いねむり先生 (集英社文庫)

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  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (440ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087450996

感想・レビュー・書評

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  • 本書の題名の「いねむり先生」とは、色川武大(阿佐田哲也)のことである。妻である夏目雅子を亡くした主人公である伊集院静は、自暴自棄的な生活を送っていた。その時に知人から紹介されたのが、「いねむり先生」である色川武大だ。先生との付き合いを通じて、伊集院静立ち直ってゆく。
    小説は、伊集院静が妻を亡くして2年後くらいから始まり、色川武大が亡くなって1年後に終わる。夏目雅子がなくなったのは1985年のことなので、小説の始まりは1987年頃のことであり、日本がバブル景気に向かおうとしていた時代だ。色川武大が亡くなったのは、1989年のことなので小説の終わりは1990年のこと。バブルの絶頂期のことである。伊集院静は1950年生まれなので、小説は、伊集院静が37歳から40歳までのこと。本書中に暗示されているが、この後、伊集院静は小説を書くことを再開し、現在のような高い評価を受ける小説家となる。また、この小説は小説すばるの2009年8月号から2011年1月号まで連載され、単行本として発行されたのが2011年4月のことであり、それは、色川武大が亡くなってから、20年以上の時を経てのことであった。
    文庫本で400ページを超える、比較的長い小説である。多くの人に慕われ、好かれた色川武大について、また、色川武大の影響を受けて、伊集院静が少しずつまともになっていく様が書かれている。伊集院静が色川武大のことが好きであり、また、大きな感謝の気持ちを持っていることが400ページを使って表されている。

  • 「先生」の魅力とミステリアスさが詰まっています。

    今も一流として輝いている人にも、浅草の場末のチンピラにも違う表情と同じ怖れのなさで対峙している「先生」はみんなに好かれています。

    実物を見てみたかったなぁと私も魅了されました。

  • 先生、という呼び方には無条件に敬意が込められている。小説家という職業としての呼称だけでなく、放っておけない病気のせいでもなく、ついていきたいと思わせる不思議な魅力を持っている「いねむり先生」と僕の話。
    お酒やギャンブルにハマることを依存症と言うらしいけど、その世界に生きる人たちにしか通じない共通の言葉や感覚があるみたいだ。きっと彼らはうしなってしまったものを埋めてくれる何かを、酔いやスリルの向こうに求めている。でも多かれ少なかれ人間はみなそうじゃないかと僕は思う。先生と僕はギャンブルを通じて出会い、いくつもの旅をして心を通わせていく。二人の間に芽生えるものはおそらくただの慕情ではないけど、その異常さを共有できる相手には滅多に出会えるものではないから、それもある種の「運命のひと」の形だったんだろうな、と思わされた。
    小説家の夢や、亡くなった妻、家族との隔たり、富士山や尖ったものが苦手なことや、突然襲いくる発作、誰にだって踏み込まれたくないパーソナルな部分はある。眠り込んでしまう先生と僕の距離感みたいに、その隔たりをひっくるめて添っていける相手がいることは、幸せなことだなとつくづく思うわけです。

  • このタイトルは突然寝てしまう色川武大(阿佐田哲也)の持病であるナルコレプシーを指しているタイトルとのこと。 筆者の、雀聖と言われた博打うち阿佐田哲也への敬慕と愛溢れる作品。 勝負の世界に生きる人間の、あくまでも自然体でそれでいて見返りを求めない本当の優しさ、本当に豊かな人間関係とは何かということを考えさせてくれます。優しさというものは陽だまりの中で感じる柔らかなものだけではなく、人の涙、汗、血を拠り所に集う人々の中で生まれるものでもあるのだと気づかせてくれました。

  • 伊集院静さんの自叙伝的小説。
    最愛の妻である夏目雅子さんが亡くなったあとの、お酒とギャンブルに溺れていた日々の中でKさんから紹介してもらった、いねむり先生 色川武大/阿佐田哲也 。チャーミングで深い影も持つ先生を尊敬し、一緒に過ごした時間と、別れまでを綴った小説。


    先生の言葉
    リズムですよ。正常なリズムで過ごしているから人間は普通に生きていられるんです。

    先生の小説の文章
    自分のどこかぎこわれている、と思い出したのはその頃からだ。漠然と感じる世間というものがその通りのものだとすれば自分は普通ではない。
    他人もそうなのかどうかわからない。他人は他人で違う壊れかたをしているのか、いないのか、それもよくわならない。

    自分は誰かとつながりたい。自分はそれこそ、人間に対する優しい感情を失いたくない。

  • 80年代の色川武大と著者との交流を軸に書く自伝的小説。人付き合いにおいてとことんまで無防備な色川の姿が強烈。エピソードはほぼ事実だと思うけれど「書いてない」ことはあると思う。

  • とても楽しい(苦しい)時間の記録。
    最後はそうだろうねえ。
    陳健民さんが歩いてきてもそう思うでしょう。

  • 友人が良かったよ、と貸してくれました。
    伊集院静氏の本は一冊だけ、読んだことがあり優しい文章を書く人だなぁと思った記憶があります。この本も寂しいけれどもなんだか優しい本だと思いました。とは言えこの先生のことをよく知っている世代の方が面白く読めるんだろうな、とは思いました(11PMとか、番組名しか知らないし)。

    主人公のサブローさんはけして悪い人ではないんだろうけど近くにいる肉親は大変そう。友人だったらまだ遠慮があるからなんとかなりそうですが近親者だったら大変だったろうなぁ…。そりゃあ新婚の妻を病気で亡くした無念や悲しみは想像出来ないものがあると思うけど前妻との間に子供が居る、というセリフがあってちょっとびっくりしました。そうか、突然の妻の死は乗り越えられないけど前妻と子供は既に自分の人生から切り捨ててるんだろうな、みたいな。
    まあそういう選択をして行かなければヒトは前に進めないんでしょうがそれでも自分で決めて、選択できるのだから幸せな人なんだろうな、となんとなく思いました。

    悲しみも苦しみも嘘じゃないんだろうけどそれはきっと個人的なものであって、誰かと分かち合ったり、慰め合ったりすることは出来ないんだろうな、とも。反対にそう言う生き方を選べる人が作家になれるのかな、とか。とにかく一言でいうとセンセイという人物に惚れこんだ、ということなんだろうなぁ… 

    一冊まるまる先生への感謝状、もしくはファンレターのような小説だと思いました。

  • 似た者同士なのか、否か。わからない。
    でも、ボクの中に何かを見出していたのは確か。
    結婚してすぐに病気で妻を亡くしたボク。酒と博打におぼれ見守るしかない人たち。その時には気が付けない、本当は優しい人たち。
    その中で、引き合わせてもらった「先生」。
    偉い先生であるはずの先生は、偉ぶることなくボクに接してくれる。旅打ちをすることで救われていく。
    幻覚から救う場面は、お互い同じ悩みを持つものだけしかわからない話かと。どちらが偉いなんて、関係ないもの。

  •  伊集院静の自伝的小説。
     妻(夏目雅子)が壮絶な闘病の末亡くなり、その後アルコールやギャンブルに溺れ、心身ともに病み、2年も働かずに放浪している主人公サブロー。彼を心配したKさん(黒鉄ヒロシ)に「会って欲しい人がいる」と言われ、酒場で眠りこけている『先生(阿佐田哲也・色川武大)』に出会う。
     ナルコレプシー(すぐ眠ってしまう病気)でどこでも突発的に寝こけてしまう先生。だらしなくて、大食漢で、ギャンブルに目がなくて。それでいて驚くべき記憶力を持ち、人に麻雀をさせている横で原稿を仕上げる。自分のことは大事にしないくせに、弱い人間にはどこかやさしい。先生の周囲にはどこからかそんな人間が寄ってきて、自分のそばに少しでも長くいて欲しいと願う。その現実離れした憎めない存在は、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」での太っちょのオバサマのような、どこか神がかった愛すべき存在なのである。
     主人公サブローと先生は、恐らくドラッグのフラッシュバックも関与しているであろう「発作(幻覚・幻聴)」に悩まされている。先生との「旅打ち(ギャンブル旅行)」で精神の安定を保っていたかのようなサブローも、たびさきでの映画館のポスターで妻の笑顔を見てから、その均衡が崩れる。
     世間ではそれこそ神格化している、彼女の早過ぎる死。私も父親を亡くしてわかったことだが、愛する存在が消えたとき、その悲しみは何度でも唐突に甦り、何も手につかなくなってしまう。その時期をやり過ごすため静かに喪に服し、亡くなったことから目を背けようとしても、彼(伊集院静)はマスコミや興味本位のデバガメにに追い回され、何度もその現実を眼前に突き付けられたことだろう。
     はじめは先生の面倒をみている主人公は、いつしか先生に心配される存在になっている。同じ作家として、小説を書かなくなった彼を憂い、どうして書かないのかと気にかけてくれる。弥彦(日本で唯一の村営開催による競輪場がある新潟県の村)に旅打ちに行った際、先生と主人公は妻子を事故でなくした男と酒を酌み交わす。そのうちに男が持っていたドラッグを、先生と男が飲んでしまう。薬が効いてきた男が、妻子の名を叫びながら棚田の中に入っていく。その彼を宥め止めようと泥まみれになる先生の姿に、主人公を発作から掬い上げようとする先生の姿が重なる。
     私自身はギャンブルが苦手で、自分には才も運もないと思っているので単純なゲームですらのめり込めない。酒に弱い生前の父が「酒を飲めない者は飲める・飲みたい人の気持ちがわからない。だから宴席などでもてなす際には人の気持ちを汲め」と言っていたが、ギャンブルもそういうものなのだろう。そういうわけで私は子供にゲームをさせるのもあまり好きではないが、この本での先生の考えになるほどと思った。日本全国で同じような時間に子供たちがゲームをしていて、屋根をはぐって俯瞰してみると、ひとりではなく皆でゲームをしているのと同じだ、というのである。先生はギャンブルにそのつながりのようなものも求めているのでは、と思えた。
     人間は弱い。そんな弱い人間同士だから救われることがある。私も父が死んで2年目に入るが、つらいとき、先生の丸い手が「大丈夫だよ」と私の前にも現れてくれないかなあ、などと埒もないことを思う。

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著者プロフィール

1950年山口県生まれ。’81年短編小説「皐月」でデビュー。’91年『乳房』で吉川英治文学新人賞、’92年『受け月』で直木賞、’94年『機関車先生』で柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で吉川英治文学賞、’14年『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』で司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞する。’16年紫綬褒章を受章。著書に『三年坂』『白秋』『海峡』『春雷』『岬へ』『駅までの道をおしえて』『ぼくのボールが君に届けば』『いねむり先生』、『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』『いとまの雪 新説忠臣蔵・ひとりの家老の生涯』、エッセイ集『大人のカタチを語ろう』「大人の流儀」シリーズなどがある。

「2023年 『ミチクサ先生(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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