2days 4girls 2日間で4人の女とセックスする方法

著者 :
  • 集英社
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感想 : 15
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087812916

作品紹介・あらすじ

わたしは、心を病んで捨てられた女たちをオーバーホールする。今、一人の女を捜して、広大な庭園に迷い込んだ。「明日からここに住みます」という手紙、ミユキは姿を消した。わたしは迷い、探し、信じる。救済という嘘に身も心も縛られながら…。いま、望みうる最良のエロスとは。

感想・レビュー・書評

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  • 村上龍の「2days 4girls 2日間で4人の女とセックスする方法」読みました。

    タイトルだけみるとエロいハウツー本みたいだけど、村上龍らしい
    本でした。
    バイタリティもないし所詮ビギナーな粘膜摩擦のレベルから実体験は出れないよっちんではありますので完全に理解できたわけではないけれど
    ハグ(抱擁)することで得られる快楽を追求すると「緊縛」「拘束」になるんだろうし、触覚、痛覚、温度覚という皮膚感覚の中で痛覚が性的快楽の本質だから突き詰めると甘咬みから始まって極めると刺したり血がでるほどのプレイになるんだろうねとは頭で認識はしているんですよね。
    「わたしが死んだときに葬式で誰が泣いてくれるだろうかと考えることがある
    」このフレーズがリフレインされます。
    主人公は超ブルジョワで「壊れた女」を預かってオーバーホールするという少々現実味のない設定なんだけど….「数百万円を一年で倍にするにはリスクがあるが十億を十年で十一億にするのはほとんどリスクがない
    」なんて庶民からは考えられない設定に少し憧れます。

    「最悪なのは、カシミアのセーターが欲しくてしょうがないのに、化繊のセーターしか買えない連中だ。より正確に言えば、カシミアのセーターを買う以外にプライドを持てないくせに金がなくて買えない連中だ。
    」って至言だけどね。
    性と死の間に存在する「生活」を超越したレベルではじめていえる
    快楽原則に則って性と死と肉体を見つめた小説です。

    やや快楽主義やけど、知らないからといって知らない振りはしたくないね

    快楽を知り尽くした果てに肉体を軽蔑出来るレベルに達することが出来れば理想だけどね。
    「世の中には三種類の人間がいる、一つ目は充実感とは無縁の、退屈でつまらない人生を歩んでいる人々。だが彼らはつまらない人生を歩んでいるとは思っていない。そもそも充実感を知らないからだ。
    充実感を知らないから、つまらない人生という概念も、充実した人生という概念もない。
    彼らは、自分たちが安定した多数派に属しているという安心感を得るために、つまり退屈でつまらない人生について考えず済むように、テレビをみて、雑誌や新聞を読み、仲間と雑談する。二つ目は、ひょっとしたら自分の人生はつまらなく退屈なものではないかと疑いを持っている人々だ。彼らは不安を持って生きているが、充実とは何かを、ぼんやりとではあるが、知っている。
    充実感の断片を味わったことがあって、何とかしていつもそれを手元に置いておきたいと思っているがどうすればそれを入手できるかはわかっていない。
    三っ目のカテゴリーの人々は非常に数が少ない。充実した人生を送っているが決してそのことを自覚しない。彼らは例外なく多忙で、自分の人生が果たして充実したものかどうかを考える余裕がない。
    つまり興味深い事実があって、充実した人生を送っている人も、退屈でつまらない人生を送っている人も、共にその自覚がないということだ。

    二つ目の集団、つまり、ひょっとしたら自分の人生は退屈でつまらないものかもしれという疑いと不安を持っている人々だけが充実や退屈について考えている。
    そして、ずっと不安状態で生きていくことができないから一つ目の集団か三っ目の集団のいずれかに吸収される」

    これですよ、この生きることのやるせなさを皮相的に言い当てた文章、痺れます。

    「改札口で客と駅員が触れ合うのと、裸の女を鞭で打つのと本質的には何も変わらない。ある形式をなぞっているということでは同じだ。共に社会的な行為であり、裸とか尻とか鞭で打つという行為がアブノーマルだという社会的な理由で男は興奮するだけなのだ。

    経済学の入門編で希少性ということを学ぶ。希少なものには価値があるわけだ。

    快楽は駅の改札口には存在しない。皮膚と皮膚を、粘膜と粘膜を単に長く擦り合わせても、互いの人格や生き方が変わるわけではない。
    一人の女が裸になってベッドで股を開くときおれたちは興奮する。
    それはその女が衣服と恥を脱ぎ捨てたことによって、もっと重要な何かを脱ぎ捨ててくれたのではないかと誤解するからだ。」
    極論だけどなぜ生殖器を見せ合って粘膜をすり合わせる行為に我々はそんなに価値をおくんでしょうかねぇ。
    恋とか愛とか歯の浮くような言い訳を一皮むくと上のような真実にいきあたるのかな?

    「セックスをするためには攻撃性が必要だといった動物学者がいて、それが種族間で近親相姦を予防しているという説もあるらしい。
    つまり一緒に暮らしていると、オスはメスが産んだ子どもを守らなければいけないという意識を持つ。
    そこで親近感が生まれて、自分の子どもには欲情しなくなる。
    このメスを大事にしたいという親近感が攻撃性を消して、セックスをしなくなるのだ。群れを作る猿のボスは複数のメスとその子どもを保護しなくてはいけないので、インポテンツになることが多いらしい。」
    ああ、これは実感するね。

    「信頼というのは相手に決して嘘をつかないということではないし、相手の望みことは必ず実行するということでもない。
    自分はファイナンスされていて、それによって相手もファイナンスされているのだと、相互に思えるような時間を共有すればいいのだ。」

    最後に絶対にないだろうけど「おまんこ」連発されるので
    センター試験で採用されたら大変だろね…

  • わたしは壊れた女をオーバーホールする仕事をしている。
    体よく捨てたいと思ってわたしに女を預ける男もいれば、
    自分の女が他の男に犯されているという状況にするために預けるマゾヒストの男もいるし、
    或いは本当に女が修復されて自分の手元に帰ってくると信じて預ける男もいる。
    報酬はもらうこともあればもらわないこともある。
    セックスは必要に応じて、だ。


    おそらくわたしは自分が他人にどれだけ関与できるかを知りたかったのだと思う。もちろんそれは他人を救えるという幻想を抱いていたということではない。実際に誰かを救ったことなどない。(227)


    どういう女にわたしは関与したかったのだろう。…ミユキが現れたとき、わたしは気づいた。ミユキは、男に絶対に関与されたくないという欲求と、常に関与されたいという欲求を同時に抱えていた。そういう女は極端に関係性に飢えているが、他人との関係性という概念が希薄だ。(231)


    ぼくがこの写真を気に入っているのは、写っているぼくが不機嫌そうだからだ。この写真は僕を象徴しているんだ。犬を連れていて、犬はうれしそうに尻尾を振っているけど、本当はぼくとその犬の間に信頼関係なんかない。あるのは互いに理解不能だという認識と、無力感だ。(205)


    …そして他人に関与できたという自覚は欲情を奪うのだ。(295)


    関与できる余地があって、しかも決して関与できない女達のことが、わたしは好きだったのだと思う。(326)


    他人が他人を救うのは不可能だ。だが、救われることは可能なのかもしれない。(296)


    わたしは不機嫌な顔の、このあなたの写真が好き。ミユキはそう言った。わたしはいつも笑いたくないときに笑ってきたから、不機嫌なときに不機嫌な顔をしているあなたが好きなんだと思うの。(328)




    他人に関与する、とはどういうことか。
    ひとは、他人に影響を与えられず、若しくは影響を与えずには生きていけないと思う。
    他人に関与する=信頼関係を築く、ではない。
    他人を救うこと=信頼関係を築く、でもないと思う。
    ただ、他人に関与せずには生きられないが故に、信頼関係を築くことを望み、それが不可能だということを突きつけられて、不機嫌な顔になる。
    結局他人は理解不能なのだ。
    わたしはどれだけ他人に関与できるのかを知りたかった。
    しかし、信頼関係を築くまで関与できることはできなかった。




    四歳のわたしがもし壊れかけた座席に座っていたら、囁いてやろう。
    「お前は正しかったわけじゃないが、間違っていたわけでもない」
    四歳のわたしは何と答えるだろうか。おそらく何も言わないだろう。彼は黙ってただ不機嫌な顔でわたしを見上げるだろう。(329)

  • タイトルの割に結構良かった。
    ただ、内容があんまり覚えてない。
    男に飼われる女の描写はちょっとドキドキした。

  • いつになったらSMの呪縛から抜け出してくれるんだろう。そんなにショッキングだったのか。一連の作品と大して違いはないし、出てくるスノッブ成金ネガティブ男ももはや類型的だ。ドヤ顔をしていそうなカットアップ風や、扇情狙い見え見えのタイトルももはや品格のかけらも感じない。「コインロッカー~」や「海の向こう~」や「愛と幻想の~」とかで胸躍らせて、人格形成まで影響を受けたと思っていたのに。この作品もそうして手に入れたように、最近の作品はブックオフの百円コーナーがお似合いだ。

  • 「わたし」の回想と幻想的な庭園を彷徨う
    2つのシーンから構成されているわけだが

    描写の表現力は相変わらずすごいな、と思う。

  • 気付いたら見覚えの無い庭園にいた私。ミユキという女を捜しにきたはずだったが。と言う感じで、傷ついた女性をオーバーホールする私の回顧録で話が進んでいきます。これが事実なのか、夢なのかなんなのか?つかみきれずに終わってしまった。自分の存在のあやふやさについて書かれた1冊なのかな?

  • ■内容
    わたしはプラントハンター。どこか壊れた女たちをオーバーホールするのが仕事。快楽を仲立ちに、男と女はどこまで深く関与できるのか。男と女の関係性を、濃密な物語の中に問いかける問題長編!

    ■memo
    出版社時代に買って自室の布団の中で3日間ぐらいかけて読んだけど苦痛極まりない本だったな。私は非常につまらなかった。この時期は私も読書力が足りなかったから今読んだら別の感想かもしれないけれど。でも意外にもすごく評価が高いので驚いている。

  • 久しぶりの村上龍。あいかわらず、難しい理屈をこねるところが面白い。

  •  副題とは全く違う内容です。主題の方も、4girlsはわかりましたが、2daysは理解できませんでした。

     テーマは人と人との関わりみたいなところでしょうか。

     いくつかのパターンでリフレインが出てきます。書き出しのリフレインもそうですが、そうでない部分も繰り返しがあったように思います。
     今起こっていることと、4人の女性にまつわる回顧が、断片的に絡み合うようにして語られます。
     これらは村上龍の小説によくあるパターンですが、これが気になる人は読まない方がよいでしょう。

     内容的には面白いと思いますが、少し冗長な部分が多いような気もします。

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著者プロフィール

一九五二年、長崎県佐世保市生まれ。 武蔵野美術大学中退。大学在学中の七六年に「限りなく透明に近いブルー」で群像新人文学賞、芥川賞を受賞。八一年に『コインロッカー・ベイビーズ』で野間文芸新人賞、九八年に『イン ザ・ミソスープ』で読売文学賞、二〇〇〇年に『共生虫』で谷崎潤一郎賞、〇五年に『半島を出よ』で野間文芸賞、毎日出版文化賞を受賞。経済トーク番組「カンブリア宮殿」(テレビ東京)のインタビュアーもつとめる。

「2020年 『すべての男は消耗品である。 最終巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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