- Amazon.co.jp ・本 (379ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061965218
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 19/56
’16/10/06 了
長かった全八巻に及ぶ武蔵の物語もこれにて終幕。
宮本武蔵と佐々木小次郎による巌流島の決闘というクライマックスに向けて物語が収束していく。
お通さんと城太郎の再会、お通さんとお杉婆の関係の氷解、長い長い人生の回り道を経て夫婦となった又八と朱美……
そんな彼らが、武蔵の決闘の行方を見守ろうと、一所に集まる様は物語の最終局面を彩るものとして良かったと思う。
一方で姉弟であることが明かされてから相対していない伊織とお通さんなど、もう少し描いて欲しかった部分への言及が足りない気がしたのも事実。
小次郎と武蔵の決闘に決着がついた後、剣の実力のみで言えば小次郎の方が上だったかも知れないと言う表記があったことも良かった。
戦いの敗者に対しての賛辞が最後にあったことで、それを破った武蔵の試合巧者ぶりも窺える。
最終巻だけに色々と急にまとめに掛かっているなと感じる部分も多々あったが、その最たるものがお杉婆の改心。
急に良い人になりすぎていて、違和感しか感じなかった。
三つ子の魂百までと言う言葉がある通り、あんなに急に人の心根は変わらないだろうと思う。
1935年に一話目が新聞に掲載されたこの作品は、今から80年前の作品。
世間の持つ宮本武蔵及びそれに関わる人物への認識は全てこの作品に基づいたものであると言っても過言ではない。
「史実」を超えた認識を我々に与えている作品だ。
家中の積ん読を全て読み終えようと行動を起こして数ヶ月たつが、いつかは読まなければと思っていた作品を読み終える機会に恵まれて良かった。
--------------------
気に入った表現、気になった単語
「「艱苦に克ったすぐ後には、艱苦以上の快味がある。苦と快と、生きてゆく人間には、朝に夕に刻々に、たえず二つの波が相搏(あいう)っている。その一方に狡く拠って、ただ安閑だけを偸(ぬす)もうとすれば、人生はない、生きてゆく快も味もない」」(P84)
「寝る間も油断のならない危険に研がれ、絶え間もなく生命を窺う敵を師として、しかも剣の道は、人をも活かし、世をも治め、自己をも菩提の安きに到って、悠久の生ける悦びを、諸人と共に汲み頒(わか)とうという願いにほかならないのである。--その至難の道の途中で、たまたま、つかれ果て、虚無に襲われ、無為に閉じ籠められる時--卒然として、撓めていた敵は、影を顕してくるものとみえた。」(P101)
「が武蔵には間髪のまに、処する方法が立っていた。兵法によらず、すべての理は、それを
理論するのは、平常のことでわ実際にあたる場合は、いつも瞬間の決断を要するのであるから、それは理論立てて考えてすることではない。ひとつの「勘」であった。
平常の理論は「勘」の繊維をなしてはいるが、その知性は緩慢であるから、事実の急場には、まにあわない知性であり、ために、敗れることが往々ある。
「勘」は、無知な動物にもあらから、無知性と霊能と混同されやすい。智と訓練に磨かれた者のそれは、理論をこえて、理論の窮地へ、一瞬に達し、当面の判断をつかみ取って過らないのである。」(P104)
「荒海(わだつみ)の潮(うしお)のような樹々の唸りに体を吹かれて佇んでいる」(P186)
「この船出に、身に纏うている黒い小袖は、光悦の母が自ら針を持って縫うてくれたものである。
手に持つ笠や草鞋。その他一物たりとも、何か
世間の人の情けの籠もった物でない物はない。
いわんや、碌々、米も作らず布も織らず、百姓の耕す粟を喰っている身は--まさしく世間の恩で生きている。
(何をもって酬いようか)
心をそこにおく時、彼は、世間に対して慎む心こそあれ、迷惑がる気もちなど起すのは勿体ないと知るのだったが--しかし、その好意が余りに、自分の真価に対して過大であり過ぎる時、彼は、世間を恐れずにいられなかった。」(P207)
「何しろ、合わせる顔もないとして、権之助はそう聞くほどさらに、伊織を尋ねることに焦心っていたのだった。
--と。その武蔵が、愈々、小倉へ向って立つということを、昨日九度山で聞いた。
(かくては何日(いつ)か)
と、意を決し、面(おもて)を冒(おか)して会うつもりで、早々、道を急いできたのだったが、」(P210)
「「驕慢な天才と、凡質を孜々(しし)と研いた人と、いずれが勝つかの試合ですな」
「武蔵様も、凡質とは思われませんが」
「いや決して、天稟(てんぴん)の才質ではありますまい。その才分を自ら恃(たの)んでいる風がない。あの人は、自分の凡質を知っているから、絶えまなく、研こうとしている。人に見えない苦しみをしている。それが、何かの時、鏘
然と光って出ると、人はすぐ天稟の才能だという。--勉めない人が自ら懶惰をなぐさめてそういうのですよ」(P212)
「天にあっては比翼の鳥、地に在っては連理の枝とならん」(P234)
「お通はその時まったく、自分が病人であることは忘れていた。しかし城太郎にそう注意されても彼女の意志は肉体を超えて、はるかに高い健康な信念の中に呼吸していた。」(P240)
「岩間角兵衞にしてみれば、自分の世話した巌流が、今日かくのごとく名声を得、君寵も厚く、大きな邸(やしき)の主ともなってくれて、その邸でこうして一杯の酒の馳走にでもなるということは、世話がいがあったという気持から、人生の欣(うれ)しいことの一つを杯の一口一口に舐めているような顔つきだった。」(P253)
「あたたかい心で人の中に住め。人のあたたかさは、自分の心があたたかでいなければ分かる筈もない」(P274)
「舟が進んで行くにつれ、佐助は、ひとりでに先刻から、肌(はだえ)に粟を生じ、気は昂まり、胸は動悸してならないのである。」(P345)
「射るという眼はまだ弱いものであろう。武蔵の目は吸引する。湖のように深く、敵をして、自己の生気を危ぶませるほど吸引する。
射る眼は、巌流のものだった。双眸(そうぼう)の中を、虹が走っているようき、殺気の光彩が燃えている、相手を射竦めんとしている。
眼は窓という。思うに、ふたりの頭脳の生理的な形態が、そのまま巌流の眸(ひとみ)であったであろう、武蔵の眸であったにちがいない。」(P358)
【舂(うすづ)く】
太陽が山の端にかかる、夕日がまさに没しようとすること。
【渇しても盗泉の水はくらわず】
ひどい苦難や貧乏にあっても、不正なことには加わらないこと。 -
大団円の第八巻。
又八、朱美、お杉ばば、城太郎、そしてお通。
これまで武蔵と関わった人々が、
巌流島という場所に集結し、
全ての人が救済された。
まさに大団円というのに相応しい。
だが、その後佐々木小次郎との決闘という
誰もが知っている結末が残っている。
戦いの結末も、どのような方法で決着が着くかも、
誰もが知っている話ではあるが、
不要でもつまらなくもない。
ここに辿り着くための長い旅だった。
吉川先生は武蔵の精神の剣が、
小次郎の技や力の剣に勝ったのだとした。
解説も面白い。同じ国民作家の名で呼ばれる
司馬遼太郎による宮本武蔵像が書かれているが、
彼は勝つための合理主義者として描いたらしい。
戦前の精神主義と戦後の合理主義。
同じ人物を描いてこうも違うのだろうか。
元々この小説は直木三十五と菊池寛による
武蔵名人説、武蔵非名人説の論争に対し、
吉川先生が回答として書いた小説だった。
宮本武蔵という人物の実像は謎に包まれている。
私が巌流島で会ったとある人物は、
武蔵を評してつまんねー奴と言っていた。
お通との恋も、又八との友情も、
沢庵和尚を初めとする一流の人物との邂逅も、
全て吉川先生の創作だろう。
そういう意味では本当の宮本武蔵はつまらない。
だが、本当につまらない人物だったとしたら、
彼は歴史に埋もれていったことだろう。
後世の人々が宮本武蔵という男のことを考える。
それだけでも彼は偉大な人物であり、名人なのだろう。 -
悩み続ける武蔵。又八との再会。お杉ばばとの和解。そして、宿縁の敵佐々木小次郎との決闘。それぞれの登場人物が最後の決闘へ向けてそれぞれの思惑の上で動いていく。
武蔵の又八と再会時の言葉、「遅くない。今からでもやりなせる。自分を見限ったら人生それまでではないか。」の言葉。自分の弱さ、人として生きていくことの難しさを悩みに悩みぬいている武蔵だから言える言葉。いつだってどこでだって、遅くない。人生いつからだってやりなおせる。今の自分を打開したいひとに読んでもらいたい良作。 -
巌流島の戦い。お杉の改心に感動。
-
最大の山場とも言える、手に汗握るシーンが含まれた巻だったけど、読み終えたらなんだか静かな気持ちになった。8巻あっという間だった。楽しかった。
2014/9/10 -
少年よ(少年でなくとも)大志をいだけ。というメッセージに感じました。
しかし、心入れ替える前のお杉さんはすごく暗黒だ。 -
早くよめばよかった
-
能力や腕だけでは駄目。精神力がなければ。
特に8巻に至言多数。
登場人物の多くには共感できるのだけど,本位田のおばばにだけは共感できない。
特に改心前のおばばのような老人にはなりたくない。