- Amazon.co.jp ・本 (277ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101016511
作品紹介・あらすじ
どうして私はこんなに生きづらいんだろう。母から、男から、世間から受けてきた抑圧。苦しみから解放されたくて、闘いつづけているうちに、人生の半分が終わっていた。自分がラクになるために、腹の底からしぼりだしたもの── それが“私のフェミニズム”。自らの体験を語り、この社会を覆い尽くしている“構造としての女性差別”を解き明かす。すべての女性に勇気と希望を与える先駆的名著。
感想・レビュー・書評
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首の鎖が長いか短いかの自由しか女には許されていない。
男らしさにあって女らしさにないもの、それは自分らしさ。
この本は、フェミニズムという言葉に引いてしまう人や、
田嶋陽子を男相手に怒ってるおばさんという誤ったイメージを持っている人、
自己啓発中の人、
そしてとにかく男女問わず若い人に読んでほしい!!
田嶋陽子さんがこの本を書いたのは30年前だけど、
今も日本はたいして変わっていない。残念ながら。
自分らしさと女らしさの狭間で嫌になったり
女だからと我慢したり、言えなかったりやれなかったりしたこと、やりたくないのにやったことがたくさんある。
なのでこの本は読んでいて辛くもあり、そうなんだよって納得しまくったり、やり場のない怒りを感じたり、すごく忙しかったけど、読んで良かった。
何なら20年前に出会いたかった。
私ができることはわずかなので、
自分らしく生きる(そうしてるつもりだけど)。
女らしさとか母親だから~とかに惑わされない!
そして自分の家庭には軍隊構造を持ち込ませない!!
娘にも息子にも、自分らしく楽しく生きる姿を見せたい!!
読んでいて書きたいことが溢れて収拾がつかないのでこの辺で終わり。
男性はこの本を読んで何を思うんだろう?そもそも手にとるのかな?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書の中で何度も涙が出て来ました。
茶碗を洗いながら女であることを泣いていた田嶋先生の母の件。「どうしてお母さんだけが朝昼晩、茶碗のお尻撫でていなきゃいけないの?」。これは完全に人権侵害ではないでしょうか。能力のある女性の言動が抑圧されている。ここから派生すれば現代においても会社で女性はお茶くみ、掃除、電話取り、家庭では共働きであっても女性が家事育児、介護をさせられている場合が殆ど。恐らく多くの女性はおかしいと思っているが異を唱えられない現状。それを見て見ぬふりをしている男性達。面倒な事はやりたくないから知らんぷり。現在の特権的地位を絶対に譲りたくない。なので権利の平等を唱える女性達の魔女狩りすら行う。男性陣に言いたい。あなた達が女性だったらどうですか?想像してみて!男性の方が優秀と自負するのなら余計その事に気付いて下さい。in her shoes!
家事、育児、介護等、女性達が無償で与えてる家事労働を母性とか愛情だとかいう言葉に置き換えて女性を家事労働にしばりつけ女性の人権をないがしろにする時代はもう終わりにして欲しい、自分達の都合の良いように女性を扱わないで!女性はあなた達と同じ知能レベルです!誰かが我慢を強いられている状況にあなたは満足ですか?それを感じないのであればあなたは女性を同じ目線で見ていない証拠です。生殺与奪を握られている男性に目をつけられないようにしたたかに生きているだけ!全員ではないけれど自分達の傲慢さに気付いてください。性別が無いとしたらどうですか?(現にグラデーションがかかっており無いも同然。)
筋力的な力の強弱はそれはあります。それは適材適所と考えるべきではありませんか?詳細はここでは語りません。(力の弱い女性は常に獲物になりがちです)
昔からテレビで田嶋先生は一人でおじさん相手に闘っているのをずっと視てきました。あれはテレビ局の男性スタッフと共演者のイジメでしょう。それを男視点で捉えてしまう多くの女性視聴者(杉田水脈病)、共演者達。勝ち馬に乗っかっていれば自分は安全地帯にいられる。苛められたくない。そういう気持でしょう。
それ位田嶋先生は孤立無援でした。それでも田嶋先生は絶対負けない。たまに収録中に怒って帰ってしまう事もありました。その頑張りをずっと視てきたので田嶋先生のこの著作を涙無くして読み終えることが出来ませんでした。田嶋先生を抱きしめてあげたい。書評の山内マリコ氏も同じ事を感じていたんだ、仲間がいた、と嬉しくなりました。
先生の言うとおり、女性を一人の人間として扱ってくれ、という女性達の魂の叫びに皆に気付いて欲しい。
そして自分の書評を何度も見直して感じたことはやはり女性差別は現存する。フェミニズムは男女平等論ではなくて女性差別撤廃論である、と。 -
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田嶋陽子 “わきまえない女”としての生き方「生きづらいが元気で自由」 | ananニュース – マガジンハウス
https://ananwe...田嶋陽子 “わきまえない女”としての生き方「生きづらいが元気で自由」 | ananニュース – マガジンハウス
https://ananweb.jp/news/358084/2021/06/28
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全てに同意しか感じなかった。これが30年近く前(1992年)に書かれたことに驚く。
10代の頃視聴していたテレビタックルでの田嶋陽子は、全ての事象を女性差別に結びつけて怒っている、そして時々チャーミングに笑う人というイメージだった。彼女によって、フェミニストはとにかく食ってかかる女性たちというマイナスイメージを持った人も少なくないだろう。でもあれはマスメディアが生み出した恣意的な歪んだ記号だったんだと思った。
この本で田嶋陽子の言っている事はまるで予言の書のように的確だ。あまりに先進的過ぎて、当時過激に受け取られただけだった。
30年前にここまで女性の置かれている立場を的確に理解して私たちに伝えてくれていた人がいたのになあ。理解できなかった自分を悔やむ。
自分を振り返って考えると、人って自分が若くて幸せな時は重要なことには気がつかないものなんだな。
『女は首の鎖が長いか短いかの自由しかない』
今の女性が置かれている立場が凝縮された言葉だと思った。 -
諭し、語りかけてくれるような文体なのに内容はズバズバとしかしわかりすぎて、最近の本かと思ったら1992年刊行の本で、エッ日本…時計壊れてんな…というそのネジを回していくのは間違いなくわたしたちの世代なのでしょうね。
結びのエールに田嶋先生の優しさが全て詰まっていた。
わたしも少女時代は田嶋さんのことを声の大きい人だな…なんでそんな言わなくてもいいことをわざわざ言うんだろう…と苦手意識を持っていたものだけど、この本を読んでその誤解というか過去のイメージが雲が晴れるがごとく変わった。
この人は「そんなの聞きたくない人」のためにずっと語っていたんだ。
この本のいいところはあくまで田嶋さんの経験から培われたフェミニズム、ただ「私が楽になるための」フェミニズムであったこと。それは学識がなくてもなめらかに頭に入ってくる。わかりやすくて、すっと受け入れられる。
エトセトラブックスvol.2と合わせて読むとなお充実した田嶋陽子ワールドに浸れる。 -
30年近い時の流れがあった筈なのに、まったく古さを感じないどころか、まさに今の世ではないのか、、?日本は前に進んでいないのか?と愕然とした。
著者が心身を削られ続けた実体験から苦しみもがいて深く考察し、様々な人間関係や経験を経て、あまりにも身近過ぎる母娘の問題を俯瞰できた時、フェミニズムの普遍的かつ根源的な考えと社会の構造の問題に至ったのは、驚きと共に感慨深い。
家族からの精神的な支配は、苦しく切なく絶望的だ。
子供はそこから逃げられないのだから。
この問題は、今も昔も、我々の足元にもあり、広く世界中にある。
虐待や暴力や差別は連鎖していくのか。
断ち切るには。
ガレー船の例えはとても秀逸だ。
音頭をとって洗脳してくる人、いる。
三倍働いて、何倍もの成果を上げたならと、やっとの思いで甲板によじ登って、やっと同じスタートラインに立てる、かに見えるそんな世の中で、その後も手を踏まれたり頭を押さえ付けられたり引き摺り下ろされたりする。
土俵に上がりさえすれば、同じ扱いをされるなんてのは幻想だ。スタートラインなぞ存在しない。
疲れ果てて、擦り減って、絶望する。
戦い続けるのは中々にしんどい。
もう同じ土俵で戦わず、船を降りるか、船を壊すか、全員でボイコットか、漕いで前に進む(資本を拡大させ続ける)以外のルールを、、、いい方策がないものかと現実逃避で夢想する。
(いや、船を降りて自由に泳ぐのは悪くないのだけど、問題解決はしていない。船のような環境が至る所にある限り逃がれられない。)
退出するしかないのか。
しかし、それでも、何度でも甲板に上がって、数を増やして、声を上げ続けなければ。
ルールを変える為には、まずは現状のルールを超えていかねばならないのだろう。
独立国家を樹立せずに、共生する限りは。
疲れるし、疲れた、もう嫌だ、、、、
それでも、やっぱり自立して、戦おう。何度でも。
世の中を変えたい。次の世代のために。
多くの先人が勝ち取ってきてくれたものをもっと良くしたい。
私は好きな方角へ進みたい。
皆が好きな方角に進んでほしい。
そういう世にするために、まずは力を合わせたい。
そう、全員が同じ方角を目指さなくてよい。
と思えた読後。
優しく鼓舞してくれる大先輩の愛に触れられる本だった。
また、後半に語られる、これまでの日本のフェミニズムは別の思想に組み込まれて語られてきてしまったという指摘は興味深かった。
私もフェミニズムはシンプルな人権思想でよいと思う。
他の問題が合わさると、問題の本質がぼやけてしまう。
著者のあとがきで、タイトルをどちらにするか迷われたという、もう一方のタイトル案は、まさしくこの世に蔓延る呪いであり、明確な支配だ。
ゾッとするし、耳から離れない。
力強く払い退けられる腕力と、軽々と逃げられる脚力と、流されてしまわずに「世の中を変えるのだ」という強い意志を持ち続けたい。
「小さく小さく女になあれ」
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去年だったかVogueで田嶋さんのインタビューを読み、遅まきながら著書を読んでみました。元は1992年出版なので、メインとして語られているのは自分の母あたりの「主婦ドレイ」の話なのだが、女性の不払い労働を基本に成り立っているという社会への批判は引き続き有効だなあと思わざるを得ない。
そんな中で、家事や子育てをしている自分が嫌になり、ちょっと暗い気持ちになってくる。「女性が輝く」だの「少子化を食い止める」のも、結局は男性に都合のいい社会を作るためのスローガンじゃないかと思えてくるし、そんな社会を長続きさせるためなら、いっそこのまま少子化が進んで人間なんて絶滅してもいいんじゃないかと。そんなラディカルに考えなくてもと言われそうだが。
ちなみにこの文庫本には2019年現在の山内マリコさんという方の後書きがあるのだが、私が田嶋さんに抱いていたイメージ(タケシの番組で男性陣と対等に議論するも、なんだか悪役キャラで終わる)をずばり言い当ててくれている。また今回著書を読んで、やっと田嶋さんの生い立ちや主張を知れてすっかりファンになった点も同じ。 -
1992年に書かれた本、今でも全然話が通じちゃうから、いかに社会がジェンダーの観点で変わってないかよくわかる。読んでて新しい発見もあったりして、私もこの社会のよくわからん価値観に染まってるんだなぁと改めて思ったり。
読んでて、出てくる内容と、私の家の典型的な家父長制、家事労働をやらされる奴隷として存在する母、がぴったり当てはまっちゃうもんだから、深くうなずきながらページをめくりました。今はできないけど、いずれ自分の足かせを外すためにも、ちゃんとそんな家族にも向き合わなくちゃいけないんだろうなと考えました。
まぁとりあえず、私は私の人生を生きるし、母にもちゃんと自分の人生を生きてほしいと思うのでした。 -
おもしろかった。30年も前にこんな考え方が出ていたのがまずすごい。
そう考えると、私はまだまだ30年前で立ち止まっているだけなんだな、もっと前に進まないと、と思うよね。まだ生まれてないけど。
セックスの項のところが、私が男性に抱く嫌悪感そのものだった。ただ、レズビアンだからと言って支配する、されるの関係がないわけじゃない。ただ、その傾向があるかどうか、意識や形状にあらわれやすいかどうか、なだけなんだよな、結局は。こう言ってしまうとフェミニズムから外れてしまう気がするけども。
私は、ひとりで生きていけるように人生の選択をしてきたし、この先もきっとひとりで生きていくと思うけれども。
ひとりで生きていくっていうのは、自分のほしいものは自分で手に入れるっていうのと同義で。
そういう面ではすごく共感できるし、私みたいな考え方の人がもっと増えて、フェミニズムの観点からいえば男と女が対等になる、そういう社会はきっとおもしろいだろうな、と思った。
けどね、結局私が一番ほしがっているものは、愛、なんだよなぁ、きっとなぁ。
フェミニズムの本なので、フェミニズムの観点から読んでしまったけど、結局は自分のしたいように生きようってことだよね。自己啓発と根本は一緒な気がする。自分の好きなように生きようと考えて、今までを振り返ったときに、その自分の今までの生き方が、実は支配的、差別的なんだよ、っていうのがフェミニズムなだけであって。
結局はカテゴライズ。だからこそ、『あくまで「私」が先であって、フェミニズムが先ではありません。"「私」がフェミニズムを生きる"のではなく、「私」を生きるにあたって、役に立つからフェミニズムを使っているのです。』って言葉が私はすごくすき。 -
女は奴隷であるという事、最初は違和感があったけど、夫や夫の家族との関係を振り返るとやはり奴隷をやらされていたなと感じた。あの時感じた屈辱感は当然だったと言える事がわかってとてもスッキリした。