- Amazon.co.jp ・本 (120ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022508744
作品紹介・あらすじ
未曾有の震災後に浮かび上がる、唯一神のごとき「原発」。原子力という生態圏外のエネルギーの憤怒に、われわれはどう対峙し、無惨に切断された歴史を転換させていくべきなのか。白日のもとに晒された危機の本質と来るべき社会のモデルを語り尽くす。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
スゴイ本です、このコンパクトなサイズにこれだけ有用なことが詰め込まれているとは・・・内田樹のブログが好きで、手に取ったのですが、中沢新一も平川克美もスゴイです。
造られたものは壊れる・・・道理です、ナゼそれを忘れてしまっていたのか・・・。いいとか悪いでなく、壊れるんです。そしてそれを修復・改善していく・・・当たり前のことだったはずなのに。
現状をすばらしく明快に認識できました。 -
突貫工事で作った本らしく、小振りで「荒さ」が見られるけれども内容は実に納得の本だった。
今回の事故のゴタゴタは、何が何でも原発はクリーンで安全であるというファンダメンタルな推進派と、何がなんでも原発は危険だというパラノイックな反対派と、そして僕の様な無関心派の三者による共犯であると僕は思っている。東京電力の魔窟とか利権と政治のゴタゴタという彼岸のせいにしてはいけないと思う。「俺は関係ないけど、あいつらが悪いんだ」という口調を用いるのは躊躇される。
原発のリスクはリアルなものである。ただし、どの位のリスクなのかはイマイチ判然としない。ものがものだけに充分な臨床データが存在しないからだ。それは(たいていのリスクがそうであるように)「程度」の問題となる。
日本の「大人たち」は程度の問題を議論するのが非常に苦手である。
泣いている赤ん坊がいるとき、ずっとほったらかしておくと人間不信やトラウマの原因になるかもしれない。かといって3秒以内に必ず応答という極端なことをやっていると、ついにはわがままな了見を生んでしまう可能性がある。故河合隼雄は生後間もなくは泣けばすぐ対応してあげ、信頼感をつかんでから教育をと語っているが、その境界線ははっきりしない(個人差もあろう)。この「塩梅」を探るのが大人の営為である。なのに、多くの人は「すぐだっこvsほおっておく」みたいな対立構造を作りたがる。
「ゆとり」と「つめこみ」の教育論でも、多くは「ゆとりか、つめこみか」という二元論で語ってしまったために、ついに「どのくらいの塩梅でゆとりを、そしてつめこむのが妥当か」という妥当な境界線探し、大人の議論は胡散霧散してしまった。
原発も放射能も、善か悪かという二元論ではなく、どの程度まで許容可能かという塩梅探しになる。手持ちのデータでは、その境界線は非常にマーキーだ。
その不確定性の瑕疵を素直に認めることから始めるべきなのに、ここでも同じ様に放射線大丈夫派とパラノイックな放射線危険派の不毛なケンカが続いている。これじゃ、さっきの原発議論と同じじゃないか。どうしてなんどやっても同じ構造で議論を繰り返すのだろう。
データが不確定なのだから、「自分の哲学」を強要せず、ステークホルダーである福島の現地の人たちに決めてもらえば良いではないか。みんなでその意思を尊重し、どちらの判断をとった場合も経緯を持って、お手伝いをすれば良い。残るも選択、去るも選択である。女川にも石巻にも、ふるさとを離れる決断をした人も入れば、リスクを承知で自宅にとどまる人もいた。どちらも「間違ってはいない」。なぜ全員一律に留まれとか逃げろという話になるのだろう。
福島の状態が危険だという人は、その信念に基づいて福島の人たちに向かって、「ミンナニゲロ」と主張すれば良い。なぜそう言わずに現政権の悪口をメールやネットでつぶやくことにエネルギーを費やすのだろう。本気で原発周囲が危ないと考えているのなら、言葉を発する対象は異なっているのではないだろうか。本当に福島の人たちのことを考えているのだろうか。話は東京も同じである。疎開したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。選択肢がないのは、今家が燃えているから逃げろ、、みたいなエクストリームなケースだけである。
これは個人レベルの話である。東京の経済活動がうんぬん言う人もいるが、東京全体の経済のために個人の自由意志が損なわれるのであれば、東京という街の価値そのものがそれがゆえに減じてしまう。
文科省や政治家や御用学者は信用できないといっておきながら、その20mSvの妥当性を云々かんぬん議論し続けるのは、奇妙な依存精神である。どうせ20mSvも「言い値」なのだが、「文科省の出す数字はおかしい、あいつらは信用できない」というのなら、彼らに毒づかずに自らの判断でもって行動を示せばよいのである。文科省は無能だと言っておきながら、文科省どうしてよいか教えてくれ、というのは矛盾である。インフルエンザのときに起きた全く同じ現象(あんときは厚労省が対象だったが)と同じである。
本書で天皇陛下の話が出てきたのは興味深かった。僕も同じことを考えていたのだが、(お恥ずかしいことに)その話をするとまたヒステリックなファンダメンタリストたちが騒ぐのが面倒なので黙っていた。
天皇皇后両陛下は本当に素晴らしいと思う。もちろんいつも公務でお忙しいのだろうが、普段はあまり表に出ず、こういうときこそ走り回るというのが理想的なロイヤルファミリーのあり方だと思う。昔、故ダイアナ妃がエイズの子を抱きしめただけでその差別が大きく減じた事がある。どんな言葉よりも強いメッセージがそこから伝わる。ロイヤルファミリーとはこうあるべきだとその時思ったのだった。 -
自分は生態学のトレーニングを受けているので、
放射性物質が、自然界の物質循環系や代謝系になりのをよく知っている。
だから、その文明史的な意義も。
他方、必ずしもそうでない方もおられるのだね。
(だから、「こういうことを誰も言わない」というフレーズになる)
確かに、世の中問題だなぁ。 -
本質をついてる。でも学者の限界も感じる。
-
東日本大震災から3週間後の4月5日に、ユーストリーム配信の番組「ラジオデイズ」のために行われた鼎談をまとめたもの。
120ページ足らずの薄い本で、小冊子に近い。ボリューム面での物足りなさはあるのだが、内容は刺激的である。
顔ぶれを見ればわかるとおり、本書の眼目は大震災をめぐる時事的解説にはない。むしろ、その深層にある思想的意味について考えてみよう、という試みなのだ。
3人のうち、最も示唆に富む発言をくり返しているのが中沢氏で、本書の主役という感じ。
言いかえれば、東日本大震災の思想的意味とは、人類史的スケールで、しかも宗教的側面からも測られるべきものだということだろう。ゆえに、宗教学者・人類学者・思想家である中沢氏の言葉が、いまこそ生彩を放つのだ。
本書の圧巻は、「原子力と『神』」というチャプター。
そこで中沢氏は、原子力という人類にとっての「第七次エネルギー革命」が、「生態圏の完全に外にあるエネルギー源を取りだそうとした」ものであり、「地球生態圏の中に生きていた生き物の体の変成したもの」である石油・石炭などとは次元の異なる意味をもっていたと指摘する。
「原子力は一神教的技術」であり、日本の多神教文化にはもともとそぐわないものだったのだ、と……(そんなふうに断片的に紹介しても、未読の人には意味不明だろうが)。
この鼎談をベースに、中沢氏に東日本大震災の思想的意味を深く掘り下げた大著をものしてもらいたい。 -
70年しか経っていない。
私達が最初に手に入れたテクノロジーである「火」でさえ未だに完璧にはコントロール出来ずにいる。
にもかかわらず、70年の歴史しかないテクノロジーを完全にコントロール出来る筈など決してない。 -
花泉図書館。
科学の進歩を否定しているわけではない。ただ、人間がコントロールできる限界を知れ、と。人知の及ばないものをしっかりと恐れる気持ちを忘れるな、「驕るな、日本人」ってこと。
生態圏エネルギー
生態圏以外からのエネルギー⇒原子核
「原子力」=「神」説。
誰一人責任を取れない技術。ずっともやもやしていたものが、ハッキリとしてきた感じ。
一神教的思考と神仏習合。
聖域を崇める、畏れる。
「原発を止めると経済が滞る、それでもいいのか?」というフォーマット的原発推進者の意見。
【人の命の話をしているのに、そこに金を持ち出すな】
まさにコレ。イデオロギーの硬直化は教育(というかある意味での洗脳)の果たしてきた役割も大きいよね。
結局4年前の反省も何もなく、原発再稼働しちゃいましたね。外交・経済・内政などなど様々なファクターが複雑に絡まった「原子力ムラ」はなかなか解すことはできないのかもしれないけれど「誰かがやらなきゃ」なんだよね。 -
根本から、わからないと、難しい・・・
-
原発問題を語る。