ユリシーズ 3 第十五挿話(後半)から第十八挿話まで

  • 集英社
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  • Amazon.co.jp ・本 (742ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087732269

作品紹介・あらすじ

6月16日、夏の長い1日は終ろうとしている。ブルームはスティーヴンと連れ立って家に帰る。台所でココアを飲み、話し、庭に出て星空を見あげ、並んで小便をしてから別れる。最後の第18挿話は、ブルームの妻モリーのYesに始まりYesに終る句読点なしの独白。それは男の立場で語られて来た長い物語への、女の立場からの長い反歌。第15挿話「キルケ後半」から第19挿話「ペネロペイア」まで。

感想・レビュー・書評

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  • 最終巻!?
    「私ユリシーズ読んだことあります」って言っていい!?
    理解してませんけどーーーー(^▽^;)

    ●ユリシーズ後半の文体は、挿話ごとにあらゆる小説表現が打ち込まれていますね。戯曲調、教義問答調、意識の流れ、少女小説風味、幻想文学調、新聞記事的、などなど。英語をどこまで崩せるか実験してみたってところでしょうか。
    ●とにかく全体的に、卑猥な語りや、尿や精液など体から出るものの描写がとっても多いぞ−−−文体変えたって出してるもんは同じじゃないか−−( ̄Д ̄;;
    ●割と面白かった挿話は、15挿話の幻想的ホラー映画戯曲調と、17挿話の教義問答調。
    ●この下巻一番最後に人物紹介あり。これを見ながら読み進めるとわかりやすかったかもしれない。
    ・これから読む方は「ユリシーズのダブリン」「漫画で読破ユリシーズ」など、副読書をご覧になることをお勧めします。
    ●「ユリシーズ」という言葉の響きがとても好き。あと「マッキントッシュの男」という言葉も好き。
    ●全部読み終わり、こちらのレビューも書き、痛烈に本が読みたい気分になっています。大作読んだ後って本を欲しますよね。お酒飲んだ後ラーメン食べたい!みたいな感じ(笑)?


    『第15挿話キルケ 後半』午後12時
    Ⅱ巻の15挿話の続き。
    戯曲調で、娼家にいるスティーブンや学友たち、それを追ってきたブルームの、現実と幻影が混ぜ混ぜに描写されている。翻訳者さんによると、読者もこの混乱世界に参加しているということらしい。原文そのものを翻訳するのは困難なようで「便宜上日本語訳ではこうしてます」とお断りしている。翻訳者さん、楽しいのか大変なのか(笑)
    ❏ブルームが女性化、娼家の女将が男性化してのなんか妙なプレイは継続中。SMでいうと女ブルームがMで男女将がS。ブルームは自分が女をどうこうしたいのではなく、自分が女になってあれこれやられたいの?
    ❏スティーブンの幻に死んだ母親が現れる。スティーブンは、信仰に揺らぎが出て、母の望みである最期の祈りの言葉をできなかったことで母が苦しんで死んだのではないかと思っている。母の亡霊に酷く動揺するが、母はスティーブンのために祈る。(これでスティーブンがスッキリしたのかは不明だ)
    ❏ブルームの自殺した父親も現れるが…特にブルームは大きな動揺なし?
    ❏動揺したスティーブンがお店のシャンデリアを壊す。ブルームがスティーブンのお金を預かりお店に支払いをする。そのまま店を逃げる。
    ❏このユリシーズでは、ちょこちょこと「エドワード7世がアイルランドに来た」という話が出てくる。1861年夏には陸軍近衛歩兵連隊に入隊してアイルランドで訓練を受け、その時アイルランド女優さんとなんかあったらしい。
    ❏街に出たスティーブンは、今度は兵隊と争いになる。警官はアイルランド人で、兵隊はイギリス人らしい??この騒動で、スティーブンやブルームが人々に追われているのは現実、追いかけてきている人々を「猟犬」と表現しているのは幻想。
    ❏スティーブンの学友が彼を見捨てて逃げたので、ブルームが介抱する。ブルームは、スティーブンに、幼くして亡くなった自分の息子ルーディを重ねている。


    『第3部 第16挿話 エウマイオス』午前1時
    第1部はスティーブン・ディーダラスの動き、第2部はレオポルド・ブルームの動き、第3部は二人一緒になって。
    ❏どうやらブルームとスティーブンの関係は、ブルームとサイモン・ディーダラスが知り合い(第6挿話では一緒にいたが、この16挿話によるとあまり仲は良くないらしい??)、ブルームは自分の死んだ息子とスティーブンを重ねて、放っておけない、というところ。
    ❏スティーブンとブルームは「年齢の著しい相違とともに、教育の提訴その他あらゆる点において両極のごとくに分かれている」のだそうだ。しかしそんな二人がまあそれなりに親しく、文学や芸術や人生についての論争を交わし合う。(日本でも明治時代文学とかでは見かけるが、いまでは他人との距離がもっとあるような気がする)
    ❏ブルームは、スティーブンを連れてとりあえず御者の溜まり場である喫茶店に入った。
    ❏客の船乗りの法螺話、ブルームとスティーブンの議論が書かれる。この船乗りの話中に「ダブリン市民」のなかの「痛ましい事件」のシニコー船長夫人の事故死の話がある。
    ❏「ダブリン市民」の「二人の色事師」のコーリー登場。コーリーの生い立ちに関する噂が書かれるんだが、実在のモデルでもいるのだろうか?
    ❏ブルームとスティーブンのことを「二人のうち経験豊かな方」とか「年上の方の男」などとなんだか回りくどい言い方をしている。なぜ。
    ❏ブルームは、スティーブンに、妻モリーの写真を見せる。ブルームは、モリ−と興行師ボイランの不倫を容認してるので、スティーブンになぜ見せた?
    ❏ブルームは、なんか疲れてるうえに行き場のないスティーブンを「とりあえず僕の家に来て、軽く食べないか」と誘う。

    『第17挿話 イタケ』午前2時
    この挿話の書き方はですね、教義問答調といいますか、質問「〇〇はどのようにして△△をしたのか?」、回答「それは〇〇よって証明された」という感じ。学術面接だとか、企業サイトの質問ページのイメージですが、書き方が回りくどい。
    ココアを入れる描写を大地に流れる水の軌道から語ってみたり、お湯を沸かすことを「この温度上昇の成立は何によって公表されたか?ー湯沸かしの蓋の両脇から同時に噴出した二本の鎌状の水蒸気」といったかんじ。
    しかしこの文体で、ブルームとスティーブンの行動から心情も表現するんだからやっぱりすごいなーー。
    ❏ブルームは自宅の鍵を持たずに出てきてしまったので、庭の柵を超えて自宅に侵入し、スティーブンを招き入れる。
    ❏ブルームは、スティーブンの歌がうまいことに気が付き、妻モリーにイタリア語を教える代わりに、モリーから声楽を習わないか、と申し出る。
    ❏ブルームは「今夜は泊まっていかないか」と誘うが、スティーブンは断って退出する。…どこに行くの?
    ❏庭で二人は立ち小便をする。
    ❏ブルームは、寝室に入り、モリーと共寝する寝台へと「枕一個を寝台の頭部から足部へ移し、シーツも同様に整えてからベッドに入った」…えええ(@@)?? 要するにこの夫婦は、自分の顔の前に相手の足がある状態で寝てるってこと??いつもこんな感じで寝てるの?なにゆえ?
     しかもブルームは目の前のモリーのお尻と股間あたりから精液の匂いを感じてボイランとの不倫痕跡を確認するんだが…(@@)??モリー着替えたり身体洗ったりしないの??
     読者にとってモリーは、ブルームが出かけるときに朝食はベッドで食べて、ベッドでボイランと不倫して、ブルームが帰ってきたときはベッドで寝てて、なんか一日中ベッドに居る人だな(-_-;)
    ❏ブルームは、目を覚ましたモリーに、今日の出来事を話して聞かせる。…ただし自分の秘密の文通と、海辺で若い女の子見て自慰行為したことは秘密(^_^;)

    『第18挿話 ペネロペイア』午前2時半
    『Yes朝の食じを卵を2つつけてベッドの中で食べたいなんて言ったことずっとなかったものシティアームズホテルを引きはらってからはいぺんだってあのころあの人は亭しゅ関ぱくでいつも病人みたいな声をだして病きで引きこもってるみたいなふりをしていっしょうけんめいあのしわくちゃな』
    …という語りが100ページほど続く最終挿話。
    ❏18挿話はブルームの話を聞いたモリーの回想。ブルームとの付き合い、自分の人生について。句読点なし、ひらがな多目のこの文体は、夜中に目が冴えちゃったよーーという時の、妙に思考があっちゃこっちゃに飛び回る”意識の流れ”を文に表したものでしょうか。
    ❏モリーの階層によると、ブルームは昔から変態だったらしい…(^_^;)。しかし著者のジョイスは、モリーがブルームと結婚したのは「正しい選択」だとしている様子。
    ❏子供時代。歌手になったこと、父のことを考える。
    ❏関係した男のことも考える。これから交流を持つであろうスティーブンのことも考える。ボイランのことを考える。そして、ボイランはやっぱりゲス野郎じゃんもう終わりだなって思う。
    ❏最後はブルームへの「Yes」で終わる。これはブルームへの肯定を意味して、この夫婦は新たなスタートになるのだろうか。


    『丸谷才一、氷川令二、高松雄一、結城英雄による各種解説』
    ジョイスの英語がどんなだーとか、この時代のアイルランドがどうだったのかーとか、他の小説や作者との関係性がーとか、ジョイスの生まれ育ちはーなど色々情報をくださっている…のですが「本編読み終わったぞ(´∇`)」という気持ちが大きくて、ほとんど飛ばし読みですごめんなさい(^_^;)
    ●アイルランドにキリスト教が根付いたのはイングランドよりも200年も前だった。アイルランドはイングランドを飛び越え大陸と直に結びついたり、ヴァイキングにより町の形やあり方も変わっていった。
    ●アイルランド人とスペイン人の相違点について。共通するのは「不条理との親近感」であり、例として挙がっているのは、スペインのドン・キホーテのセルバンテス、アイルランドのガリヴァー旅行記のスウィフトと、ジェイムスジョイス。スウィフト(1667年- 1745年)が「ガリバー旅行記」で書いてきた怪物や階級差別は、イングランドとアイルランドを示しているらしい。
    ●アイルランド人のひねったジョークや物言いは、喧嘩してる二人に対して「やめなさいよ」ではなく「お二人だけの勝負ですか?飛び入りしてもですか?」とやるのがアイルランド風なのだそうだ。
    ●言語について。エリザベス女王の頃のアイルランドの住民はゲール語を話していた。イギリスからきた人たちも英語でなくゲール語を話していた。17世紀のジェイムス1世のときに、アイルランド伝統の生活や文化が廃れてしまった。アイルランドの歴史においてもページを割いているが、圧政、虐殺の歴史でちょっとめまいがする。。ジェイムスジョイスが「ユリシーズ」で英語を崩しまくっているのは、”英語”への複雑な思いがあり、それでも英語で執筆するにあたり英語を解体してみたかったのかなあ。
    なお、ジョイスの父の出身地である港町コークは、英語文明の一大中心地であり、現在でもここの英語発音はどこよりも柔らかくて美しいという定評があるらしい。
    ●「ユリシーズ」読み終わり、スティーブン・ディーダラスは現実的にどうなったのかなと考えた。スティーブンはジョイス自身をモデルにしているのだが、ジョイスは22歳のときにアイルランドを脱出して、小説家としての代表作も脱出先の国で発表している。それならスティーブンはこの後アイルランドを離れたと考えて良いのかと思う。
    ●ジョイスは「ダブリン市民」「ユリシーズ」で、ダブリンの街を克明に記載しているが、それらはダブリンを離れてから書かれたものなのか。自分はもうこの国にはいられないが、ダブリン気質を持ったままであり、アイルランドという国や英語を一度ばらして再構築してみて、自分自身を確認したのが、ジョイスの著作なのかな。それなら読者が理解できなくても良いのだろう。


    ユリシーズ関連の本はこちら。
    「若い芸術家の肖像」
    スティーブンの幼少期からユリシーズの数年前まで
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4087610330

    柳瀬さんによるユリシーズの写真集「ユリシーズのダブリン」
    スティーブンの住んでいた塔、ブルームの家などの写真も出ています。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309202578

    柳瀬さんによるユリシーズエッセイ「ユリシーズ航海記」
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309025854

    まんがで読破「ユリシーズ」
    とりあえず誰がどこにいるのかは分かる。
    https://booklog.jp/item/1/4781600840

    集英社共訳「ユリシーズ」1挿話から10挿話
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4087610047

    柳瀬さん訳12挿話までの「ユリシーズ」
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309207227

    集英社共訳「ユリシーズ」11挿話から15挿話前半
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4087732258#comment

  • ジョイスの『ユリシーズ』は、プルーストの『失われた時を求めて』と並ぶ近代文学の金字塔といわれる小説だが、『失われた時を求めて』とは、また全く違う難解さがある。

    しかし、『失われた時を求めて』よりは、ずっと読破率が高いだろうと予測される。
    なぜなら、『失時』とは量が違うし、筋だけを追えばいいのであれば、1日の出来事の小説なので割と簡単にFINに辿りつくのだ。

    だが、『ユリシーズ』は、そんな簡単な書物ではない。

    『Ulysseus』とは、『Odysseus』のラテン名 ウリッセース の英語読みである。
    『ユリシーズ』は、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きとして書かれており、まず『オデュッセイア』を完読していなければ、真に『ユリシーズ』を楽しむことは不可能といえる。

    『ユリシーズ』は、十八の挿話によって構成され、その表題はすべて、『オデュッセイア』の重要登場人物や地名等をそのまま借用している。
    もちろん、それだけではなく、小説すべてが『オデュッセイア』と照応しており、挿話の冒頭でどの部分に対応しているのかも明かされる。

    『オデュッセイア』は、トロイア戦争終結後、ポセイドンの怒りに触れたため、10年もの間、漂流をし、やっと妻子の待つ故郷のイタケ島に帰り着くという物語であるが、ジョイスは、10年ではなく、たった1日の時の流れで『オデュッセイア』に呼応した『ユリシーズ』を書き上げている。

    この一日というのは、1904年6月14日であり、場所はダブリン。
    『ユリシーズ』の主要登場人物は、スティーヴンという22歳の詩人、学校教師と、レオポルド・ブルームという38歳の広告会社の営業のユダヤ人と、その妻モリー。

    ちなみに6月14日は、ブルームズ・デイと呼ばれているらしい。この日は、ジョイスがのちの自身の妻となるノラとはじめてデートした日でもある。

    ブルームの妻のモリーは、多くの求婚者を拒否しつづけ、貞淑の象徴 オデュッセウスの妻のペネロペと照応しているが、モリーは、夫のブルームと夫婦仲がしっくりいっておらず、浮気をする。
    妻が浮気をすることを予知していても夫のブルームはそれを事前に阻止できない。

    ジョイスは、1904年以来、ヨーロッパ各地を転々とし、アイルランドへも1912年以後は戻ることはなかったが、小説の舞台は常に故郷ダブリンだった。
    『ユリシーズ』は、1904年のダブリンをそのまま閉じ込めて描かれており、
    「たとえ、ダブリンが消滅するようなことがあっても、それは『ユリシーズ』に含まれている証拠から容易に復元できる」とジョイスが述べているとおり、
    1904年6月14日 日の出日の入り、鉄道、船などの交通手段、人々の生活、通り、酒場などの様子、市民の生活等当時のダブリンを忠実に舞台として描いている。

    また、『ユリシーズ』は、『オデュッセイア』の照応ということだけでなく、文体や言語遊戯という意味でも意義深い書物だ。
    語り、弁証法、カノン形式によるフーガ、戯曲風、教義問答、句読点なしの科白などさまざまな手法が用いられている。

    そして、多くの訳注がついているが、多ジャンルの芸術方面からの引用、比喩、符牒など、訳注によってジョイスの意図を汲み取りつつ読み進む。

    最初、文庫で『ユリシーズ』を読みはじめたが、1巻を読んだところで、文庫本から単行本に変更した。
    理由は、文庫本では訳注が巻末にあるので、いちいち後ろのページをめくりながら読まねばならず非常に読みにくかった。
    単行本は、下に書いてくれていて、訳注が多すぎるためにページがずれこむことも多々あるが、文庫本のそれとは違って、やはり至便であった。

  • 読み終えた。感想をまとめようにも、頭の中がとっ散らかって容易にまとまる気がしないので、年月を経て整理がついたのちに書きたい。引き受けたものが巨大すぎて感想が書けないのは、トルストイの『戦争と平和』以来、2度目。

    あえて書き記すとすれば「YES」。これだけ伝えたい。

  • もしも、ジョイスが『ユリシーズ』を書かなかったら、ナボコフの『ロリータ』も、ダレルの『アレクサンドリア四重奏』も、この世に存在しなかっただろう。ヴァージニア・ウルフだって、その下品さにはうんざりさせられながらも、ひそかにライヴァル意識を燃やしながら『オーランドー』を書いたにちがいない。この途方もない小説には、読む者をして、これを読んだ後、以前と同じ平静な気持ちで小説に対峙することを不可能にさせる魔力がある。

    『ユリシーズ』は、言うまでもなくホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしている。トロイヤ戦争から帰国の途次、英雄ユリシーズは、神を怒らせたため、魔物や怪物に帰還を邪魔される。夫の帰りを待つ貞淑な妻ペネロペイアは、ユリシーズの後を襲おうと押しかける求婚者たちに悩まされていた。苦境を見かねて父を捜しに出たテレマコスは、ようやく父を探し当て、二人は故郷イタケに帰って求婚者たちを追い払うという物語だ。

    主要な登場人物三人のうち、ユダヤ系アイルランド人の広告取りレオポルド・ブルームがユリシーズ、その妻でスペイン系の歌手モリーがペネロペイアに、そして、教師兼著述業の青年スティーヴン・ディーダラスが息子テレマコスに擬せられている。

    舞台はアイルランドの首都ダブリン。時は1904年6月16日木曜日の朝から翌日の午前4時頃まで。つまり、この作品はとある夏の一日、ダブリンの町中を彷徨するブルームとディーダラスに、ユリシーズの長い航海をなぞらえているわけだ。しかも、矮小化はそれにとどまらず、家で夫の帰りを待つはずの妻は、どうやら浮気をしているようで、ブルームはそれを知っていながら見逃している様子。つまり、枠組みは借りながらも、英雄は猥本好きで争いごとを好まない小市民的人物に、貞淑な妻の見本は夫のいぬ間に間男をくわえ込む好色な女に変更されている。

    ジョイスは「たとえダブリンが消滅するようなことがあっても、それは『ユリシーズ』に含まれ ている証拠から容易に復元できる」と言ったそうだが、そう豪語したくなる気持ちも分かるほど、街路から飲み屋、肉屋の一軒一軒まで、実に細かに描き出されている。ナボコフでなくても、地図を脇に置いて登場人物の歩く道を鉛筆でたどりながら読みたくなる。しかも誰と誰がどこかで出会うのは何時か、という空間と時間の結節点を細密に記述していく。ナボコフが「同時生起」と呼ぶこの手法は、まるで映画を見ているような気にさせられる。

    主要な登場人物も、別の章ではまるで点景人物の一人のように素っ気なく描写される。それとは逆に、盲目の調律師や、茶色の外套(マッキントッシュ)を着た男のように、人物と人物とを結びつけるためにだけ登場しているような人物もいる。特に度々登場するマッキントッシュと誤って呼ばれる謎の人物はいったい何者なのか、ナボコフは解決したと自慢しているが、それが正解かどうかは誰にも分からない。この例一つをとってみてもそうだが、チラシ一枚とってみても、度々言及され、その航海の跡をたどれるように書かれている。

    さらに文体の問題がある。ナボコフに倣って大きく三つに分けると、
    1.本来のジョイスの文体―直截、明晰、論理的。
    2.いわゆる意識の流れ―未完結で、素速く、切れ切れの語法。
    3.文体模倣―非小説形式(音楽、芝居、教義問答集)、文学的文体と作家のパスティーシュ。
    これらが、時には入り混じり、あるいは一章ごとに姿を変え、次々と変化する目まぐるしさには、「異化作用」を狙ってのことだとは思うものの、正直ついていくのに閉口する。

    地口、洒落、なぞなぞ、流行り歌からアリアまで、ありとあらゆる言葉遊びを投入し、さんざっぱらふざけ散らす。酔っぱらいの喧嘩、放屁、手淫とブルームズベリー・グループならずとも目を背けたくなる乱暴狼藉かつ下品で卑猥なシーン、とモダニズム文学が採り上げなかったような叙述の様々なレベルを採用し、有名な句読点抜きのモリーの独白で終わる、この小説。読み終わっての感想は、不思議に心に残るものがある。

    これまでの小説にはなかったリアルな人間がいる。「意識の流れ」の手法を過剰なまでに使うことで、切れ切れな思考の間にエロティックな妄想に耽ったり、つまらぬことに気をやってみたりと、ブルームほどではないにせよ、我々人間がそういつも立派なことばかり考えたりしたりしているわけでもないことが嫌でも分かる仕組みになっている。その、しようもない人間が、一方で動物や、弱い立場にいる人々に心を寄せ、争いごとが嫌いなくせに、ユダヤ人差別には一言言ってやらねば治まらないところも持っていることが、じんわりと伝わってくる。

    一度や二度読んだだけでは、もったいない。第十二挿話「キュクロプス」の「おれ」という視点人物は誰なのか。柳瀬尚紀に拠れば「犬」の視点から書かれているのだということになるが、果たして本当にそうなのか。いくつもの謎を解くために、数多ある注釈本を探し、別の訳者による翻訳で読んでみたり、と楽しみの尽きない書物である。(『ユリシーズ』1・2を含む)

  • 素読ではありますが、なんとか1回目を読了しました。
    『ユリシーズ』を初めて手にしたのは、かれこれ四十年前、僕がまだ二十代前半の頃、地方都市の書店で河出書房新社版の世界文学全集『ユリシーズ』を注文したのが最初でした。
    本屋から電話をもらって受け取りに行くと、そこで待っていたのは『ユリシリーズ』という園芸関係の本だったというドタバタ劇があったりもしたのですが、とにかく最初はこれでした。
    ところが、この本はずっと積読にしたままで、その後二十年ぐらい前に購入した集英社の三巻本が今回読んだ本です。
    遅読というのは恐ろしいもので、読了に実に四十年を要してしまった訳です。
    いやはや、ここまで来ると、もはや恥読と言わざるを得ません。/


    後半になるまで、ほとんど付箋が立たなかった。取り付く島もなかった。/


    【月と女性とのあいだにいかなる特別な親近性があると彼は考えたか?
    連綿とつづく地球上のすべての世代以前に存在し以後まで生存する彼女の長命。夜における彼女の優位。衛星的な彼女の依存性。彼女の光線反射性。昇って沈んで、満ちて欠けて、たえず変貌しながらも定刻をまもる彼女の不易性。彼女の容貌の強制的不変性。非肯定的質問に対する彼女の不確定的応答。潮の干満に対する彼女の支配力。恋着させ、煩悶させ、美化し、発狂させ、犯罪を誘発し助長する彼女の力。彼女の表情の計り知れぬ静穏さ。至近距離にあって孤立し支配し執着し眩惑する彼女の恐ろしさ。嵐と凪への彼女の諸前兆。彼女の光、動き、存在が与える刺激。彼女の噴火口、彼女の枯渇した海、彼女の沈黙が与える警告。見えるときの彼女の輝き。見えないときの彼女の魅力。】(17 イタケ)/


    この文章を読んで、やっと僕のグローランプが点滅した。
    この文章が、シュールリアリズムの盟主アンドレ・ブルトンの「自由な結びつき」という詩を想起させたのだ。/


    【自由な結びつき 
                  アンドレ・ブルトン 

     ぼくの女はもつ 未精白の大麦の頸 
     ぼくの女はもつ 黄金(きん)の渓谷の咽喉 
     奔流の河床のなかによこたわる逢引の咽喉 
     夜の乳房 
     ぼくの女はもつ 海にもぐらが盛りあげた小塚の乳房 
     ぼくの女はもつ ルビーの坩堝(るつぼ)の乳房 
     霧におおわれた薔薇の亡霊の乳房 
     ぼくの女はもつ 扇状にひろがる日々のひろがる腹 
     巨大な猛禽の爪の腹 
     ぼくの女はもつ 垂直に逃れ去る鳥の背中 
     水銀柱の背中 
     光線の背中 
     転がる石の また湿った白墨の項(うなじ) 
     飲んだばかりのコップの落下の項 

     (以下略) 】
                  (大岡信訳)
    (筑摩書房 筑摩世界文学大系88 名詩集より。)/


    だが、ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発したのは1924年であり、『ユリシーズ』は1922年に既に刊行されている。
    少なくとも、『ユリシーズ』がこの運動の影響を受けて書かれたという訳ではなさそうだ。
    では、僕の反応は単なる勘違いなのだろうか?
    それとも、単に女性讃歌ということが呼び寄せたのだろうか?
    なんとなくモヤモヤするので、「ジェイムズ・ジョイス」と「シュールリアリズム」でググってみたところ、茂呂公一氏の「ジェイムズ・ジョイス研究」がヒットした。/


    【「意識的連想という錯覚的流れにジョイスが対立させようとするものは,彼がいたるところから湧出させようと努力する,そしてけっきょくは,生命にもっとも接近した模倣を目指す奔流である。」これに対しシュールの「心の純粋な自動現象」は上記の同じ流れに,「いわば泉の湧水を対立させるものであり,それを見出すためにはただ己のなかへ十分深く分け入ればことたりるのである。」したがって言語に対する態度もシュールにおいては,ジョイスの場合のように,新造語も入り込まず,統辞法の解体も語彙の崩壊も惹き起さない。

    ー中略ー

    ブルトンがいみじくも言った「観念の自由な結合」による「生命にもっとも接近した模倣」こそ,ジョイスの造形の根底にあるものであろう。】(茂呂公一「ジェイムズ・ジョイス研究」)/


    ブルトンの詩の題が「自由な結びつき」で、ジョイスの方法が「観念の自由な結合」を用いているというのは暗示的ではあるが、二人の方法は異なっているようだ。
    だが、シュールリアリズムに大きな影響を与えた詩人ロートレアモンの「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」という言葉もある。
    違うと言えども、遠からざるものがあるような気がしてならない。/


    【(訳注)二二一三 全燔祭 holocaust
    holocaustは(1)全燔祭(ユダヤ教で獣を丸焼きにして神に献げるいけにえ)、(2)大規模の犠牲、(3)七〇年、ヘブライ暦第十一の月の第九日におけるローマ人によるエルサレムの神殿破壊を記念する儀式、(4)(多数の人命の)大虐殺。特にthe Holocaustはナチスによるユダヤ人大虐殺。】(17 イタケ)/


    生贄はいつも「神」に献げられる。
    「神」とは、ひょっとしたら常に生贄を要求するものなのではないだろうか?
    「神」に帰依することで、人は随分と生きやすくなるのだろう。
    何も考えず、ひたすら「神」の仰せのとおりに生きていけばいいのだから。
    だが、必ずしも「神」は常に善だとは限らないだろう。
    もし、「現人神」が生贄を要求したら人はどうするだろうか?
    もちろん、「神」をも畏れぬ不届き者なら、そんな理不尽な要求は毅然としてはねつけるだろう。
    だが、多くの善良な子羊たちは、「神」の仰せに従って、いそいそと生贄を献げるのではないだろうか?
    何も恐れることはない、ためらう必要はない、何しろ神の仰せなのだから。
    おそらく、この世に「神」がいる限り、戦争はなくならないのではないか?
    兵士が生贄を献げるために犯した罪は、いかなる罪であれ、必ずや「神」は許したもうのだから。
    もし、人が法によって世界を統治しようとするならば、真っ先に「神」を殺すべきなのではないだろうか?
    その名の下に、数多の殺戮が連綿と行われてきたところの「神」を。/


    【George Orwellは『ユリシーズ』に「ここに神のいない世界がある,これこの通りだ!」(原文略)というジョイスの意図を読みとったということだ。】(茂呂公一「ジェイムズ・ジョイス研究」)/


    『ユリシーズ』の世界が僕にとって何やら清々しいのは、「神の不在」というなんとも言えない風通しの良さがあるのかも知れない。


    【「経験から言ってーー警官は1人を救うために人助けをしています。あなたは誰の事を?」】(ドラマ「刑事モース〜オックスフォード事件簿〜」第3話「殺しのフーガ」)


    もし、ジョイスが誰かを蘇らせるためにこの小説を書いたとするならば、それは
    二十三年間の結婚生活の間、流産を含め十五回妊娠し、四男六女をもうけ、我が身を擦り減らして、ぼろぼろの体になって四十四歳で死んでいった母ではないだろうか?
    浮気者の歌手モリーは、亡き母を旧弊な結婚生活から解放して転生させた、有り得べかりし母の姿ではないだろうか?/


    『ユリシーズ』は万華鏡だ。のぞき込んで何が見えるかは、やってみなきゃ分からない。/


    蛇足:
    巻末の解説で丸谷才一氏が、【彼の影響があらはにうかがはれる、この四十年ほどの長篇小説をあげてみよう。】と言っているので、折角なので作者名と作品名を引いておきたい。/

    アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』、ラッセル・ホーバン『リドリー・ウォーカー』、ナボコフ『ロリータ』、『青白い焔』、ボルヘス『伝奇集』、『不死の人』、(映画:マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』)デイヴィッド・ロッジ『どこまで行けるの?』、J・G・バラード『太陽の帝国』、クロード・シモン『フランドルへの道』、ミシェル・ビュトール『時間割』、ガルシア=マルケス『百年の孤独』、カルペンチエール『失われた足跡』、イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』、バルガス=リョサ『緑の家』

  • ダブリン、アイルランドなどを舞台とした作品です。

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著者プロフィール

James Joyce(James Augustine Aloysius Joyce )【1882年 – 1941年】。本原書名 James Joyce 『Exiles A Play in Three Acts With the Author's Own Notes and an Introduction by Padraic Colum, Jonathan Cape, Thirty Bedford Square, London, 1952』。

「1991年 『さまよえる人たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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