- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101121147
感想・レビュー・書評
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探偵として追う立場の「ぼく」も自身の地図を失効してしまう。“閉じた無限”、“薄っぺらな猫”など寓話的な表現も多い。読んでいるうちに霧のような不安につつまれてしまった。都会もまた砂漠のようなものかもしれない。
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失踪者を探す男がやがて自分を見失っていく話。調査の拠り所がなくて落ち着かない男の様子が、読点だらけのモノローグから滲み出てきて、読んでいる間ずっと不安で不安定な気持ちになりました。
冒頭の一説がとても印象的で、読み終わった後にもジワジワ効いてきます。
「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくりの同じ番地がふられた、君だけの地図。だから君は、道を失っても、迷うことは出来ないのだ。」 -
安部公房特有の暗くねばっこい質感がありながら読む手を止まらせない一冊。
探偵としてあちこち探し回り、一癖も二癖もある人たちと何度もすれ違っているが探してる男の姿は一向に見つからない。影さえ見えないままだから心のどこかに知らない影を作りたがるのは誰もがそうなのかもしれない。
そうして終わらない迷路を彷徨った主人公が最後にたどり着いた先が実際に迷路の終わりだったのか、新しい迷路の始まりだったのか。細部に至るまで抽象化した現代の偶像としての都会、社会性を描いた作品に思えて面白かった。
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ヤバいと思った
読者の感覚を揺さぶってくるの怖い
怖いーー(泣)(泣) -
最高。
通常の世界からだんだん夢の中を歩いている気分になる。自分は誰なのか、むしろ自分が追い求めていた人物かもしれないし自分はその弟かもしれない。ファイトクラブのような気もしつつ、ただ人を探す行為に疲れた精神錯乱かもしれない。それを風刺として利用したのかそれとも夢の世界に引き摺り込みたいのか。安部公房だった。 -
これまで読んだ安部公房の中では、
私にとっては難解で、
意味を理解するというよりは、
円環的で、主客が狂っていく、
いつもの蟻地獄のような安部公房世界を味わうことに努めた。
難解な理由の一つは、
会話が、描写が、
何を言っているのかわからないのだ。
限りなくリアリティがあるような変哲もない団地の景色も、
その変哲もなさが詳細に語られるほどに、
なんの特徴もなくて超現実的になる。
根室婦人の言葉は終始何を言っているのかひとつも分からず、
夢なのか幻なのか、
主人公同様に区別がつかずに混乱してくる。
しかしそれらは読書から離れて現実に戻った時に、
今この私が私であるという自己感覚に、
大きな疑問を残す装置になるのだった。 -
安部公房が書く「都会という無限の迷路」、それはタクシーであり公衆電話であり地図であり電話番号……、そのような「都会」は今はもうないのかもしれない。
初めは物語世界に入り込むのに苦労した。
半分を超えたあたりで、小説のテーマが何となくわかった。
入り込めなかったのは、現代が安部公房の時代とは前提が変わってしまったからかもしれない。
冒頭、「だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ」とある。
安部公房の時代からさらに時が経ち、現代はもはや、手掛かりとしての地図すら消えてしまった状況ではないか。
道が自分と同化し、道を見失うこともできなくなった……。 -
「存在しないもの同士が、互いに相手を求めて探り合ってる、こっけいな鬼ごっこ」
後半に出てくるこの一節が本作を要約しているように思う。興信所の職員である語り手は、失踪した男を探すようその妻から依頼を受ける。しかしこの依頼には彼女の弟が一枚噛んでいて……その関係を手繰り寄せていくうちに、事実と虚構の違いが曖昧になっていくばかりか、語り手自身の自己同一性までもが揺らいでいく。
ポール・オースターの小説にも似た、非探偵小説だ。
読み始めてまず感じたのは、この小説の文体変わってる、ということ。やたらと読点が多い。同時に、それこそ英語の小説を読んでるみたいだとも思った。
読点の多さについては、読み進めるにつれて、現実とは何かがわからずに混乱し、息も絶え絶えになった語り手が、クサビを打ち込むように言葉をつなげていく、そのクサビのようにも見えてくる。
デカルトの「我思うゆえに我あり」を思い出した。世界は無秩序の様相を呈しているのに、我だけは最後まで消えずに意識としてある。自我だけは失踪してくれない。デカルトの発見した命題が、そのまま語り手の苦しみになっている。
その葛藤や妄想に読者として付き合うのがけっこうキツかった。なんどか寝落ちした。解説でドナルド・キーン氏は傑作とみなしている。たしかに並みの小説ではないのはわかるし、キマってる表現もたくさんあるのだけど、安部公房作品にしては私はそれほど面白くなかった。
ちょっと翳りのある作品で、安倍公房印のユーモアが今回はわりとアイロニーに偏っている。
もうひとつは、ドナルド・キーン氏が解説を書いた当時はどうだったのか知らないけれど、この分裂症的な小説に描かれている状況が、現代ではわりと当たり前になっているということもある。秩序や法が離散し、それぞれを事実認定しうる上位の法は存在せず妄想と区別するすべがなくなってるこの現代を、安部公房はどこまで想像できただろうかと思いつつページをめくった。
とはいえ、状況がどうあれ、安部公房の小説でいつも右往左往しているのは男たちばかりだ。 -
再読。《「ぼく」のたどる道筋はメビウスの輪というより、ある一箇所が欠けた環状のランドルト環みたい。ただし、途中で捩れた。だからカーブの向こうは空白なのだ。》と書いたのは本当に八年前のわたしなのだろうか。
鏡に映っているのは確かに自分ではあるけれど、〝確かに自分〟と認識しているわたしを信用できない。現実は現実のふりをして等身大の顔をしながら、ひそかに背伸びした現実として夢のような貌で鏡に反射している。正気と狂気、真実と虚偽、他人と自分ですらその境界線は曖昧で。
鏡の前のわたしが本物であることを証明してください。 -
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https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/682255