直江兼続 戦国史上最強のナンバー2 (アスキー新書 87)
- アスキー・メディアワークス (2008年11月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784048674775
作品紹介・あらすじ
豊臣秀吉の死後、天下統一を狙う徳川家康に対し、「直江状」をもって主君上杉景勝とともに抵抗するも、関ヶ原の戦いに敗戦。会津百二十万石から米沢三十万石に減封されるという未曾有の危機にさいし、「上杉」というお家存続のため兼続が打ち出した経済政策とは?米沢藩発展の礎を築きながら、自身の死後、直江家断絶の道を選んだ男の生きざまに迫る。
感想・レビュー・書評
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戦国時代にその名を轟かせた上杉謙信。ライバルの武田信玄が高坂昌信、山県昌景、内藤昌豊など武田二十四将と呼ばれる優秀な家臣に恵まれたのに対して、上杉方にはそうした優秀な人材が支えていたイメージは少ない。謙信本人が戦国最強武将という強烈な個性を放っていたから、カリスマ性に惹かれて上杉家が成り立っていたと考えられるが、現代の会社組織も似た様なものだ。リーダーが優秀なプレイングマネジャーで実行も統率も何でも独りでできてしまうと、部下はリーダー任せになり自分で考える能力が身に付かず、いざリーダーが外部からスカウトされるなどして抜けてしまうと、一気に組織崩壊の危険に晒される。上杉家を見ているとその様な現代社会にも通ずる状況が見えてくる。謙信死去に際して、景勝と景虎の抗争は正にそうしたカリスマ性を失った組織が方向性を見失い身内の争いと言う何も益の無い戦いに陥ってしまった事態だ。
本書はその様な混乱した状況から頭角を表し、その後の戦国時代に名を馳せた直江兼続を中心に繰り広げられる上杉家の歴史を題材にする。タイトルは兼続個人名となっているが、本人について書かれた文献が少ないため実質的に上杉家や刀を交えた敵側の文献に寄るところが多い。戦国時代を扱うゲームなどでも、武勇に知謀に政治力にオールマイティな能力値がつけられることの多い兼続ではあるが、実際に謙信死後の景勝をよく支え、内政に戦に縦横無尽の活躍をした。但し、前述の武田家臣群の様な優秀人材が他にいなかった事が、兼続により多くの活躍のチャンスを与えたのも間違いなく、目立つ存在にならざるを得なかったとも言える。
そうした直江兼続を一躍有名にしたのはNHK大河ドラマで主人公として扱われた事が大きい。上杉家の歴史を紐解けば、兼続は石田三成と親しい間柄であるから関ヶ原では破れ去っているし(この時の殿は前田慶次で、見事な撤退戦で有名)、結果的に上杉家の没落に繋がった事から、長きに渡り歴史的には評価が低かった様だ。だが徳川家康からも評価され、蒲生氏郷や他の優秀な武将とも並び称され、また兼続死去まで上杉家の為に内政に尽力し続けた事が現代での評価に繋がっている。
兼続本人の私生活や性格などに直接触れる機会は本書の中にも少ないが、そうした上杉家の歴史、特に主君上杉景勝に絶対的な忠義を捧げ、上杉家の為に死力を尽くし続けた直江兼続。兼続は死に際して後継を決めず御家断絶を決断する。関ヶ原に敗れ上杉家没落の責任を一身に背負い、最後の最後まで上杉家の為に生涯を捧げた忠臣であろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
直江兼続について色々誤解していました。すごく真面目な人なんだなぁと。もちろん冷徹な部分もある。安全策を選ぶタイプが特にイメージと違った。
軍師ではなく執政という言葉はしっくりきました。なるほど。
毛利家の小早川隆景を思い浮かべました。あとは石田三成、本多正信と同じポジションだなぁと。彼の場合、主家に裏切られなかったところは幸せに見えました。
一番素晴らしいと思ったのは、失政したら、きちんと打開と後始末をしてから辞職したところです。現代のお偉いさんは、みんな見習ってほしい。本の冒頭にも出ていた現総理大臣が、過去を繰り返すかどうかはまだわからないけど。直江兼続を見習ってほしいものですね。 -
大河ドラマの主役にもなった人物にも関わらず、未だに謎が多い直江兼続という人物について、的確な考察をしてると思われる一冊。
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直江兼続の生涯について端的にまとまっている。偏見や極論が少ない良書。直江兼続の大河ドラマ化(天地人)にあたり、10年以上前から米沢で地道な活動が行われていたというのは驚きであった。
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レポートに活用。兼続の功績や敗戦責任の取り方等参考にした。
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(2009.01.17読了)
NHK大河ドラマ「天地人」が始まりました。記録に残っていない直江兼続(樋口与六)の幼少期が放映されています。今後の展開が楽しみです。
著者は、歴史を学び、歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト(何をする人?)で「歴史探偵倶楽部」を主宰しているそうなので、歴史大好き人間のようです。
「歴史について詳しく知ろうとするとき、既存書の子引きや孫引きから成り立っている書籍を読むより、一次資料に当たった方が広範なデータを得られるとともに、さまざまな発見がある。」(212頁)ということで、「大日本古文書」「上杉家御年譜」などの一次資料を引用しながら、既存の解釈に縛られない自由な推理を楽しませてくれます。
コラムでは、NHK大河ドラマの情報を入れたりしてドラマへの期待を膨らめせてくれます。
この本では、以下の三つのことを中核に据えて書いたということです。
・「兼続は、なぜ主君景勝から絶大な信頼を受け、上杉家のナンバー2になれたのか?」
・「関ヶ原の戦いに際し、兼続が策定した究極の作戦目的とは?」
・「兼続が上杉家再建に成功した秘訣とは?」
●「愛」という一字を前立てにした甲冑(18頁)
兼続が崇拝する愛染明王の「愛」の一字に由来するという説が定説となっている。謙信は毘沙門天を崇拝し、「毘」の一字を旗印に利用したように、仏の名の一字を武具に利用することは当時の流行ともいえた。
●兼続出世の理由(42頁)
新井白石の「藩翰譜」は「兼続は、十四、五の時、顔立ちが美麗だったために主君の景勝によって愛され、以後、側近として仕えて浅からぬ寵愛を受けた」と表記する。
兼続が21歳の夏から急速に出世する背景には、能力が優れていたという表面的理由だけではなく、主君景勝との間で性的関係が介在し、だからこそ、絶対的信頼関係を築くことができたとみなす方が自然である。
●謙信の養子の処遇(54頁)
謙信は二人の養子のうち、景虎には関東の支配を任せ、景勝には本国越後をはじめ北陸方面を支配させようとしていたらしい。
●上杉と真田(105頁)
1582年3月、武田家滅亡。真田昌幸は、織田信長に接近。本能寺の変の後、北条氏政に臣従を誓った。9月になると徳川家康に仕えた。1585年7月、家康を見限り上杉景勝の臣下になることを誓った。昌幸から服従の証拠として上杉家に差し出されたのが二男の幸村だった。
●秀吉への服属(108頁)
1586年5月20日、景勝一行は京都を目指し、春日山城を出立。秀吉は、石田三成を上洛の道案内として派遣し、27日、三成は加賀森本で景勝・兼続主従と出会った。景勝一行は、6月7日に京都に到着。大坂城へ12日に移ってからは、24日に帰国の途に着くまで、秀吉主催による接待攻勢が続いた。
●会津転封(135頁)
1595年2月7日、会津若松城主の蒲生氏郷は京都伏見の自邸で没した。1598年正月氏郷の子の秀行は、お家騒動の責任を問われ、宇都宮城12万石への転封を命じられた。
蒲生家が去ったのち、会津若松を与えられたのは、上杉景勝だった。江戸城主の家康の動きを背後から牽制する必要があると判断した三成からの提案だった。
会津への転封は、上杉家の重臣を先祖伝来の土地から引き離し、新たに領地を与えることによって主従の上下関係が明確となり、兼続の理想とした景勝を頂点とするピラミッド型の組織の完成が期待されたのだ。
●米沢30万石への転封(181頁)
上杉家の禄高が90万石から120万石に加増された時、会津から宇都宮へ減封の上で転封された蒲生家の家臣を大量に雇用したのだが、蒲生家が会津へ復帰するとともに、その大部分が蒲生家へ復職した。そして、上杉家の30万石への減封処分に対応するために、家臣たちに禄高を今までの三分の一にすると通達した。
著者 外川 淳
1963年、神奈川県川崎市生れ
早稲田大学第一文学部日本史学科専修卒
歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト
「歴史探偵倶楽部」を主宰
(2009年1月18日・記)