自我の哲学史 (講談社現代新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061497924

作品紹介・あらすじ

デカルト、カント、ライプニッツからハイデッガー、レヴィナスまで…宮沢賢治や西田幾多郎の自我論とは?

感想・レビュー・書評

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  • 「自分のことは自分が一番よくわかる」ってホント?
    自我って何?
    重荷になった自我
    「心などない」
    崩れていった少年
    自己責任論が生む癒し願望
    自我の耐用年数

    西洋近世哲学における自我
    「自我」概念の内実:
    他我ならぬ「自我」のアイデンティティー
    「自我とはコレコレのものである」
    私だけの自我なのか
    「自我」と「自己」
    実存主義、仏教、社会心理学

    デカルトからカントへ:
    懐疑を通じて「自我」の存在を確立する
    じつは不徹底なデカルトの懐疑
    自我は思惟実体である
    「思惟」はどのようなものか
    デカルトのいう自己意識とは
    「内的な認識」とは何か
    「コトギ」は超越論的性格を含む
    誰であっても必然的、規範的な自我
    「超越論的自己認識(統覚)」としての自我
    「超越論的統覚」は多様を「統一」する
    現象我と超越論的自我
    自我の同一性
    同一性の強化
    カントの二重の自我―道徳哲学の位相
    フィヒテの自我論
    フッサールの自我論
    内容を含む自我はあるか

    ライプニッツの自我論:
    個体的実体とは
    「私についての完足的概念」
    個体的概念には内的規定と外的規定が含まれる
    社会心理学との類似
    個体の事実真理とは何か
    同一性について

    意志としての自我へ――キルケゴールとニーチェ:
    根源的な意志としての自我へーキルケゴール
    「自己」とは「関係」である
    深まり行く「絶望」の現象学
    「自我」から「自己」へ
    「力の意思」としての自我―ニーチェ
    自我は「遠近法」である
    主観性の形而上学の極点としてのニーチェ
    自己を超えていく「超人」
    じつはモラリストのニーチェ
    真の自我は「創造する者」である
    ディオニュソスとツァラトゥストラの間で
    キルケゴールとニーチェによって「自我」概念はどうなったか

    20世紀大衆社会の中の自我――ヤスパースとハイデッガー:
    ヤスパースの「現代の精神的状況」
    「大衆」
    自己放棄
    ハイデッカーにおける「現存在の日常性」
    気分づけられた自我
    「不安」
    ハイデッカーの「現存在」は脱近代的か?
    現存在もひそかに「立ち・続ける」
    雄々しく決断する現存在?
    ハイデッカーの「歴史性」概念に見え隠れするもの
    生と死のあいだに伸び広がる現存在
    「四方域」に「立つ」現存在

    現代哲学と自我――ブーバーとレヴィナス:
    故郷喪失者たち
    ヴァーチャル世界と自我
    ブーバーとレヴィナス
    ディルタイの「生の連関」

    自我のゆくえ
    宮沢賢治の自我論:
    宮澤賢治と西洋哲学の出会い
    「わたくしという現象は・・・」
    「心象」としての自我
    「因果交流電燈」とは何か
    「心象スケッチ」という方法の意味するもの
    風景とひとつになった自我

    西田哲学の自我論――我は我ならずして我なり:
    西田哲学の立場
    「純粋経験」から「自覚」へ
    「自覚」、「限定」
    術語となって主語とならないもの
    「場所」としての自己
    「無の場所に包まれる」
    「自我は何である」とは言えない
    「自己」を行ずる
    西洋の自我論、日本的な自我論
    自己の深い体験

    夏目漱石の自我論:
    「私の個人主義」
    「現代日本の開化」
    自我の葛藤の問題
    「良心」としての自我
    「非人情」とはなにか
    我は我を知らずして我なり

    16世紀南西フランスで起きた偽者事件:
    自我が「同一性」を獲得する
    偽マルタン事件がわれわれに教えるもの
    近代以前の社会と「偽者」
    ライプニッツの言いたかったこと

    日本人と自我のゆくえ:
    癒しブーム
    西洋哲学の基本特性と「癒し」願望
    西洋哲学と現代世界
    目で見るとは
    「見ること」の攻撃性、そして「癒し」
    今日の日本社会における自我の形骸化
    自我は必ずしも同一人格ならず
    「自分がない/ある」
    アリストテレスの「中庸の徳」
    優れた人柄とは
    能動的で、持続的に努力する自我
    別の自我モデルの可能性
    失われつつある生活の知恵
    エピローグ 仮面の自我、あるいは着脱する仮面
    「福祉」の概念によせて

  • 「私とは何か?」という哲学上最も重要かつ永遠の問いを歴史的に考察。第1部は西洋哲学史となっており、中々読み応えがある。第2部は明治以降の日本思想史(文学史?)となっており、心理学や宗教学等々色々と混ぜ込んだ日本文化論となっている。著者は「自我」に関して西洋と東洋を比較しようとするのだが、そもそも1部と2部とではアプローチやテイストが違うので比較が上手くいってないような印象を受ける。
    著者の結論としては西洋的自我(主体性・同一性・連続性)は東洋的自我(仏教的?共同体的?)とは合わない(というかそもそも日本には自我がない)ので、無理に西洋的自我に合わせる(取り入れる)必要はないというありきたりで平凡なものになってしまっている。個人的には2部以降や東西比較はイラナイので1部で言及する哲学者を増やしてもっと充実した西洋哲学史の内容にして欲しかったかな。

  • 「自我」あるいは「自己」という概念が、西洋思想史のなかでどのようにかたちづくられてきたのかをたどり、日本における「自我」のとらえかたとのちがいを論じた本です。

    自我を思惟実体だと考えるデカルトから、自我を対象認識の超越論的制約としてとらえなおすカントへと展開していった西洋哲学の「自我」論においては、「自我」の同一的・連続的・主体的な性格が色濃く示されています。これに対してライプニッツの個体的概念は、内的規定のみならず外的規定をもア・プリオリに含む「完足的な」観念とされており、世界全体との関係のなかで個別化された「自我」のとらえかたが見られると著者はいいます。

    さらに著者は、キルケゴールやニーチェなどの「自己」の観念についての理解を概観します。そこには、カントによる経験的自我と道徳的自我との分裂を乗り越えるような発想が見いだされるものの、やはり理想的な自己がめざされているという傾向がつきまとっているという指摘がなされています。

    こうした西洋哲学史上の「自我」概念に対比するしかたで、著者は近代日本における「自我」理解をたどっていきます。宮沢賢治の「因果交流電灯」としての自我、西田幾多郎の「場所」としての自己、さらに夏目漱石の文学などを題材に、日本的な自我から出発しつつ倫理的次元へと超越することが可能だろうかという問題が提起されています。

  • デカルトからカント、ライプニッツなどを経て、日本に「近代自我」が輸入されて消化される(実際はされていないが)までをざっと振り返る内容。読み応えのある箇所もある。

    読み終えて思ったのだけど、自我の「哲学史」はタイトルどおりだとしても、ハイデガーで「存在」そのものを問うあたりで、ちょっと自分には違和感があった。それよりもエリクソンあたりを引っ張ってきて近代自我という点に限って自我史みたいなのを書き進めてもらったほうがよかった気がする。

  • 2015.11.10
    なんともペシミスティックな感じの結論で終わってしまった、現代日本人にとっての自我を哲学からめぐる本。本来、自我という概念は西洋哲学の伝統から生まれ、それはソクラテスやアリストテレスなどの古代ギリシア哲学の時代から半ば暗黙の内に求められた、主体的同一的自律的自我であった。デカルトやカント、ハイデガーなどもこれらの前提から、自我とは何かを問うてきたにすぎない。対して現近代的日本の自我とは、このような主知的な自我ではなく、感性的な、まさに宮沢賢治のいう「明滅する因果交流電燈」である。つまり自我論に関しても、日本の文化や社会によく言われるように、我々は西洋的自我概念の上っ面のみを受容したに過ぎず、その本質の根はまだ旧来の日本人の自我概念に張っていない。こうして、一方で日本的自我、それは村社会とか縦社会などで担保されてもいた自我を近代の西洋化の中で見失いつつ、さらに西洋的自我を受容しきれないという、自我の二重の喪失がいまの現状であり、ではどうするかといえば、公的な場においては西洋的社会なので自我(西洋的な主体的同一的自律的な自我)の仮面を被り、プライベートではその仮面を外し感性的自我に戻るというダブルスタンダードでとりあえずやり過ごすというのが現実的な回答ではないか、とする。いろいろ考えさせられることはあった。そもそも自我って必要?私って何?ってことに対する疑問も答えも必要?というそもそも論的な問いはなかったし、私はこの本に述べられた西洋的自我を自明視し、その考えが自分に合うと思っていた。だから、自我について問わない人、その時その時で生きる人、自分とは何かという問いを持たずなぁなぁに生きる人に対してある種の軽蔑感情も持っていたことは否定できない。しかしだからこそ宮沢賢治、西田幾多郎、夏目漱石らの自我論を本著で見たときの衝撃も大きかった。西洋的自我とは全く対照的なその感性的自我、非同一的自我論に確かに説得力を感じ、そのような私も確かにいることを感じたからである。また心理学とは違って自我と自己を二元論化し、自我を作用、自己を対象とする見方も参考になった。私は、やはり旧来の日本的自我は確かに存在していたと思うし、逆にだからこそ、ダブルスタンダードと言わず、西洋化を考えなしに受け入れたことによるこの生きづらさから、社会を変えていく力が出ていけばいいのかな、なんて思ったりする。また知性的自我と感性的自我、イデア(理想、本質、定義)と洞窟の影(現実、仮象、無情)、同一性と明滅性、一と多、単色とモザイク、というこの一見対照的な西洋的自我と東洋的(?)自我は、自我のどこを見るかという点による違いではないのか、とも思う。しかしそうならば、一体どのように構造化されているのだろうか。ある一つの西洋的自我から、モザイクのような東洋的自我が生まれているのか、それともモザイクのような東洋的自我(心象)のひとつとして、西洋的自我があるのか。それとも、自我は自我としてあって、この西洋と東洋の違いは、自我として、個人として如何にあるかという、文化内での自我的人間への理想、志向の違いではないか。自我に対する当為的認識がその認識を歪めて、その歪みの違いが出ているだけではないか。考えれば考える程に困惑する。しかしこのような頭でっかちな考えでなく、また民主主義社会の基盤たる個人の条件としてでもなく、我々には私とは何かと知りたくなる欲望があることも事実で、自己同一性が見失われることによる、自己拡散による病理や性格の歪みがあることもまた事実である。これらの欲望は、西洋化社会への受容によって生み出された、つまり学習された欲望なのか、それとも生得的に備わってる根源的欲望なのか。やはり考えれば考えるほどに困惑する。しかし知性に訴え知性により自我を知ろうとする試みにより日本人としての私の自我概念の限界を見極めることもできるかもしれない。方法的主知主義というか。そこから見えるものがあるという期待の元、知性的自我概念が日本人には適合しえない可能性も加味しつつ、今後も思索を進めていこうと思う。なんならクリシュナムルティや唯識などが説くように、理性や知性、考えるという方法そのものにも、東洋的人間の幸福への限界があるのかもしれない。現代日本における精神的状況における自我の問題を、そもそもから問い直し炙り出した一冊。

    2015.11.11p.s.
    モザイクとして現れるというのは、感情や欲望などの表象を、表象のまま解釈してるだけの話ではないか。これを解釈に止めず監視、支配しようとするのが西洋的自我ではないか。感情や欲望も内省がなければ認識はできないし、そしてその自己認識の有無が、同じく感情や欲望を持つ動物と人間の違いだろう。自らを監視し認識する自我は、心の内から現れる感情や欲望に常に後手だ。それらを、あるがまま受け止めるのが東洋的自我で、それを論理の力で支配しようとするのが西洋的自我で、内なるモザイクの表出に対する姿勢の問題ではないか。内なる私に、いいよいいよって放任するか、かくあるべしと抑えつけるかの違い。この姿勢の違いは、前近代における子供の教育への姿勢とパラレルな気がする。自我が他者への共感や推測の機能を自己に向ける形で生まれたのならば、自分との関係の取り方と、無意識に他者認識する際にベースにしてる人間観とは関わりがあるのかも。相手を見るのと同じように自分を見るというか。内なる私をフロイト的なエスと捉えれば、エスと自我の関係性の問題と言えるか。エスを、無常や感動の源泉としていとをかしとするか、我欲と執着の源泉として抑え付けるか。感じる私に重点を置くか、考える私に重点を置くか。そういう、自分との関係の取り方も考えていかないとな。この考え認識する自我を「私」とするなら、私のコントロールから外れて欲するエス的私はまさに他人だし。

  • 一年次の人間学で読んだが、さっぱり興味がわかなかったのを覚えている。

    タイトル通り、テーマを「自我」に絞って哲学史を考察。

    自我というアイデンティティも考えてみれば実に不思議なものである。

    意識しようがしまいが、「自分」はあるわけだけれども、その「自分」をどのように見るか、また「自分を見ている自分」など、いろいろな見方が「自分」をめぐって生まれてくるわけである。

    「自我」という問題は、哲学の主題としてかなり根本的な位置づけがなされるのではないだろうか。
    そのような、自我に関する問いかけの変遷の哲学史を本書では扱っている。

    自我という観念は、西洋近世哲学において確立された概念であり、日本人にとっては「自我」は演じさせられるものであるという。

  • [ 内容 ]
    デカルト、カント、ライプニッツからハイデッガー、レヴィナスまで…宮沢賢治や西田幾多郎の自我論とは?

    [ 目次 ]
    プロローグ 「自分のことは自分が一番よくわかる」ってホント?
    第1部 西洋近世哲学における自我(「自我」概念の内実 デカルトからカントへ
    ライプニッツの自我論 意志としての自我へ-キルケゴールとニーチェ ほか)
    第2部 自我のゆくえ(宮沢賢治の自我論 西田哲学の自我論-我は我ならずして我なり 夏目漱石の自我論 16世紀南西フランスで起きた偽者事件 ほか)
    エピローグ 仮面の自我、あるいは着脱する仮面

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    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • ニーチェの自我は理想化された啓蒙のあるべき自我ではなくどこまでも現実的な自我をそのモデルとしてる。

  • デカルト〜レヴィナスのそれぞれの自我思想を辿りつつ、結局その背後に透けるのは(全面に出たりもしてる)同一性ってやつだってこと。
    で、そういう西洋哲学から輸入された自我は、果たして日本に合っていたのか?今もなお、合っているのか?みたいな。
    私がやりたいのがそのへんだったので、興味深く拝読いたしました!

    でも同一性ってのもわるいことじゃないよね?

    私って、ほんとうになんなのだろう。

  • 卒論資料。
    哲学やっぱりおもしろいー。

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著者プロフィール

1950年京都市に生まれ、東京都で育つ。1974年京都大学文学部哲学科(哲学専攻)卒業。1978~1981年フライブルク大学留学。1982年京都大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程修了。文学博士(京大)。日本学術振興会奨励研究員、京都女子大学専任講師、岡山大学文学部哲学科助教授を経て、1995年より学習院大学文学部哲学科教授。現在、日本ライプニッツ協会会長、実存思想協会理事、比較思想学会理事等。著書:『世界と自我─ライプニッツ形而上学論攷』(創文社)、『自我の哲学史』(講談社現代新書)、『ライプニッツ』(清水書院)、『ライプニッツのモナド論とその射程』(知泉書館)、共編著:『ライプニッツ読本』(法政大学出版局)、『ライプニッツを学ぶ人のために』(世界思想社)、訳書:ロムバッハ『実体・体系・構造』(ミネルヴァ書房)、ハイデッガー『論理学の形而上学的な始元諸根拠』(ハイデッガー全集第26巻、創文社)、共同監修:『ライプニッツ著作集 第Ⅱ期』(工作舎)、ほか。

「2021年 『ライプニッツの正義論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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