それから (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010052

感想・レビュー・書評

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  • 夏目漱石前期三部作の第二作。恋愛が完全な幸福としては成就しないのが三部作の共通するテーマだと思っているが本作では破滅へと通じる愛へ向かう高等遊民の悲劇が描かれている。
    世間の人々や物事に対して常にドライかつシニカルな目線を向ける代助の人格が文体にも反映されていて、終盤までは抑制の効いた落ち着いたトーンで物語が進むが折々で展開される代助の人生観が面白くて全く飽きさせない。終盤になり、代助自身も自我を抑えきれなくなるとそれに合わせて文も二、三段階ピッチが上がる。最後の平岡と代助のやりとりとそれを終えた代助の帰路の描写は狂気すら感じさせる。

    実家から莫大な資金援助を受け、悠々と暮らす代助と生活を営むためにあくせく働く平岡が対照的。かつてはお互いのために涙まで流した友人の仲が収入や社会階層の違い生じた小さなズレを契機に徐々に切り裂かれていくのが哀しい。もちろん絶交を決定づけたのは三千代の存在に違いないがその件を抜きにしてもこの二人はいずれ別れる運命だったろう。
    明日のメシが食えるかっていうのは否が応でも人の考えや行動に影響を与えるバイタルな問題だから。

    満足な豚であるよりも不満足なソクラテスである方が良いなんていう言葉があるが代助を見るとソクラテスはソクラテスなりの地獄があるのだなと実感。必要なものなら全て持っている人間が本当に欲しいものを手に入れようとした時、運命の手痛いしっぺ返しを食らう。豚にとって、悲劇とは飯が食えないことに違いないがソクラテスにとっての悲劇がこれならその悲しみは数段深い。

    三部作最後の「門」ではどんな恋が描かれているのか楽しみ。

  • 今でいう「働いたら負けだと思ってる」的な堂々たるニートっぷりの主人公・代助。親が資産家のおかげで衣食住に不足なく、教養を受け道楽を楽しみ人生を謳歌。読者の私としては、うらやましい限りである。
    一方、代助の父は一代で財を築いた実業家であり、兄の誠吾も社交家で毎日仕事の付き合いに明け暮れている。兄嫁も夫の忙しさには寂しさを隠して理解を示している。ところへ、学生時代の親友・平岡が会社のいざこざに巻き込まれて辞職し、東京へ戻ってきて代助を訪ねる。平岡は金に困って奔走していた。平岡には三千代という妻がいるが、彼女は学生時代から代助とも親しかった。平岡の結婚に三千代を斡旋したのは代助である。三千代は心臓が弱く、子を成したが亡くし、また平岡の辞職によりいっそう具合を悪くしている。
    そういった背景の中、代助は平岡に金を貸したり、貸すために兄嫁を訪ねたり、といったエピソードがだらだらとスローテンポで描かれる。平岡がパンのために奔走するのを気にかけながらも、自分はパンのためにあくせくしたくない。とニートっぷりは一点も曇らず。
    そんなフラフラしてないで世帯でも持って一人前になりなさいよ、と父をはじめ外野が代助に結婚をすすめてくる。この縁談の催促を、代助は前々から持ち前の曖昧な態度でのらりくらりと交わしてきたのであったが、いい加減にせえよ、と父の怒りは増幅中。兄嫁も心配しあれやこれやと口出しするようになる。そんな中、代助は、親友の妻である三千代に対する自身の気持ちに気付いてしまい……。


    前半の、のらりくらり具合もそれなりに面白い。が、後半、三千代への怒涛の告白に心震わされた。物事はどんどん行き詰まっていくばかり、残りページ数から見て、この展開にどうやって決着するのか……と思っていたら、まさかの終わり方で(笑)
    えっ!それからどうなったのよ?!と思わずつっこんでしまった。さすが「それから」である。あえて書かなかったのでしょう。

    全体に漂う耽美感。代助の、世の中に対する捉え方に色彩がついてまわるのが美しい。
    世の中が動く、というのは、もうニートではいられない。文明の進む方向は経済が中心になっていく、という民主主義に対する意見なのかな。繊細さんは生きづらい世の中に……。それとも、もっと深い意味があるのかな。

  •  千年読書会、今月の課題本でした。学生の時に読んだ記憶があったので、手元にあるかと思ったのですがなかったため新潮文庫版を購入。他の漱石の蔵書と比べて大分新しい見た目となってしまいました。。

     さて、本編の主人公は「代助」、とある資産家の次男坊で、大学は出たものの、30歳をこえても定職に就かず、フラフラと気ままな日々を送っています。当然結婚もしておらず、学生時代の友人「平岡」の妻「三千代」にほのかな憧れを抱いているものの、二人の幸せを祈ってる状況だったのですが、、その夫妻が仕事で失敗して東京に戻ってくるところから物語が動き始めます。

     代助はいわゆる“穀潰し”なわけですが、家族には愛されているし、期待もされている。今でいう、ニートや引きこもり、、ってほどにネガティブでは無く、当時の高等遊民との言葉がまさしく言い得て妙です。ただ、危機感のなさからくる“社会”との乖離は共通しているのかな、、

     背景となる時代は、日糖事件のころですから、1910年前後でしょうか。一等国ぶっていても、借金で首が回っていないとか、日露戦争後の日本社会状況を冷静に見通している、知識階層の感覚もなんとなく垣間見えて面白いです。

     そんな中での“金は心配しなくてよいから、国や社会のためになにかしなよ”との、父や兄の言葉はなかなかに象徴的だな、とも。次男・三男に、金銭よりも公共性の高い事業へのケアを求める。そういった観点からの社会への還元は、ある種の分業とも取れて意外とありだなぁと、そして、今でも結構あるよなぁ、と。

     さて、仕事にしくじって戻ってきた平岡夫妻、なかなか思ったような再就職もできず手元不如意に。そんな夫妻の危機に対し、金銭的には力になれない代助は、自身の無力さを感じるものの、社会に対してはまだどこか他人事のように接しています。

     そのまま十年一日のように過ぎていくのかと思いきや、夫婦間の根底の問題に触れ始めたころから、他人事ではなく“我が事”としてのめりこんでいくことに。。

     単純な愛情だけではなく、二人の不遇が故の同情もない交ぜになったその様子が、どこかアンニュイに世界と関わっていた代助が変わるきっかけに。その三千代への狂おしいほどの想いとしては、どこから来ているのか、そんな心の機微が濃やかに描かれています。

     並行して進められている、いわゆる“いいところの御嬢さん”との縁談の話との対比も象徴的で、価値観の合わない女性との結婚に、イマイチ前向きになれない代助ののらりくらりとかわそうとする煮え切らなさも面白く、、どこか微笑ましく見ていました。

     そして興味深かったのは代助と平岡の仕事に対する意識の違いでしょうか。代助は「食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪い」、平岡は「食う為めだから、猛烈に働らく気になる」と、これは今でも同じかなと。どちらも“あり”だと思いますが、個人的には代助に共感を覚えます。

     終盤、代助は勘当された状態となり「職業を探してくる」なんて風になるわけですが、代助が「自分のこころに対して愚直なまでに誠実」であることは、物語の最初から一貫していると思います。表面的には、坊ちゃん然とした甘ったれにも見えますが、当時の家族とのしがらみや金銭的な問題をも飛び越えての、代助の在り様と、それを受け入れようとする三千代は、なるほどなぁ、と。

     「仕事は“何のため”にするのですか?」

     こんな問いかけをされているように、思いました。「家族を養うためにきつくても嫌でも我慢して、働いてやっている」なんて風潮に疑問を投げかけながらも、かといって、霞を喰って生きていくわけにもいかないとの現実的な問題も対比させて。劇中の代助の選択肢はいくつもあり、自分だったらこうするのにとの投影も可能だと思います。

     ラスト、代助と三千代、ふたりの“それから”がなんとも気になる終わり方となるわけですが、、物語としては生殺しですが、問いかけとしてはこのオープンエンドはありだなと。このような物語を当時の時代を踏まえながら描き出せるのはさすが漱石といったところ、今まで読み継がれているのもあらためて、納得でした。

     ついでに言えば、代助を男性として見た場合の魅力はどうなんだろうと、女性にもきいてみたい、そんな風にも感じた一冊です。

  • 簡単に言うと、裕福な家庭に育つたニート青年が友人の妻と不倫してしまった話し。ラストシーンで、全てを失いかけた主人公の狂気じみた心理描写は、圧巻だった。

  • 何故棄ててしまったんです。確かに後からこんな事言われたらせやわな。

    でもその時は気付いて無かったからやろうけど、今になって全てを棄てる覚悟で三千代に行くのはどうなんやろか?

    もし自分が代助なら政略結婚にホイホイ乗っかって行くやろうなぁ。

  • あらゆる面倒を独自の解釈やロジックて回避、正当化し本能のまま時間を貪る主人公。
    観察眼鋭く常に上から目線が鼻につくが、趣味に生きる姿は周囲からは羨望と葛藤が感じられた。

    ふと気づいた思い、その源泉を検証する様、結論の導き、と様々な苦難や選択、判断を下してきた者ならば到達しないであろう答えを導くあたりは緩い生活をしてきた者の哀れを感じた。

    自己中な放蕩息子の末路。
    盲目的に突き進み周囲の者は離れ、身を焦がすような思いやこれから想定される破滅など現代でも何処で聞いたようなリアルさがあった。

  • 食べるための仕事は嫌だ、なんて言いながら、事業家の親の金で日々を暮らすニートが、友達の嫁を好きになり、親に愛想尽かされ、友達も失い、いよいよ食べるための仕事をしなければならない、と追い込まれる話。

    日露戦争後の時代背景や、夫々の心情の捉え方が現代とは異なるかもしれないけれど、結局そういう話。

    なんというか、主人公の身勝手さに悲しくなりました。

  • 知識人で頭が良いからこそ、食のためにする仕事は本当の仕事じゃないと言って高等遊民を決め込む代助は、三千代との不倫の愛の結果実家から勘当され、火がついたように仕事を探し始める。
    行雲流水の自然に従えば三千代を愛さずにはいられない。冒頭から代助が自分の心臓を確かめる癖があることが描かれ、三千代は心臓病で、血潮についての描写もあり、「こころ」とのつながりを感じた。最後の赤は怒りの色というよりは、命の色、活動の色のように感じた。

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  • 働く者からしたらただの屁理屈にしか聞こえない「高尚な精神」を言い訳として悠々自適に暮らす、現代でいうニートの代助。授業のグループワークで友人が代助に「ひねくれクソニート」というあだ名を付けていた…
    それまで淡々と、飄々と生きていた代助だったが、三千代への愛を自覚してからは激しい苦悩に襲われる。その苦しい心理を非常に細かく丁寧に、言葉を尽くして書いている。色彩の描写が印象的で、特に最後の赤、赤、赤の所は読んでいるこちらも頭がぐるぐるしてくるようだった。また、所々に漱石自身を思わせる描写があった。
    物語というより、代助の思想や感情が大半を占める本。
    彼は「それから」どうなったのだろう。

著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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