方法叙説 (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (112ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065267295

作品紹介・あらすじ

ルネ・デカルト(1596-1650年)の代表作は、この新訳を待っていた――。
本書の訳者を務める小泉義之氏は、哲学や精神医学から現今の政治に至るまで、幅広い問題をめぐって繊細かつ大胆な思考を展開してきた。その根底に、自身が『意味の論理学』の翻訳をしたジル・ドゥルーズの哲学があることは、よく知られている。
だが、小泉氏自身の「原点」として厳然と存在し続けているのは、ルネ・デカルトにほかならない。最初の著書『兵士デカルト』(1995年)から四半世紀、ここに渾身の新訳をお届けする。
多くの訳書で採用されている『方法序説』ではなく『方法叙説』という日本語題を採用したことも含め、本書は細部に至るまで、小泉氏にしかできない思考と工夫が浸透している。
今後、デカルトの最も有名な著作を読むとき、この訳書を無視することはできないはずである。

[本書の内容]
第一部
第二部
第三部
第四部
第五部
第六部

訳者解説
文献一覧

感想・レビュー・書評

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  • "私が発見したものがいかにわずかであっても、それを誠実に公衆に伝えること、そして、善良な精神の人がその先へ進むように促すこと"。
    本書は、デカルトの研究の方法論、原理を記した書物である。その目的は、"先行者が終えたところから後続者が始めるようにして、多数者の人生と労働を結合し、われわれ全体として、個別に行なうよりはるかに遠くまで進むため"である。しばしば、超克すべき近代の象徴として、独断的懐疑論者というレッテルを貼られ、悪者にされがちなデカルトだが、実際に本書を読むと、それとはかなり違った印象を与える。それはむしろ、石橋を叩いて渡るように慎重に帰結へ進むための懐疑であって、おのれの主張のために強硬に否定するための懐疑ではないところにある。
    "この真理〈私は思考する、故に、私は存在する〉は極めて堅固で極めて確かであって、懐疑論者によるどんな途方もない仮定も揺るがすことができないほどである"。第四部を通読すればわかることだが、この有名な命題において重要なことは、実際には続きがあって、夢の中の不明瞭な思考と異なり、「この私の思考」が真であるためには、完全な知性=神から思考が到来する(保証される)必要があるとデカルトは考えたことだ。つまり、神の存在証明が思考(魂)の保証とセットになっている。のちにカントが道徳法則(自由)の保証から神の存在と魂の不死を引き出したのに対し、デカルトは「私」から出発して思考の保証として神を要請した。もちろんその意味では、やはり「私」の域を出ないし、「客観的な論証」という内省にすぎないといえる。
    ただし、「私」「独我論」のイメージが強いデカルトだが、次の世代へ自分の認識を利用してもらう意図が強く見受けられる(もちろん啓蒙的とも言えるが)。その端緒として、第六部では、重要な真理が見出される限り、書き続けなければならないとする。デカルトが「書く」理由は、①精査の機会を増やすこと。②公衆に資する機会を失わないため。ただし、書いたものに価値があるなら、死後に利用されるが、死後出版しなければ反論・論争によって、自己を教育する時間が奪われてしまう。我々の配慮は現在より遠くまで広がるべきで、次の世代に利益があるなら、今生きている者への利益は割愛しても差し支えないという。デカルトは、アリストテレス学派の徒を例示して、凝り固まった集団(共同体・言語ゲーム)の知的停滞を批判する。それは、デカルトが「それまでの歴史的知性を継承し、自分で思考すること」を何より生きる喜びとし、人類の使命と考えていたからだといえる。いずれにせよ、死後400年近く経った書物をいま読み、利用できる環境にあることは素晴らしいことだ。『屈折光学』『気象学』『幾何学』と切り離して読むことが適切なのかはわからないが。様々な読み方があるとは思うが、「(知性の)次世代への継承」という生き方が、本書に現れている、文字通り死後も利用されうる点である。
    ちなみに、学知ではなく戦場から哲学への回帰、数学、論理学、簡略化された記号による説明、徹底した懐疑、名誉を求めない、他人の説に関与せず論理を優先する、樹木(梯子)を登る比喩など、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインと重なるところが多い。特に、必要なもの以外捨象するスタイルは、独特な静謐さをもった論証として共通している。
    また、人間の魂の不死を論証する前提として、心臓と動脈静脈の解剖学的な構造説明に長々と頁を割いているところは、魂(精神・理性)=心と心臓の結びつきを強調していて、興味深い。
    ・第一部
    良識(判断力)は、万人に備わっているものとされる。判断が異なるのは、異なる道を行き、同じものを考察しないからだ。肝要なのは、よい精神をよく使うこと。理性、分別は、人間を動物から区別するものにすぎない。理性の差異は、種の個体の偶有性における差異のみであって、形相ないし自然本性ではない。自身について判断を下すとき、自信ではなく、不信に傾くように努めている。万人の行動や企ては哲学的には空虚だが、真理探究への進歩には満足している。★しかし、金金剛石が銅硝子にすぎないかもしれない。この叙説で私の人生を絵画のように表象できれば嬉しい。各人が判断して、新たな手段を付け加えられる。したがって、ここでは、自分の理性を導いた努力を見せるだけ。教育でも教訓でもなく、誰かに有益になればと、寓話として提示するだけ。
    幼少から文献で育ち、学業課程を終えたが、自分の無知を自覚するだけだった。そして、望んでいたような学説はないと判断した。しかし、学校の訓練は役立ち、諸言語は古代書物の理解に、寓話は精神の目覚めに、歴史は記念すべき行動を示し判断を鍛える。良書は過去の教養人との会話、最良の思考を見出す。雄弁は力と美、詩は繊細さと優しさ、数学には発明、人倫は教訓や勧告、神学は天国、哲学は真に見えるよう話す手段、法医学は名誉と富など、あらゆる学問を知ることで、正しい価値を認識し欺かれないようにできる。
    私は言語、古典読書、歴史、寓話に時間を費やしたが、過去の読書で会話、旅しすぎると、自国のうちで異邦人になってしまう。現世紀に無知になる。寓話は不可能を可能と錯誤し、歴史はつまらない細かい事実は省略され、力量を超えた人倫の意図をもってしまう。数学は確実性と明証性に惹かれたが、機械技術にしか使われていない。哲学は多様な主張があり、何世紀も論議されているがいまだ疑わしく、真に見えるものも虚偽だ。錬金術師、占星術師、魔術師にも欺かれない。文献から離れ、世界を探求する決心をした。旅、宮廷・軍隊を見る、多様な身分の人を訪ねる、実験結果を集める、運命の巡り合わせで自らを鍛えること、あらゆるものを反省し益を引き出す。誤れば罰せられる推理は、書斎の推理より多くの真理を生み出す。他民族にも共通で受容されたものを見て、実例や慣行だけで納得しないこと。そして、数年間世界という書物の中で研究・実験に努めた後、
    "私自身のうちでも研究し、私の精神の全力をあげて、従うべき道を選ぼう、と決心した。"★
    書物と国から遠ざかったからこそ、うまく成し遂げられたと思う。
    ・第二部
    ドイツの宿営地にて時間があったので、思考に没入した。複数よりも1人の職人の作品の方が完成度が高い。古都の不均等を見ると、人間の意志より偶然であるとみえる。法律も良し悪しではなく、賢明な立法者1人の考案によって一つの目的に向けられている方がうまくいく。学問も複数人によって肥大化するよりも、1人の推理の方が真理に接近できる。我々は、欲動と教師に統治されるが、理性だけに導かれるほど最善ではない。町の家屋、国家機構、学問秩序を一から個人が改めることはないが、信念や見解については、全て一度きっぱりと信念から取り除くことを企てることが行いうる最善のこと。★
    公共体の不完全性は、慣行によって補完されており、多くの不完全性を修正してきた。
    私の意図は、私自身の思考の改革に努めること。世界には二つの精神がある。①自らを有能と過信し、思考を順序立てる忍耐をもたない精神、②自身で良い見解を探すより他人に従うことで満足する精神。見解の相違があることを知らなかったら、私は後者だったろう。しかし、反対意見でも野蛮ではなく理性は同等であるし、中国人や食人種の中で育ったり、服装の流行が10年後に流行るとしてもなぜ今滑稽なのか、考察したところ、我々を納得させるのは、確実な認識ではなく、慣行と実例である。★
    →真理などなく、言語ゲームにおける共有。
    すなわち多数派が真理とは限らない。したがって、自己を導くことを自ら企てざるをえない。★若い頃、哲学の論理学、数学の幾何学者解析と代数に専念した。しかし、論理学には有害な準則が混じっており、見極めが難しい。解析と代数は有用と思えない題材に特定の規則記号に従属させられ、精神を開発するどころか混乱させる技法になっている。したがって、長所だけを利用する方法を次のように考えた。
    多数の準則よりも4つの準則を堅く守ればうまく規制される。①私に明証的に受け入れられるものだけを真とする。②難問は分割すること。③思考は順序に従って段階的に複合的な対象に到ること。④全面的に枚挙、見直しを行うこと。★
    認識は同じ仕方で相互に繋がっており、順序が適切なら、最後には到達し、隠れたものを見出せる。数学の方法をもとに、考察を対象の関係と比例だけに絞り、比例認識が容易になる基体にだけ比例を仮定し、基体を固定せず、線において比例を仮定し、簡略化された記号で説明するのがよいと考えた。★
    →ウィトゲンシュタイン『論考』
    真理は各事物に一つしかないから、真理を発見する者は、知りうる限りのものを全て知っている。この方法は、理性を善く使っている。しかし、諸学の原理は哲学に基づくのに、哲学で確実なものを発見していないことから、哲学の原理を確立しようと考えた。当時23歳であったから、速断と偏見を避けるため、年齢を重ねるまで待った。
    ・第三部
    住んでいる家の建て直しをするときに別の家に住むように、理性の不決断の間に幸福に生きるため道徳を自ら定めた。4つの格率。
    ①我国の法律と習慣に服すること。
    →ソクラテス
    宗教を守り、最も穏健で極論から遠い見解に従い、自己を統治すること。健全な者を見極めるには、語ることよりも、実践することに注意すること。極論は悪しきが常であるから、穏健が最適かつ最良。また、失敗したときも穏健であればさほど逸れない。自由を削るのは極論に入る。★
    →ハイデガーの失敗
    ②自らの行動に果断であること。一度決めたら従うこと。
    →果断、思い切って行うこと。
    旅人が森で迷ったときは、彷徨うべきでも留まるべきでもない。常に同じ方向に進むこと。どこかにはたどり着くし、森の中よりましだろう。真が見分けられないときは、蓋然性の高い見解に従うべき。蓋然性が不明でもどれかに決めて、決めたら真とみなすべき。このことによって、後悔と呵責から解放された。★弱く不安定な精神は、移り気に実践し、後悔と呵責で良心を乱される。
    ③運命より自己に打ち勝つよう常に努めること。世界の秩序より自己の欲望を変えるよう常に努めること。我々の外部のものは、思考の力の及ぶ範囲にないから、得ていないものを望まず、自己を満たす。自分が中国やメキシコの王国、ダイヤモンドの体や翼を所有していないのと同じように、備わるべき善、病気中の健康、獄中の自由を望まなくなるだろう。ただし、このようになるには、何度も省察を繰り返す必要がある。苦痛と貧困にも拘らず、自己内にあるのは思考だけと知っていれば、自分は豊かで力があり自由で幸福であると評せる。
    ④就くことのできる職務のうち最善のものを選ぼうと努めること。私は全人生を理性の開発に費やし、自己の定めた方法に従い、真理の認識に前進することで、極端な満足を体験した。他人からは無視されるが、私には重要な真理を日々見出したから、精神は満たされた。認識と善の獲得を信じていなければ、欲望を制限したり満足したりできなかっただろう。そのためには、最善を尽くして判断すれば十分で、そのことに確信できれば、満足できる。★
    信仰とこれらの格率を除いて、全て捨て去ることを自由に企ててよいと判断した。そのためには、この思想を得た炉部屋に閉じこもるより、人間たちと話す方が良いと判断し、再び旅に出た。★
    →東浩紀観光
    9年間は、世界における役者であるよりは、観客であろうと努めた。
    →東浩紀観光客、アーレント傍観者、カントスミス注視者
    誤謬を反省し、根こそぎにした。私の意図は、自己を確かなものにし、流土砂を除けて岩か粘土を発見すること。命題についての虚偽性不確実性を、明晰で確かな推理によって見出そうと努め、基礎がうまくいかない場合は、以後に役立てた。自ら定めた方法で練習を積み、様々な難問に実践した。書物や学識者を訪ねるだけよりも成長できた。難問や哲学の基礎の探究は果たさず9年は過ぎたが、その意図を果たしたと噂する人がいたので、その意に応えるよう、知人のいる場所から離れ、オランダに隠れ住んだ。この国は、自身のことを大事にする民衆の中で、都市の便宜を欠くことなく、砂漠にいるのと同じくらい孤独に生きることができた。★
    →ニーチェ砂漠
    ・第四部
    最初の省察において、少しでも懐疑のあるものは、全て捨て去らねばならないと考えた。感官の誤認、幾何学の誤謬推理、眠っているときもある思考、全てを捨てた。しかし、全てが虚偽だと思考する私は何者かであるということは、必然的である。
    "この真理〈私は思考する、故に、私は存在する〉は極めて堅固で極めて確かであって、懐疑論者によるどんな途方もない仮定も揺るがすことができないほどである"。
    哲学の第一原理として、躊躇なく受け取った。★
    私とは何であるか。身体、世界、場所がなくとも私であるが、私が存在しないとは私は仮想できない。反対に、私が懐疑することを思考しうるから、私が存在することは極めて明証的かつ確実。それに対して、思考を止めれば、私が存在したという理由がない。私という実体は、思考のみが本性であり、場所も物質も依存しない。★私とは魂。
    命題が真で確実であるための要請とは何か。思考のためには存在する必要がある。明晰かつ判明なものは全て真である、ということを一般的規則として認めうる。
    疑うことより認識することが大きな完全性であるから、私の存在は完全ではない。私より完全なものを思考することをどこから学んだか。これは、私に欠陥があることから、完全性をもつ自然本性に従属し、そこから学んだ。私より完全な存在者の観念は、自然本性から私のうちに置かれた。自然本性は、神。私は不完全であるから唯一存在ではなく、全てを完全な存在者から得ていることになる。
    私がいま夢を見ており、全てが虚偽だったとしても、感覚的物体的観念をもっていることは否定しえない。知性的自然本性は、物体的自然本性は区別されるから、二つが合成されてしまっている完全ではない知性的自然本性は、神に従属することになる。
    三角形の観念の中に、三角形の内角の和は二つの直角の和に等しいことは含まれているが、三角形の実在が確かめられないのと同じように、神の観念の中に、神の実存が含まれる。
    多くのものが神と魂の認識に困難を見るのは、感覚的なものを越えて自己の精神を高めないからだ。そして、物質的な思考の想像のみに頼っており、想像不可能なものを理解できないからだ。神と魂の観念は感官、想像にはない。神と魂が不確実なのは、身体や天体も同じだ。形而上学的確実性においては、別の天体や身体が想像できることが、身体や天体、地球が全面的に確かでないことだ。夢が鮮明であるのに、他の思考よりも虚偽だといえるだろうか。
    →フロイト夢判断
    神の実存を前提しなければ、思考する精神に対する懐疑を除くことはできない。★
    完全存在者としての神の実存から、我々の知性は到来する。
    目覚めていようと眠っていようと、我々は、想像や感覚など、理性の明証性以外のものでは、決して説得されないようにしなければならない。理性は、見たり想像したりするものが真であるとは教えていない。理性は、観念や知見に何か真理の基礎があるはずだと教えている。★完全で真である神が真理の基礎なしで観念や知見を我々のうちに置くことはありえない。夢が鮮明でも、目覚めながらもつ思考で真理を見出さねばならない。
    ・第五部
    第一の真理から演繹される諸真理の連鎖全体を紹介するためには、学者間で論争になっている諸問題について語らねばならないが、論争に加わりたくないから差し控え、真理を一般的に述べるだけにする。私は、この世界全体を学者の論争に委ねることにして、新たにカオスから作られる新世界についてだけ語ることを決心した。物質には形相や形質はなく、魂にとって自然であるものだけが物質であると仮定した。そして、カオスにも適用しうる自然法則、それに従う配置調整、天体について語り、特に地球について、重力、水と空気、天体の配置特に月の干満、水と空気の東から西への流れ、山海泉川の形成、金属の鉱山への移り行き、植物の平地での発育、混合物複合物の発生、火の自然本性、灰から硝子への転化を記述した。創造と保存は同じであるから、このカオスの世界が神が創造したとしてもこの現実と同じになると信じうる。世界は、少しずつ生まれると見るほうが容易である。
    そして、魂なき物体、植物、動物、人間の記述と移った。神によって最初に作られたと仮定した人間の物質的な部分は、理性なき動物と同じ。その後に、理性的な魂が神によって結合されたと仮定した。それが人間だけに属する機能。この題材を示すために心臓と動脈の運動の説明を入れる。(心臓の構造について長々と説明される)。心臓の運動が血液循環の真の原因である。最も注目すべきことは、動物精気の発生。心臓から脳に上昇し、全身の各部分に運動を与える。精気を脳に運ぶ動脈は、心臓からの動脈のうちで最も直線的である。さらに神経と筋肉、脳における覚醒睡眠夢、光音臭い味熱の感官から脳への観念の刻み込み、飢え渇きの観念、観念受容の共通感官、記憶、観念を変化する空想を示した。
    猿と見分けがつかない機械があるなら、動物と同じ自然本性とみなすしかない。しかし、人間に類似した機械は、①言葉や記号を思考の表明に使えないこと、②機械は認識ではなく、器官の配置によって動いている。理性は普遍的道具であるのに対して、特定の行動のために特定の器官を配置する必要がある。
    →AI
    人間と動物の差異でもある。人間は言葉で思考を表現できるが、動物はできない。オウムは発声できても思考しているのではない。
    →ウィトゲンシュタイン『哲学探究』人間はただ言葉を使うにすぎない。話す、という生活様式の一部。
    話すことにおいては、狂人、愚かな子供、脳に障害がある子供さえ、動物は対等にならない。動物と人間の魂と自然本性の差異。言葉と、機械でも模倣しうる自然な運動を混同してはならない。器官が多いわけではないから動物が動物の言語を話しているのではない。人間以上に技巧があるからといってその動物に精神があるわけではない。歯車と発条(ばね)だけの時計が人間より正確に時を計れるのと同じ。
    理性的な魂は、創造されねばならない。そのためには、魂がより緊密に身体に結合して合一する必要がある。動物と人間が同じ魂で、死後は何もないとする誤謬は、徳の正道から大きく遠ざける。魂の不死は、人間が動物の魂と異なることを知るときに判断される。
    ・第六部
    私は方法について書く気はなかったが、自然学の一般的知見を獲得し、様々な難問で試し、既存の原理と異なると気づいて以来、それを隠しておくことは罪になると感じた。火水空気天体天界の作用を使用することができるし、己を自然の主人・所有者にしうる。★
    →啓蒙・理性・人間主義
    大地の収穫物と全有用物を享受する技術だけでなく、善の基礎である健康の保存のためである。
    →ハイデガー自然、大地から集立ゲシュテルする技術。
    人間を賢明・器用にする手段は医学に求めるべき。いま医学は無に等しいが、原因と薬物の認識があれば、身体精神の無数の病気と老衰さえ免れうる。医学に全人生を費やすつもりだったが、人生の短さと実験の不足により断念した。★この対処として見出したのは、
    "私が発見したものがいかにわずかであっても、それを誠実に公衆に伝えること、そして、善良な精神の人がその先へ進むように促すこと"。
    それは、
    "先行者が終えたところから後続者が始めるようにして、多数者の人生と労働を結合し、われわれ全体として、個別に行なうよりはるかに遠くまで進むため"。
    認識を進めるためには実験が多く必要であるが、それは稀少な実験例が特殊微細で欺かれる場合もあるからだ。したがって、私は世界の第一原因(すべての原理)について、神だけを考慮し、我々の魂にある真理の種子から引き出した。そして天体、水空気火鉱物へ進んだが、さらに多様な特殊事物については、人間精神には不可能と思われたので、演繹ではなく実験結果から判断することにした。しかし、実験しなければならない数があまりに多いことから、有徳な人物に援助を依頼した。
    しかし、見解を変え、重要な真理が見出される限り、書き続けなければならない。
    →柄谷行人『探究1』書くことが生きること。
    理由は、①精査の機会を増やすこと。多数に見られることを前提するものの方が念入りに調べられる。紙に書くと虚偽に見えてくることもある。②公衆に資する機会を失わないため。価値があるなら、死後に利用される。ただし、死後出版しなければ、反論・論争によって、自己を教育する時間が奪われる。★我々の配慮は現在より遠くまで広がるべきで、次の世代に利益があるなら、今生きている者への利益は割愛しても差し支えない。★反論は有益と言われるかもしれないが、反論をめぐる経験からして、そこから利益を期待する気にはとてもなれない。友人や悪意嫉妬による反論を検討したが、これまで予期していなかった反論はなかったし、私自身より厳格で公平な者に出会うことはほとんどなかった。学院の討論で真理が見出されたと聞いたことはない。勝利が優先される場合、真らしさを付けることに気を取られるものだ。善良な弁護人が善良な裁判官になるわけではない。
    →柄谷行人『探究1』(大学・法廷)論争形式の弁証法の批判。内省、討論、他との対関係
    私の思想は、多くのものを付加しなければ、効用はない。自ら発明する方が、物事をよく捉えて我が物にできる。★
    →ウィトゲンシュタイン数学は発見ではなく発明。
    私自身の公表でなければ、私由来のものと信じないでほしい。★古代の哲学者の書物は、歪められて伝えられている。古代哲学の学派の徒は、その祖を超えたことはない。アリストテレス学派は、その樹木の先端に達すれば降りてくる。その頃には登る前より愚かになっている。
    →ウィトゲンシュタイン『論考』本書を理解した者は、梯子を捨てなければならない。
    学祖が語らなかったことについても解答を知りたがる。凡庸な精神に都合よい哲学の方式で大胆に語り反乱に固執し、その方法は洞窟の奥の暗闇に連れ込もうとする盲人に似ている。
    公益になるような偉大な実験をする者がいても、奉仕や結果提示は対話や虚偽という無駄になるから、できることは実験費用の提供か、余暇を奪わないようにすることだけ。
    本書は死後出版予定だったが、二つの理由で公刊せねばならなくなった。①公刊を控えることによって、評判を悪くしてしまうことが懸念されたため。②無数の実験が必要なのにそれが遅れていて、私が次の世代に寄与しえなくなってしまうから。そこで、論争にならない題材を選んだ。
    『屈折光学』『気象学』は、通常とは逆に、原因は結果によって論証されている。仮定された原因から、真理としての原因を演繹することを示唆した。しかし、演繹は、私の哲学原理とされるのを避けるため行わなかった。また、その過ちが私に帰されることを防ぐためだ。私の見解は、他人に言われたかどうかより、理性によって説得されたために受け入れた。
    →ウィトゲンシュタイン『論考』引用を付さない。
    フランス語で書いているのは、純粋な自然理性を用いる者の方が、古い書物だけを信じるものより、よく私の見解を判断してくれると期待しているからだ。私は、自然認識を獲得することに残りの人生を用いる。
    "私は自分を重要人物にする能がないことをわかっているし、重要人物でありたいと切望する気持ちもまったくない。""私の余暇を妨げずにその恩恵を享受させてくれる者に対して、常に恩義を担い続けるだろう。"
    ・訳者解説 小泉義之
    デカルト1596-1650は、遺言についての法学卒論を書いた後、文献による学問を捨て、オランダで兵士になり、『音楽提要』を書いたのち、ドイツ冬季宿営地の炉部屋で思索し、「世界という書物」に学ぶため9年流浪する。その後、オランダに隠棲し、「形而上学小論」を書き、数学・自然学の研究に打ち込み『世界論』刊行を企てるが、ガリレオ事件を聞き断念、この約20年間を綴ったのが本書。『屈折光学』『気象学』『幾何学』が付されて刊行された。1637年。
    第一部、文献は生きていくのに有用な認識をもたらしてはくれない。自己か、世界という書物に知をもとめた。戦場で命懸けの行動に出ることで、真理を求めた。
    →ウィトゲンシュタイン戦場で書かれた『論考』
    第二部で建築学的理性を宣揚する。古い土台を一掃する破壊的理性でもある。
    →カント建築術、ハイデガー解体、デリダ脱構築
    論理学と幾何学者解析と代数から、明証、分析、綜合、枚挙4つの準則を引き出す。演繹の順序が真理の連鎖と一致する健全性、あらゆる事物認識において破綻しない完全性を保証する。関係と比例を線で表し、それを代数記号で代数方程式として、幾何学的解析と代数を綜合する。
    第三部は炉部屋の思索の続きで、道徳の格率と信仰の真理以外を捨て、9年間の世界の観客としての放浪の後、オランダで隠れて孤独に、形而上学と哲学の探究に向かう。
    第四部で最初の省察がなされる。神の実存と魂の実存が、哲学の第一原理。
    第五部では、世界についての自然学が展開される。世界の発生論、神の保存則、進化の説明、世界の構造論との一致。人間について、心臓の運動と血液の運動を第一原因として、機械的機能を見出す。人体は自動機械。人間と機械の差異は、理性的な魂、すなわち言葉の使用と日常の行動。それが神によって創造されねばならないから、発生-構造論の問題となる。
    第六部では、ガリレオ『世界の二大体系についての対話』がコペルニクス地動説であるとしてローマ教皇庁宗教裁判所から有罪宣告を受けたことを受けて、『世界論』自粛の理由と、内容公表理由が述べられる。自然学は、生命に有益な、病気老衰の克服による万人の幸福への寄与であるという示唆。人間を生老病死からの救済として哲学と学問の探究を提示。
    翻訳の特徴は、①タイトル方法「叙」説。本書は三試論への方法論的導入にとどまらず、人生で辿るべき道、真の生を見出すための精神的修練の意義がある。方法そのものの叙なのである。②訳註は参照文献を明示した。③読みやすさを犠牲にしても古典哲学文献にふさわしい学術用文体にして堅くした。

  • 訳者解説で書いているように文章が原文に忠実?なせいかだいぶ意味がとりにくい。とはいえ、こんなもんだろうという気もする。訳者解説が骨子になっているが、17世紀の人の文章はこんなに持って回った言い方をしないといけないのかという気もする。ただ、このような言い回しがないとデカルトともいえず、それがないとこんなに長く再読される書物にはなっていなかっただろう。
    しかし講談社学術文庫は硬派にいい本を出していて好感が持てる。同時に出版されたのがカントだし。絶版になっているいい本も多いので復刊も含め頑張っていただきたい。

  • だいぶ訳文が硬い(あとがきにあるように意図的なもの)ので、一読で意味の取りにくいところがけっこうある。なんかメルロ=ポンティの訳書みたいだと思った。論の進め方も似ていてフランス哲学の伝統の源なんですね。この本の初読にはちょっと勧められないかなぁ。

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著者プロフィール

1596-1650年。「近代哲学の祖」と称されるフランスの哲学者。主な著書として、本書(1637年)のほか、『省察』(1641年)、『哲学原理』(1644年)など。

「2022年 『方法叙説』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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