編の古典が紹介されている。いやいや、それではおさまらなくて、おまけの50冊も(笑)。どうも、紹介したい本はたくさんあるようだ。だから合計100冊。
ボクは『カラマーゾフの兄弟』の解説の最後に共感する。「人生の意味より、人生そのものを愛せ!」 -
新刊だからなかなか地元図書館で手に入らないだろうなと思ってたら大学図書館の新刊コーナーにあったので速攻で借りた。「うちの大学もなかなかやるじゃん←」とか思ってしまったり。
齋藤孝って聞いたことあるなと思ったら『声に出して読みたい日本語』の人か。なるほど納得。本書でも音読を推奨する文を多く見かける。
『古典力』というタイトルに惹かれて借りたわけだが、他の著作を見ると『教育力』とか『読書力』とか今はやりの「〇〇力」とかにのっかてるのかしらね。
久しぶりに新書というジャンルを読んだわけけど、齋藤さんの文章固いなという印象を受けた。
内容は個人的に言うと特に新しいことは書いていないかも。
古典紹介の文はうまいと思う。2ページに簡潔にまとめられているから。
でもある登場人物を知らないからと言って「古典の素養というより常識にかける」とか「ゆく川の流れは絶えずして」の後が言えない人は人生の階段を踏み外した可能性大。
とか言われてちょっとカチンときた(笑)
まあこの2文だけであとは問題ないんやけど。
「自分のものさしで測らないでよね」と言いたいところだけどそもそも新書自体が「自分のものさし」で測ったものなんやろうか。あまり読んだことないからわからないけど。
古典の紹介はわりとさらさら読めます。私が普段触れることのない外国文学が多かったのがとても助かった。そしてすごいのは本書に載せた「古典」と呼べるものは齋藤さんが全部読んだんだろうなというところ。これは素直に驚く。その洞察力とか。特に『枕草子』の紹介分が好きだな。
あとゲーテさんいいこと言いよる(笑)
齋藤さんのおかげでゲーテとの距離感が近づいた気がする。
いろいろなことは言ってるけど最終的には自分のペースで古典に触れていこうと思った。ちゃっかり読みたいものはメモりました。 -
精神の核といえるものを自分の身のうちに形成するためには、出会いが必要
この出会いがなければ、今の自分はない
といえる出会いは、現実の生活においては実感しやすい
しかし、この質の出会いを本との関係で持つには、読む側の構えが求められる
古今東西の名著とされる本は、精神の核を形成してくれる力、生命力がある
その生命力は、堅い殻におおわれた種子のようなもの
殻を破り、種子を土壌で育てる必要がある
その作業は骨が折れるようだが、人生という長さで見るとコストパフォーマンスは、むしろいい
古典を読むための十カ条
第一条
一通りの知識を事前に得る
第二条
引用力を磨く
感想文のグレードアップ
第三条
さかのぼり読みー古典の影響を読み取る
古典力を身につければ、自然に自己肯定感が増してくる
p75
洞察力。この力に私たちは、もっと積極的な価値を見出していい。洞察力のある人間が増えることで、優れたものが評価され、文化の市場も豊かになり、文化の質は向上する。観る者たちの審美眼が文化を育てるのだ。古典を通じて審美眼を養うことは、私たちの使命である。 -
なんとしても、引用したい文を見つけようと思って読むと読む際の積極性が格段に高まる
論理と言うより感覚で選ぶ方が、自分自身にとっても気づきのある感想文となりやすい。なぜこのバラバラに見える。3つの文を自分は選んだのだろうかと自分の内側を探っていくと感想は深まる。
引用なくして読書なし 引用力なくして、古典力なし
古典は孤立した峰ではない影響力があるからこそ、古典とされる。古典は川の源泉だ。支流から遡れば、古典に行き着く、古典に行き着くルートはあちらこちらにある。
神は細部に宿る
まずは断片断片を身につまされる形で知るそこから始めるべきであります
自分で考えて行くために本を読むと言う場合、少なくともさしあたって断片が直接自分にどう突き刺さってくるかが問題であります
全体の筋に気を取られるよりもその中のどれか一句でもいいからとにかく自分と出会うというか自分に突き刺さってくる章句をまずは自分で発見すること。これが一番肝要です。つまり個々の断片を全体につなぐ前に、むしろ全体からある断片を取り出して、その断片を自分につなぐ。
気づきは、なんとなく生まれるものではなく、惹きつける課題意識が反復によって心の習慣となり生まれるものだ。まずはとにかく1つでも自分の経験と結びつけると言う強い思いを持って古典を開く。
古典の文脈を客観的に把握しつつ、自分の経験や主観を絡める、このバランス感覚が古典の読みでは必要であり、また、古典によってこのバランス感覚が鍛えられる
近代的なロマンティックなものは、主観的方法によって作られ、古代的なクラシックなものは、客観的手法によって作られると言う考え方がゲーテにはある
形だけの謙虚さは自己保身であることが多い。本当に偉大な物を知るものこそ、本当の意味での謙虚さを身に付けることができる。表面上、謙虚なものの、言い方をするかどうかは問題ではない。古典力は、神の謙虚さを教え、その分同時代人に対する恐れや引け目を減らし、意欲の持続を助ける、また、自らの独創的才能の涸渇に怯えることもなくなる。
古典の良さは、偉大な精神の空気をそこから吸い込むことにある。その新たな息吹きでなす事は、古典の模倣とは限らない。自己を限定する技術は、懐の深い古典との出会いを通して磨かれる古典を鏡として自分には何ができるのだろうかと自問することで、自分の道が見えてくる。
自己発見のプロセスが、古典力の醍醐味である。