二十歳の原点 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101183015

感想・レビュー・書評

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  • 正しさを追い求めて闘い続けた人。この本を読むと、深い孤独を覗いているような気持ちになる。偽りのない自己の確立を目指せば目指すほど、他者や、演じている自分との違いに敏感になるのだろうか。高野悦子さんのような生き方は、心が休まることなく辛いだろうなと思う。私にはできないし、したくない。人間は、孤独かもしれないし、未熟だろうけど、こんなにシビアに生きることはないよな、と思いたい。

  • タイトルは「二十歳の原点」であり、本書にも「二十歳」という言葉は出てくるものの、内容は「これまで生きてきた自分は人形であった」ということで、年齢を問わずして「未熟であり、孤独」なのだ。
    本書が漂わせているものは、あなたは会社の人形なのか? 学校の人形なのか? 親の人形なのか? それとも自身の理想に操られている人形なのか? といった問いかけに思われる(筆者にそいういう想いは全くないだろうが)。
    「俺は(わたしは)誰なのか?」という問いは非常に青臭くはある。しかし永遠の題なのだろう。今ここにいる自分を全て肯定できる人はおそらくいない。

  • 思春期ゆえの純粋過ぎる正義感、過剰な自己否定、大人ヘの無料をした背伸び、恋愛への憧れと失恋、全てが痛々しい。死ななければ大人になって切なくて照れ臭い青春を思い出すことも出来たろうに。

  • 1969年の6月に自殺した立命館大学の女学生の,自殺前の半年の日記.現在の衣笠に移転する前,御所の東にキャンパスがあった頃の話で,周辺に住んでいたことのある身としてはその辺りの地理的な部分も興味深く読んだ.

    社会の慣習に反目し,学生運動に対する立場を鮮明化する必要性を強迫的に懐き,淡いロマンスも経る中で,自身の醜悪さや矛盾に直面し,闘い続けることそのものに疲弊し,精神的に消耗していく様が見て取れる.

    何の前知識もなしに読んだので,正直これだけで自殺してしまうのはどうも単純すぎやしないか,と思ったが,幼少の時分から病弱であった背景を知って以降,鬱屈した何かを抱えていたことからこうした経過をたどったという形で納得はできた.

    21世紀の京都で大学生活を送り,今なお残る学生運動の末裔とでも言うべきものも身近にあって,こういったタイプの人間も見たことがあるが,著者も含め,彼らに対して共通して思うのは,なぜ理工系の知見を軽んじ敵視するのだろうか,というところ.勉強と言いつつ読むのは芸術・政治・哲学が中心で,自然科学はごく表面的な知識の理解に留まっており,それでいながら広い視野を持って,権力者よりも適切な判断を行えていると認識しているところが,私には高慢に映ったものである.言葉を何となくのイメージでしか使っておらず,自然科学に存在する様々な概念に触れることで世界の構造的多様性を把握するという思考に至らないケースが多いと,大学生時代に心中で考えていたのを思い出す.

    しかしふと考えると,たとえば知識人を虐殺したポルポトの思想というのは,それらを理解できる「知能的ブルジョワ」,つまり十分な知性を持ちうる環境に恵まれて,それを最大限に行使しそうでない人を搾取する人間に対する反目という意味もあるのだろうかと思った.資本家に対する敵対というのもそれに通じるのかもしれない.

    ともあれ彼らにもそうなるなりの事情があるはずで,結局のところそれを防ぐことができるのかや,一度そうなった人に他のものへの興味を回復させることができるのかどうかが,長年気になっている問題ではある.

  • 戦後の民主化への転換時に「自由」がよくわからぬまま、政治的ニヒリズムからエネルギーを闘争に傾けた若者たち。「授業料を払うことによって商品として己れを身売りすることの拒否。」と授業料を払わないのは正当化できるものではない。再建する画を持たずに破壊する事が目的にしか見えない。未熟が二十歳の基点とは作者に限らずそうであろう。しかし未熟だからこそ将来がある。自殺はやはりすべきではなかった。2019.9.11

  • 20歳という若さで自ら命を絶った高野悦子さんの日記。
    学生運動が盛んな時代背景の中、孤独の海に引きずり込まれるように日記に想いをぶつける。
    その日記は暗いながらも時にユーモアを交えた内容。
    そして、日記の中で思いの丈をぶつけたような詩が儚く美しい。

  • 【概略】
     「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」立命館大学文学部史学科に入学し、二十歳になった作者が、学生運動などその取り巻く環境と、自身の自身たる存在に対する苦悩を、自ら人生の幕をおろす2日前までの日記として綴った衝撃的な作品。

    2019年08月13日 読了
    【書評】
     黒川伊保子さんの「成熟脳」の中で紹介されてたので読んでみた。
     学生運動って、一体、なんだったんだろうね。何が残ったんだろう。そんな時代背景の中、大学生となった著者である高野悦子さん、色んなものと闘っている反面、自己に生じてる矛盾も見えちゃってて。きっと沢山、自分にツッコミを入れてたんだろうなと。
     彼女の苦悩、現代の日本でも通じるもの、沢山ある・・・というより、「変わってないやん!」と、少し呆れるところ、ある。たとえば「女性はかくあるべし」的な感覚。男性の自分だから、その要素、ないといえば嘘になる。男性は男性で「かくあるべし」の物差しに苦しんでるとこ、あると思う。・・・けど、女性のそれ、は、なんというか・・・多角的だと思う。
     もうひとつ、学生運動との距離感でも、強烈に日本人の大きな傾向を感じる。それは、作中の「傍観は許されない」「何もしていない=支持ととられる」といった「~派」という派閥分け。恥ずかしい話だけど、自分も結構しちゃってた。「え?それについて俺と同意見じゃないってことは、相手側?」みたいな。ひぃ、穴があったら入りたい!(笑)作中、傍観の立場だった彼女は、途中、学生運動に身を投じることになる。それは本当に投じたかったから投じたのか。
     「太陽が東から昇り西に沈むのは偽りの現実であり、地球が西から東に時点しているのが真の現実である。その認識をもつとき、始めて主体性あるものとなり生きる現実をもつ」という彼女、常に己という個体の完成を、二十歳を堺に強く意識したのだろうなぁ。でも、若さゆえの潔癖さから、矛盾する行動に対して反発感というか嫌悪感というか、無能感というか・・・そういった葛藤があったのだろうと思う。
     自分が二十歳の時は、正直、こういった内界での衝突はなかった。むしろ全能感にあふれていて、なんでもやれる・なれる・できる、と思っていた(笑)どちらかというと、今の自分の方が、二十歳の彼女の苦悩に共感できるのかも。なんと精神的成熟の遅いことか、喜餅。
     最後に気に入った彼女の言葉を紹介して、終わることにするね。
    「人間は未熟なのである。個々の人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点においてはそれぞれの人間は同じ価値をもつ。そこに生命の発露があるのだ」
     やっぱり二十歳の喜餅より、四十四歳の喜餅の方が、生命の発露、してるわ(笑)

  • 2010/07/28

  • これ読んで学生運動がようやく分かった

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著者プロフィール

1. 高野悦子(たかの えつこ)
1949年1月2日 - 1969年6月24日
『二十歳の原点』で知られた女性。逝去当時、大学生だった。栃木県生まれで、栃木県立宇都宮女子高等学校を卒業し、立命館大学文学部史学科日本史学専攻に入学、京都に拠点を移す。ジャズ喫茶に通い、詩作、そして学生運動に励んでいたが、1969年6月24日、列車に飛込み逝去。死後、20歳の誕生日から続く内面の吐露を記した日記が、同人誌「那須文学」に掲載され、1971年に『二十歳の原点』という題で書籍化、ベストセラーとなった。2019年に没後50年を迎える。

2. 高野悦子(たかの えつこ)
1929年5月29日 - 2013年2月9日
映画運動家、岩波ホール総支配人。『母 老いに負けなかった人生』『岩波ホールと〈映画の仲間〉』などの著作がある。

高野悦子の作品

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