科学史・科学哲学入門 (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065228395

作品紹介・あらすじ

私たちが生きている現代世界において、決定的な役割を果たしているのは、「西欧近代科学」であるといえるでしょう。しかし一方で「科学」は、時間的・空間的な規定を受けており、普遍的・絶対的ではないことを認識する必要があります。
本書では科学の起源を問い直します。ラテン語の《scientia(知識)》に淵源し、古代ギリシアに生まれた「自然現象を自然現象として認め、ある原理的な体系から、そうした個々の現象の説明を与える」という思惟構造が、西欧で独自の発展を遂げたものです。
キリスト教敵世界では、「神の意志」と「理性による世界支配」が、自然界と人間界両方の秩序の根幹であるとの考え方が」だんだんと支配的になります。そして中世ラテン世界は、十字軍を経て、アラビア文化圏から流入したギリシア・ローマの「科学」的遺産を吸収し、本格的な「西欧・近代・科学」へと発展していきました。その流れの中で、アニミズムの否定、自然の世俗化、それが進展しての実証主義が支配的になります。魔術から技術へという流れです。そして未来はつねに「進歩」をもたらすものでなければならないというドグマのようなものが支配的になったのです。
そしてこの科学の考え方が、私たちの思考法をどのように呪縛しているのかを、点検していきます。「観測の問題」「言語による外界の把握」「造られた科学」「《整合性》と《簡潔性》」などなど、実際の例を取り上げながらやさしく解説していきます。まさに「科学史」の入門書といえる一冊です。

【原本】
村上陽一郎『科学・哲学・宗教』(レグルス文庫)第三文明社 1977年刊

【目次】
I 科学・哲学・神学
 1 科学を準備したもの
 2 科学のなかのヴェクトル
 3 科学の反省
 4 未来への展望
キリスト教の自然観と科学
 1 キリスト教と近代合理主義
 2 キリスト教からの科学の「離脱」
 3 現代への示唆

II 科学的知識と信仰との異同
  植木屋の譬え話
  自然科学での実際の話
  誰が素粒子を見たか
 「見える」ことが「存在する」ことか
 「……を見る」と「……として見る」
 「……として見る」の基礎構造
 「ことば」による把握
 「……を見る」ことと「……を存在させる」こと
 科学は何によって造られるか
 自然科学的理論の「流行」
 簡潔性と整合性
 価値の世界との「整合性」
 「心」の私秘姓
 「こころ」の存在
 こころと素粒子
 自分の「こころ」と他人
 人間の「こころ」の特殊性
 こころの普遍化への二つの方法
あとがき
学術文庫版あとがき

感想・レビュー・書評

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  • 高校生の頃、村上陽一郎氏の本を大学受験の小論文の問題で読んでいた。某私大の試験にも出てきた。科学と技術は別物という話だったと記憶している。

    久しぶりに村上陽一郎氏の本を読もうとKindleで購入した。近代科学は「暗黒の中世」の否定、その前のキリスト教的な価値観の否定から始まったといわれるが、彼によるとさにあらず。キリスト教だからこそ近代科学を育んだのだと。

    一方で、科学の暴力性や明と同時に暗を生んだ点も哲学者らの指摘を通じて言及されている。科学の暴走を止めるには哲学、さらには神学のアプローチも必要なのだろう。

    半世紀近くの前の本だが、まだ新鮮。傍において物事の考え方のヒントにしたい。

  • 純粋な科学哲学を語るまでには至っておらず,その前段階の「科学史」と「哲学」についての解説となっている。

  • 2部構成です。

    第Ⅰ部は、科学とキリスト教の関係について。
    例えば、近代合理主義と自然科学はキリスト教を否定して始まったと考えられがちだけれど、カトリックに投獄までされたガリレオ=ガリレイの信仰は確固としたものだった。むしろ彼の科学は神のことばを自然の中に求めるというモチベーションに支えられていた、というような話です。

    第Ⅱ部は、哲学について。
    素粒子は目で見ることができません。素粒子の存在は、あくまで科学的知識・理論のネットワークによって認められたものです。
    他方、目の前にある物(例えばペン)は、人間が直接経験できます。しかし、ペンの存在は、人間の持っている概念や認識枠組みによって認められている面があります。
    最後に心ですが、自分の心の存在は自明なのに、他人の心の存在は証明しようがない。にもかかわらず、自分の心は、他人の心によって作り上げられてきたものでもあります。

    ここまでは、西洋史や哲学の入門書にある話のまとめにすぎず、目新しさはありませんでした。
    ただ、最後の約10ページで、科学と信仰という一般的には全く別の領域にあると思われている概念が、関連付けて論じられます。
    ここは自分の中では盲点ででした。

  • 科学史・科学哲学入門とタイトルにはあるが、科学と宗教、
    あるいは科学と信仰の関係を主に考察の対象にしている。
    もちろんここで言う「科学」とは西欧の科学なので、その
    科学史・科学哲学史は宗教、すなわちキリスト教を抜きには
    考えることは出来ないのは自明である。そのため単純に科学
    の歴史や哲学を考えるためだけでも押さえておかなければ
    ならないポイントが多数含まれている。もともと1977年に
    刊行された本なので、あちらこちらに古さを感じたりもする
    のだが、現在でも読む価値のある書であることは間違いない
    と思う。

  • 宗教と科学の連続性を説いた本。2章に分かれており、
    一章ではキリスト教がどう科学の発展に寄与してきたのか、科学とキリスト教の密接さについて。
    2章では「ものを見る」という観点から、演繹的に哲学、科学の裏にある絶対存在の可能性を明らかにしていく。

    私たちは自然科学学教の信仰者なのかな。それが他の宗教に比べて論理性が高く、かつ功利的であるから信奉しやすいのかもしれない。

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著者プロフィール

1936年東京生まれ。科学史家、科学哲学者。東京大学教養学部卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学教養学部教授、同先端科学技術研究センター長、国際基督教大学教養学部教授、東洋英和女学院大学学長などを歴任。東京大学名誉教授、国際基督教大学名誉教授。『ペスト大流行』『コロナ後の世界を生きる』(ともに岩波新書)、『科学の現代を問う』(講談社現代新書)、『あらためて教養とは』(新潮文庫)、『人間にとって科学とは何か』(新潮選書)、『死ねない時代の哲学』(文春新書)など著書多数。

「2022年 『「専門家」とは誰か』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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