- Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061975880
作品紹介・あらすじ
「司馬遷は生き恥さらした男である。」に始まる本書は、武田泰淳の中国体験もふまえた戦中の苦渋の結晶であり、それまでの日本的叙情による歴史から離れて、新たな歴史認識を展開した。世界は個々人の集合であり、個の存在の持続、そして、そこからの記録が広大な宇宙的世界像と通底する。第一篇「司馬遷伝」、第二篇「史記」の世界構想。
感想・レビュー・書評
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中国古典へ読書領域を広げたいと考えているのだが、あまりにも知識的に無防備すぎる。若干なりとも武装をする上で、何がよいかと選んだのが、武田泰淳「司馬遷ー史記の世界」。
いくつかの英雄列伝のエピソードを知っている程度という、悲しいほど知識のない私に対して、「史記」の世界を全的に紐解いてくれる本であるわけだが、何でしょう、この読後の感覚。
未知の書物を解説されて、そこに感動がある、という現象。たとえば知らない映画の解説を聞いて興味を持つことはあったとしても、感動にまで至るか?
「史記」という領域の広大さ奥深さが故なのか、武田泰淳の一世一代の作であるが故なのか。ひとまず中国古典のイニシエーションは無難に済んだ(それが甘いのかどうかは、いまに分かる)。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
傑作というものは、何年たっても傑作ですね。高2で出会ってから50年たったのですがそう思いました。
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「歴史は、繰り返されない。それは明らかだとしても、その「歴史」なるものを生み出す人類に荷わされた、宇宙の生物としては一種特殊の「性格」と「運命」は、あいかわらず我々にこびりついているばかりでなく、ますますふくれあがり、明確化され(或る意味ではアイマイ化され)つつある。(略)壮大なる夢と、みじめったらしい執着がからみあって、人類の精神をひきつらせている。「人間よ!お前はそもそも何物なのであるか?」という問いが、あらためて、さらに深く重く広く我々を息苦しくさせ、また反面では(不思議なことに)愉快にさせる。イエス・キリストが生誕されるよりも前に、かの司馬遷という男は、男らしくもこの難問に立ち向かい、そのけなげな姿勢と大きな影は、不気味な日蝕の如く、現代の我々の日常に覆いかぶさっている。」(1965年新版への序文)
この思わせぶりな序文が、私は好きだ。武田泰淳は、上海で日本の敗戦を知った時に原爆によって日本壊滅の噂を聞き、「かつて日本という国があった」という長い長い長詩を書いたという。既に司馬遷を読み込んでいた彼は、人類史の中に、人間と国とを当価値に置く物差しを獲得していたのである。どういう物差しか。それは例えば以下のようなものだろう。
「動かすもの」は人間である。世界を動かすものは人間以外にない。(66p)
昭和18年にそこを掴んで離さなかったことで、その他の様々な司馬遷論をリードする。
「司馬遷は生き恥をさらした男である」(25p)有名な冒頭の言葉が武田泰淳の人生にどのようにリンクするのかは知らない。司馬遷が「史記」を完成させる第一の契機が父親の憤死であったことは確かだろう。立ち上がりはそれでも、「現代への批判者」として立ち上がるためには「生き恥」が必要だった。
理性的で生真面目で超一級の知識を持ち国随一の文章力を持った人間、そういう人間だからこそ、感情を爆発させて筆を走らせた時に、奇跡は起きたのだろう。蓋し、歴史を描きたいと思う人には、史記は必ず通るべき門だと思う。
2013年9月27日読了 -
古本で購入。
「司馬遷は生き恥さらした男である」
という印象的な書き出しで本書は始まる。
匈奴討伐に失敗した李陵を庇ったことで武帝の逆鱗に触れ、宮刑に処された司馬遷。
彼の受けた屈辱と絶望、憤りと執念をもって書かれた『史記』。
著者は、司馬遷が『史記』において描いた世界構想を明らかにせんとする。
曰く、世界の歴史とは政治の歴史であり、『史記』の意味する政治とは「動かすもの」のことである。
「動かすもの」、つまり歴史・世界の動力となるもの、それが政治的人間であり、それこそが『史記』の主体をなす存在なのだと言う。
司馬遷は世界の中心となった政治的人間としての「個人」、すなわち帝王を描く「本紀」を書いた。
そしてその中心の周縁、あるいは新たな中心となる存在としての諸侯を「世家」で書くことで、世界が常に空間的に持続することを説く。
そして「列伝」において、英雄豪傑を始めとするあらゆる政治的人間を描いた。
著者の解き明かす『史記』の世界は(司馬遷の意図が真実そこにあるかは措いて)刺激的でおもしろい。
ただ全体的にどこかファナティックな、著者自身の執念のようなものが感じられる。
それを考えると、評伝とは言え確かに“文芸”作品なのだと思う。 -
李陵の禍によって宮刑を受けながらも、生きて『史記』を執筆した司馬遷という人物と、彼の歴史観について考察している本です。
著者は、「司馬遷の前にくりひろげられていた世界は、わたくしたちの前にくりひろげられている世界とは、くらべものにならぬ程狭いものであった」としながらも、それが漢代における「世界」であり、司馬遷はその『史記』において「世界全体」のことを考えたのだと述べています。そのうえで、『史記』における「本紀」と「世家」、あるいは「表」、「列伝」などの構成を検討し、彼の「世界全体」をとらえるまなざしが、時間的に見れば個別的な中断をふくみつつ、全体としては空間的な「絶対持続」を実現しているという見かたが提出されています。
同時に著者は、こうした世界の中心に天子という個人が置かれているといい、「人間」のすがたをえがくことによって「世界」のすがたはえがき出されていると指摘しています。ただしこのばあいの「人間」は、学問が分化していない時代における「人間」であり、そうした「人間」の性格が文学者や英雄豪傑の記述においても反映されていることをたしかめようとしています。
著者が31歳のときに刊行された本であり、司馬遷の世界観の全体像を把握しようとする意図が先立ちすぎているような印象もありますが、著者の鋭いまなざしが随所に感じられます。 -
武田泰淳による「司馬遷」観は,後の中国文学の理解に影響を与えた。歴史的人物の成果から人間観を読み取ろうとした痕跡がみてとれる。
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武田泰淳 「 司馬遷 」 司馬遷の伝記と史記の書評
司馬遷の伝記について、心つかまれる序文だった「司馬遷は生き恥さらした男である〜名著は苦しみによって生まれるが〜絶対絶命の気持ちを司馬遷が持っていた」
史記の書評について、史記本紀から始まり、史記世家、史記列伝につながる一つの歴史書として考察している。史記は列伝だけ読めばいいか と思っていたが、本紀から読んでみたいと思う
時間の流れを捉えた編年体でなく、人間の行動と破滅から歴史を捉えているため、人間が人間を破滅させて 歴史が変わる残酷さを感じる
史記の始まりである本紀は 徳のある少数者が政治を動かし、歴史を動かしたという論考。神話でなく、人間から歴史が始まることに 歴史の記録性を重視した司馬遷の歴史家としての姿勢を感じる。
本紀の中で異質なのは呂后。世にもおそろしき女として 呂后紀をあげ、戦国時代下の恐怖政治から人間の歴史を論じている
世家では 孔子世家と陳渉世家を対称的に取り上げ、列伝では 伯夷を人間精神の頂点とし、貨殖を最下底とする構想に目をつけて 考察している。面白い見方だと思う
司馬遷の歴史の捉え方
*歴史を持続として捉えている〜持続とは 絶えるものであり、続けなければならないもの
*歴史とは政治の歴史〜人間は政治的人間と化し、世界を動かし 歴史を作りだす
名言「勇敢卑怯は 時の勢いであり、強い弱いは 時の有様にすぎない」
本紀
*世界の中心は〜何者かにとって変わる〜徳をなくせば〜勝利者は敗北にみまわれる
*世界の中心になる少数者の一生を見つめることにより、世界の歴史を書こうとしている
孔子世家
*国なき人(喪家の狗)を象徴〜本紀や世家を頼らず生きる姿
*喪家の狗となって現実世界を否定
*孔子世家は世家を批判〜孔子世家には 孔子批判の老子、晏嬰もある
陳渉世家=転換の世家
*狼を象徴〜漢代グループに転換する前に狼が必要
*燕雀は鴻鵠(こうこく=大きな鳥)の志を知らず
*批判者とならず、自ら行動者となり歴史的人物となる
伯夷を頂点とし、貨殖を最下底とする列伝の構想
伯夷列伝
*人間の精神の美しさ
*伯夷列伝は伯夷個人の歴史でなく、人間精神の象徴
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司馬遷がどんな姿勢で歴史と向き合ったのか。また、歴史書を記すことに並々ならぬ情念を傾けていたであろうことがわかる。歴史とは何か?を考えさせられる一冊でもある。
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「史記」は、武帝より屈辱的な刑罰を受けた司馬遷が、世の中への憤りと諦観をもって纏めた歴史書であることが理解できた。解説を読むと、その情念は著者にも共通するものとのこと。
内容的にはやや哲学的でした。