- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101263816
感想・レビュー・書評
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しみじみと静かに心にしみる本だった。河野の歌の素晴らしさ、その生き様に心がふるえた。
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911
闘病記文庫 -
「歌に私は泣くだらう」永田和宏著、新潮文庫、2015.01.01
223p ¥497 C0195 (2022.01.06読了)(2019.09.08購入)(2019.02.15/2刷)
【目次】
私はここよ吊り橋ぢやない
ああ寒いわたしの左側に居てほしい
茶を飲ませ別れ来しことわれを救える
助手席にいるのはいつも君だった
夫ならば庇つて欲しかつた医学書閉ぢて
私は妻だつたのよ触れられもせず
あの時の壊れたわたしを抱きしめて
東京に娘が生きてゐることの
いよいよ来ましたかと
一日が過ぎれば一日減つてゆく
歌は遺り歌に私は泣くだらう
つひにはあなたひとりを数ふ
あとがき
収録歌集等一覧
解説 重松清
☆関連図書(既読)
「家族の歌」河野裕子・永田和宏・その家族著、産経新聞出版、2011.02.13
(アマゾンより)
歌人、永田和宏と河野裕子。
生と死を見つめ、深い絆で結ばれた夫婦の愛と苦悩の物語。
その時、夫は妻を抱きしめるしかなかった――歌人永田和宏の妻であり、戦後を代表する女流歌人・河野裕子が、突然、乳がんの宣告を受けた。闘病生活を家族で支え合い、恢復に向いつつも、妻は過剰な服薬のため精神的に不安定になってゆく。
凄絶な日々に懊悩し葛藤する夫。そして、がんの再発……。発病から最期の日まで、限りある命と向き合いながら歌を詠み続けた夫婦の愛の物語。 -
★5.0 2021.02.09
歌人であり科学者でもある永田和宏氏とその妻の歌人河野裕子氏の最期の10年を綴ったエッセイと短歌の数々。
壮絶と静謐という両極端を夫婦だけでなく家族で過ごす日々が書かれている。
夫婦の深い愛が惜しげも無く描かれており、激しく心を掴まれるものだった。
↓↓↓内容↓↓↓
その時、夫は妻を抱きしめるしかなかった――歌人永田和宏の妻であり、戦後を代表する女流歌人・河野裕子が、突然、乳がんの宣告を受けた。闘病生活を家族で支え合い、恢復に向いつつも、妻は過剰な服薬のため精神的に不安定になってゆく。
凄絶な日々に懊悩し葛藤する夫。そして、がんの再発……。発病から最期の日まで、限りある命と向き合いながら歌を詠み続けた夫婦の愛の物語。 -
壮絶な相聞歌。涙なしに読めない。
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歌人である妻の乳がんの宣告、手術と恢復に向けた日々、そして転移・再発を経た死去に至るまでを、同じく歌人・科学者である著者が綴ったエッセイ集。
随所で妻及び本人の歌が挿入されるが、その中には自身が病苦を抱える中で、自分の痛みを理解してくれないと映った家族をなじるような歌も多い。
例えば、乳がんの宣告を受けた時期に、夫の表情を描く次のような歌。
「何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない」(本書p15)
著者自ら「私のそれまでの人生で、この一首ほど辛い一首はなかったと言ってもいいかもしれない」と言わしめる31文字に込められた重さ。
夫婦の愛の物語と呼ぶのは陳腐すぎるけれども、それでもそうとしか言いようがなく、かつ娘・息子も含めた4人家族の愛の物語としか言えない痛切さに満ちており、読みながら落涙を避けられなかった。 -
歌人は何故こんなに赤裸々に自分の気持ち感情を公表できるのだろう。表現することで歌にすることで本当の自分に巡り合えるのだろうか。
ここまで夫婦には愛憎があるのか、と我が連れ合いさんとの関係を振り返ってしまった。真剣に生きる愛する、言葉にすれば大したことではないのだが。 -
歌人であり細胞生物学者である永田和弘氏が、同じく歌人であり妻である河野裕子氏の闘病と死を看取った記録である。乳がんであることが分かった後、妻が夫を責めるところは読んでいても辛くなる。恐らく、河野さんも死を受け入れることが出来なくてどうしようもなかったのだろう。しかし、再発の時には覚悟して、最後まで歌を詠み続ける態度を貫き、家族もそれを支えた。一時期の嵐がなければ、その境地には至らなかったのかもしれないと思うと、必要な試練だったのだろう。そうしたことも含めて、生きるとは、死ぬとは、家族とは、考えさせてくれる良著である。
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「歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る」
泣いちゃうね。またいつか必ず開く本。いまはいっぱい。ありがとうございました。 -
歌への情熱、家族の愛、
涙なくして読めない。
人を愛することの意味を問い直される。