ニッポンの音楽 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882965

感想・レビュー・書評

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  •  タイトルを見ると日本の音楽史を通観した本のように思えるが、実際には扱っている範囲は1960年代末から現在まで。このタイトルは、同じ著者の『ニッポンの思想』の続編(音楽編)として構想されたがゆえのものだ。

     佐々木敦もいまや早稲田大学教授だが、『シティロード』などで彼の書くものを昔から読んできた人間にとっては、音楽(&映画)評論家というイメージが強い。
     私にはむしろ、彼が『ニッポンの思想』のような本を出すことのほうが意外だった。本書には、本来の専門分野に立ち返った印象がある。

     過去45年間の「日本のポピュラー音楽の歴史」を、「『Jポップ』という言葉が登場する『以前』と『以後』に、大きく二分割して論じ」た概説書である。

     いくらでも長大になり得るテーマを新書1冊に収めるのだから、枝葉はバサバサ切る必要がある。
     そのために著者が選んだ方法は、章ごとに一つのディケイドを扱い、各章に「主人公」にあたるアーティストを設定する、というもの。章立ては次のようになっている。

    第一部 Jポップ以前
    第一章 はっぴいえんどの物語
    第二章 YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語
    ~幕間の物語(インタールード) 「Jポップ」の誕生~
    第二部 Jポップ以後
    第三章 渋谷系と小室系の物語
    第四章 中田ヤスタカの物語

     ご覧のとおり、第一章は「はっぴいえんど」を主人公に1970年代を扱い、第二章はYMOを主人公に80年代を扱う……という具合になっているのだ。
     ほかのアーティストにも随時言及はされるが、「主人公」との関連の中での言及に、ほぼ限られる。

     ディケイドを象徴し得るアーティストに的を絞ることで、そのディケイドの「流れ」を浮き彫りにする、という手法を著者は選択したのだ。
     この手法は十二分に成功していると思う。総花的にいろんなアーティストを取り上げ、「こんなのもいた、あんなのもいた」とやって時代を映し出そうとするより、よっぽど気が利いている。

     「第二章 YMOの物語」はYMO論としても出色だし、中田ヤスタカについて論じた最終章も、音楽の作り方自体が昔(1970年代あたり)とは根本的に違っている「いま」を浮き彫りにして、目からウロコ。

     『J-POP進化論』(佐藤良明)など類書も多いが、管見の範囲では本書がいちばんわかりやすく、出来がよいと思う。

  • ここまで考察できる熱量に脱帽。思惑や狙いって本人でさえ分かってない場合もあるけど他者の深読みは面白い。ベクトル変えて違う文脈から語られる音楽批評も読みたくなった。

    あくまで本著は大枠で簡潔なJPOP以前/以後の歴史、はっぴいえんど〜YMO〜渋谷系(フリッパーズギター・ピチカートファイヴ)〜小室哲哉〜中田ヤスタカの話。
    例えば、小室哲哉の項ではプロデュース全盛の同時期に幅を利かせていた小林武史や奥田民生、つんく♂に関してはほぼ触れられていない。そういう意味では、時代を変えたと言える人が登場しているのかも。サザンの日本語ロックへのドロップキック他80年代アイドルや歌謡曲等には焦点が当てられていないのはそこまでの余白がなかったのだろう。全ての主要邦楽シーンをカバーして論じている猛者がいたら教えてほしい。

    印象に残ったのは、中田ヤスタカと坂本龍一の対談の一部が引用された箇所。歌詞の意味は重要視せず音の響きで詞を作る、歌詞が耳に入ってこないタイプだ、と。自分も歌詞よりメロディやリズムに入り込むから、そして歌詞の話に共感できないことに後ろめたさや疎外感を感じていたから、少し安堵した。そういう聴き方してもいいよね。

  • 20180826

  •  図書館で借りてきた本。
     大仰なタイトルだが、1969年以降、現在(2014年当時)までの日本のポップミュージックについての書物。しかも歴史叙述や概観ではなく、何組かのアーティストに絞って書かれている。取り上げられているのは「はっぴいえんど」、YMO、ピチカート・ファイヴ、小室哲哉、中田ヤスタカがメインである。
     これらのミュージシャンについて、プレイヤーであるよりもむしろコンポーザー/アレンジャー的な気質が強く、更にそれ以前に、重度の音楽ファン、レコードマニアであるという特色に基づいて語られている。この場合彼らがたくさん聴いているのは外国の音楽ということらしい。
     従って著者が本書で筋道をつけようとしているのは、海外の音楽を愛聴しそこから自分たちの音楽を、自分たちの文脈のなかで生成しようとしたミュージシャンたちの歴史、日本の「外」と「内」の物語だ。
     もちろんそのようなテーマでは、幾らピックアップ対象を絞ったとは言え、新書1冊で語り尽くすのは不可能だ。そのため本書は、ミュージシャンたちの物語をエピソード的につらねた読み物ではあっても、統一テーマを突き詰めた批評にはなっていない。
     おもうに日本文化は集合的自我としての「日本人」への帰属・主体回収が根強いため、このように「内と外」がいつまでも問題となってきている。そうであるがゆえに、その文脈の中からでは、海外で通用する作品がなかなか出てこないという症状が露わになる。ひとつには単純に言語のせいでもある。本書もそのような病症を前提として書かれているように思えた。
     この本の中では、YMO時代の細野晴臣のインタビュー中の発言が印象的だった。
    「キャラクターで売れてくる国だな、という感想を持ったことがありますね。最初は顔を隠して、匿名性を徹底してやろうと思っていた意志が崩されて、一人ひとりキャラクターとして扱われだして、どうしても顔が出ていっちゃう。」(P.119)
     この「キャラクター主義」が日本的集合自我の特徴であることは確かだ。音楽そのもの、作品そのものよりも、キャラクターによって評価され、受容される。これが日本独特のアイドル文化や、ゴシップによりマスコミが個人を一斉にたたくヒステリック状況に現れたりするのだ。

  • 図書館がおくる、「クラブ・サークル向けおすすめ図書」

    クラブ・サークル名 軽音楽部

    請求記号:K-2296 講談社現代新書
    所蔵館 2号館図書館

  • 1960年代末から現在に至るまでのJポップの大きな潮流を語った本です。ただしとりあげられているアーティストは、はっぴいえんど、YMO、シブヤ系と小室系、中田ヤスタカと非常に限られており、著者自身の観点からJポップの大きな流れをえがきだすことがめざされています。

    選択が偏っているという印象もたしかにあるのですが、Jポップの半世紀近くの歴史を現在から振り返ってそこに大きな流れのようなものを見いだそうとしたとき、著者の選択もまったく恣意的なものとはいえないのではないか、という気もします。ただ、ハロプロやPerfumeはむろん「ニッポンの音楽」であるとはいえ、アイドル史の観点から考察するべき対象で、「ニッポンの音楽」の歴史のなかではメイン・ストリームとは言い難いようにも思います。むろん、未知の音楽を追い求める「リスナー型ミュージシャン」が失敗し続ける「物語」としてJポップ史をえがこうとする著者の観点から、これらの「現象」に注目されるのも、それなりに理解はできるものではあるのですが。

  • 小林信彦の『日本の喜劇人』のような私的だけど正統的なJ-POP史。教えられること多かったです。

  • 『邦楽』から『Jポップ』へといつの間にか名前を変えたニッポンの音楽について、Jポップが生まれ落ちたメルクマールを軸にそれ以前と以後に分けて45年間を通覧するという本である。

    その手法として本書では45年間にわたる国内の音楽史を紐解くという通史的な手法は取っていない。
    主に60年代末から70年代。70年代末から80年代。80年代末から90年代。90年代末からゼロ年代、そしてテン年代とされる現在まで、それぞれの10年間(ディケイド)において、『ニッポンの音楽』に少なからぬ影響を与えたであろう『主人公の物語』として、各年代における『ニッポンの音楽』の在り様、変容を通覧するという作りとなっている。

    面白いことに、というかメルクマールとしている以上狙いもあるのだろうが、この40~45年に渡る通史の中のちょうど真ん中に『Jポップ』なるものの言葉の誕生が登場する。
    したがって『Jポップ』前の20年、その後の20年という括りで『J』なるモノが思想、文化になにをもたらしたのか?文化的条件が出そろったから『J』になったのか?そのあたりに興味があり、本書を手に取ってみたのである。

    著者は中田ヤスタカに代表される「内」と「外」をリアルタイムで同期させるオールインワン型のミュージシャンの登場をもって、リスナー型ミュージシャンの完成系、そして「内」と「外」という文化的枠組みと「過去」と「現在」という時間軸の消滅によりJポップは葬られたとする。

    ここにボクは『ニッポンの音楽』には描かれていない、日本的変容を遂げながら、時代時代を奏でている『日本の音楽』の存在を再認識せざるを得ない。
    あれだけ業界、聴衆を巻き込み、90年代に空前の音楽産業の好況を招いた『Jポップ』がその終焉を迎えたからといって、日々リリースされていく現在の日本の音楽は、ではいったいなにものなのだろうか?

    J-WAVEがそのポリシーを曲げてまで国内の音楽を内包化させるために生み出した方便である『Jポップ』も著者が定義する『ニッポンの音楽』としてのJポップは終焉を迎えたのかもしれないが、相変わらず市井に『Jポップ』という言葉は存在する。

    『Jポップ』という概念もまた、極めて日本らしい日本的変容を重ねて大衆化されてしまったからこそ、著者は終焉としたのではないだろうか。

    そういう意味では、本書の対象はボク的には非常に関心を持ち続けてきたアーティストであり、読み物としてはとても面白いが、日本の音楽における歴史観・文化批評という面では非常に偏っていると思わざるを得ない。

    本書であえて触れられていない、昭和歌謡やフォーク・ニューミュージック(ともに一部触れられてはいるが本書の本質ではない)、それに昭和のアイドル歌謡とバンドブーム。昨今のアイドルグループ全盛等々の大衆音楽の位置づけはどうなのか?

    そしてボクがなにより気になる日本語の節。
    5・7・5・7と気持ちよく詞が沁み込んでくるときの日本語の節の特徴。
    古代万葉の時代から綿々と受け継がれてきた、日本という土地と季節と風景に裏付けられた日本独自のリズムと抑揚が、どのように現在の日本の音楽に受け継がれてきたのか?
    時代時代の「外」の文化を取り入れた日本的変容がどういう形で表現されてきたのか?

    むしろ、著者が『ニッポンの音楽』の対象としていない、日本の音楽におけるメインストリームである大衆音楽のアーティストが歌い、奏でる音楽と『日本』という関係性の分析こそ、『日本の音楽』というべき文化批評足り得るのではないだろうか?

    といっても、「新書」という限られたパッケージであるので、限られた字数で特徴的なモノをまとめないと中途半端に終わってしまうというのもよくわかるのだ(笑)
    そういう意味で、前書きである意味言い訳をしてるんでしょうけど(笑)

  • 2016/1/14購入
    2016/2/1読了

  • おもしろかった。70年代からゼロ年代のそれぞれのディケイドを「はっぴいえんど」「YMO」「渋谷系・小室系」「中田ヤスタカ」の4つの物語として構成し、日本のポップミュージック史を描く。横軸に「海外と日本の音楽シーンの関係性」を据えることによって、実にわかりやすく読み応えのある「物語」を提供してくれている。

    ただ、菊地成孔もそうだけど、現代思想にも通じつつ音楽史を書く人は、歴史を「物語」であると前提にしたうえで叙述を進めていく傾向があるように思う。そのエクスキューズは、はたして必要なのだろうか。多様な音楽があるなかで、いくつかのものをピックアップして叙述する言い訳に「物語」ということばを使っているような気もする。

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著者プロフィール

佐々木 敦(ささき・あつし):1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の諸領域で活動を展開。著書に『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『ゴダール原論』(新潮社)、『ニッポンの文学』(講談社)、小説『半睡』(書肆侃侃房)ほか多数。


「2024年 『「教授」と呼ばれた男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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