真田信繁の書状を読む (星海社新書)

著者 :
  • 星海社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061386013

作品紹介・あらすじ

一次史料から浮かび上がる、真田信繁の素顔
真田信繁は、「大坂の陣で活躍した武将」として広く知られています。しかし、大坂入城から討死までは、彼の人生最後の八ヶ月間にすぎません。それ以前の活動は、置き去りにしてよいものでしょうか? また、「幸村」という名をはじめとする、軍記物由来の情報も史実と勘違いされがちで、結果的に不確かな信繁像が流布してしまっているのが実情です。そこで本書では、信繁が出した全一七点におよぶ書状を道しるべに、彼の足跡を辿りなおしたいと考えます。軍記物など後世に編まれた「二次史料」ではなく、書状という「一次史料」を丹念に読むことで、多くの新知見を得ることができるでしょう。誰も知らなかった、信繁の素顔に触れる旅がはじまります!

感想・レビュー・書評

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  •  研究かくあるべしという本。文学の批評もこうあってほしい。一次資料、二次資料についての特徴と付き合わせ方。検討の仕方。書状に込められた臨場感。一つ一つ丁寧に読み、解説している。書状についての「字」だが、この「字」も文章においては、ほぼ書く人がいて本人のものではないということ。それから、日本のハンコ文化の始まりについての言及もある。手紙の紙の質から何から、上下関係による手紙の違いなど、思いもよらない複雑な儀礼・ルールもわかる。第一章の「史料を読むということ」というところだけでも、大変勉強になるし、教科書に載せて全国民が知らなければならないリテラシーを記していると思う。
     現代語訳で書状を読むのだが、妙に丁寧でかわいらしい。また、情報の伝達について、日本中にビュンビュン行き交ってたネットワークが伝わる。使者がどんな動きで、途中で書状を奪われないように移動していたのだろうか。
     それから、最終決戦中、功績を木に糸を通して首にかけて残すことで、後々の一族や仲間を救うことにつながるなど、戦後処理の形を書いてあるのも面白かった。硬派でがっつりな本でした。

  • 関係古文書を通じた真田信繁の一生、というまとめになっており、読み応えがあったのと同時に中世古文書学の基礎が随所に織り込まれていて、非常にためになった。これを読むと、資料館とかに行った時どうして古文書が紙の上の方にしか書いていないのか、解るようになる。

  • <閲覧スタッフより>
    真田幸村で知られる信繁の少年時代から大阪の陣時代までの手紙を通して波乱に満ちた生涯を追う。
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    所在記号:新書||289.1||サナ
    資料番号:10235046
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  • 真田丸の時代考証者が、真田信繁の生涯を出した書状17点や関連書状から考察している。現物(含む写)の写真、テキスト、現代語訳を掲げ、書状の意図や書かれた背景を解説する構成。冒頭で史料の取り扱い方に言及している部分には研究者の著作ぽさが漂うけれど、全体を通して丁寧な文章で綴られているので一般の歴史好きでも読みやすい。書状の中に私信色が強くても「詳しくは使いの者にお尋ねください」という戦国頻出?フレーズが出てくるのはもどかしいというか想像力をかきたてるというか。

  • (2021/12/06読了分)真田太平記全12巻読了を機に再読。真田信繁の前半生の研究はまだ緒についたばかり、というのになるほど、と。いわく、生年は今までよりぐっと下がって元亀三年ごろでは。そうなると信幸との年齢差は1歳ではなく6歳差に。第一次上田合戦に出るには幼すぎるので、参戦してないのではという可能性。また次男ですらなく、信之とのあいだに男子がいた可能性も、と。北条氏征伐時の忍城攻めでは真田昌幸・信之ともにパッとせぬ失態があったが、後世の軍記物で戦巧者のイメージが。「豊臣」は、源氏、平氏、藤原氏のように「本姓」であり、秀吉の「苗字」は「羽柴」だった、といったあたりが今回読んでなるほどと思ったところ。/(2016/10/03読了分)書状という史料を題材に、元服の時期、実際の活動、石高、家族とのやりとり、馬廻りとしての暮らしぶり、配流時の逼塞具合など様々なことが浮かび上がってくる。そして、書状と関連する文書も用いて、鮮やかに年代比定を実施し、紙や文例、折り方などからも情報を取得し、判断していく手さばきが惚れ惚れするほどで、歴史研究の興奮に満ちた一面を提示してくれたように思った。/以下、備忘録として。/秀吉馬廻りに取り立てられ、肥前名護屋に出陣していたp.96より/真田氏の石高から昌幸・信幸に賦課された普請役を引いた380人を信繁担当分と換算し、信繁の石高を19000石と見積もる。p106より。/真田氏は信幸が徳川家康の姻戚となった一方で、昌幸・信繁が豊臣政権奉行と密着する複雑な姻戚関係を構築したと言える。ここに、関ヶ原合戦において、親子兄弟の判断がわかれる素地が存在したといえる。p.110/信繁が借金を申し出ているのは、彼が伏見という「消費地」かつ大名・旗本が集う「サロン」で暮らしているからであろう。交際費は、馬廻りとしての体面にも関わってくるから、削るわけにはいかなかったと思われる。p.118/信繁が昌幸に従って「西軍」についたのは、秀吉馬廻りとして、豊臣政権奉行衆との間に張り巡らせた姻戚関係によるものであろう。p.146/(上杉景勝が自領の分断を解消すべく行動、毛利輝元は四国九州で領土拡張を図り、西軍の城も攻撃、昌幸には領国拡張を持ちかけ) 三成挙兵は、豊臣政権が成し遂げた天下一統を破壊し、時計の針を戦国の世に戻す状況を生み出していたのである。p.157/以上から、信之は慶長一〇年の上洛時に、河原綱家を伴って九度山を見舞ったことが明らかになる。これが、昌幸・信繁親子と、信之との永遠の別れとなった。p.175/1000石でも領主として復帰したいというのは、30代を九度山に埋もれて過ごした信繁の本音であったのかもしれない。しかし合戦中に寝返っての栄達、しかも主君として仰いだ秀頼を滅ぼしての出世など、信繁には思いもよらなかったのであろう。p.238/本多正純がなんども信用してくれと言ってるのは、信頼できない話と正純が悟っていたからだろうp.238より/信繁が石合十蔵に頼んだことは長女すへを決して離縁してくれるなということであった。九度山で「家族」とともに一四年もの時を過ごした信繁にとって、それが「守りたいもの」のひとつの答えであったのかもしれない。p.248

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著者プロフィール

慶應義塾大学文学部非常勤講師

「2021年 『戦国遺文 真田氏編』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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