ミステリー小説というのは、ある意味、読者に謎を解かせてあげることで、自分は頭がいいと読者の虚栄心を満たしてやるためのものみたいなところがあるように思う(笑)
ミステリー小説の魅力は、もちろんそれだけではない。
謎の奇抜さとか、最後にピースのひと欠片がはまった時に現れる全体の構図が現れた時の驚き。あるいは探偵役の魅力、たんに物語としての面白さなどミステリー小説には様々な魅力がある。
ただ、ミステリー小説というのものが商品である以上、(特にインテリジェンスにこそ価値がある今のような時代においては)読者のその手の虚栄心を満たしてあげることが本の商品価値としてとっても大事なことであるのも確かだろう。
連城三紀彦というと『戻り川心中』!、だが。
実は、自分はこっちが読みたかったののに廃刊だったので、先に『戻り川心中』を読んでファンになっちゃったタイプ。
そんなわけで、やっと古本を手に入れて読み始めたまではよかったんだけど……
なにこれ?読みにく~い!w
冒頭、短い場面転換がやたら頻繁で、話に入っていけないのだ。
ずっと読みたかった本だというのに、すっかり上っ面読みしちゃったぁ~い!w
そんなわけで、虚栄心を満たされるどころか、「あぁ~あ。俺って、実はバカだったんだなぁー」なんて。
すっかり落ち込んじゃったと(爆)
とはいえ、絶対っ!負け惜しみを言うわけではないがw、今の現役作家と比べると、出した謎を謎として読者に興味を持たせ続けさせるというのが弱いかなー、なんて思ったりして(笑)
ていうか、これを書かれた時代って、作家にそれがそれほど求められなかったんだろうな。
いや、それがよいとかわるいとか、そういうことでは全然ない。全然ないのだが、今の現役作家のその辺りの巧みさというのは本当にスゴイと思う。
ただ、こうして連城三紀彦なんかを読んでみると、巧みすぎちゃう気がしないでもないけど(笑)
そういえば、連城三紀彦というと「文章が美しい」みたいなところがあるけど、少なくともこれはそうは思わなかった。
むしろ、これだけ読んだら「時々、妙に変な文章が出てくる人だな」という認識になったと思う。
これは『戻り川心中』を読んだ時も思ったことだけれど、連城三紀彦の小説で美しいのは文章ではなく、その文章によって醸し出される抒情的な情景なんじゃないのかなぁ…。
その『戻り川心中』と比べると、これは趣が違う。
もちろん、『戻り川心中』は短編集でこっちは長編というのはあるんだろうけど。
ただ、これを最初に書いたということは、著者からすればこっちの方が本籍地だったりするってことないんだろうか?
とはいえ、自分の奥さんがいつの間にか他人とすり替わっていると思い込んでしまった旦那と奥さんが言い合い。「他人と認めろ」とベッドに奥さんを投げつけた旦那がその後、床に崩れ落ちてうずくまってしまったのを黙って見つめている奥さん、という場面の描写。
“夜は静かで、廊下を通り過ぎる夫婦者の楽しげな笑い声が聞こえた。皆そういう風に笑いながら、幸福を静かに失っていくのだと思った”
なんて凄みがある描写されているのを読むと、この辺の感性は『戻り川心中』を思わせるなぁーとも思った。
実は、上っ面読みしちゃったとか言って、読み終わってしばらく経ってから思い返してみるとこの本、なぜかすごく印象がいい。
読んでいる時に感じた構造の複雑さからくる「読みにくいなー」「なんだかわかんない」より、むしろ「面白い本読んだなー」という印象の方が強い。
たぶん、それはやたら凝りに凝った構造に負けず劣らず、お話がちゃんと物語がられていたからなんじゃないかと思うんだけど…!?
ていうか、これで作家デビューすることになった著者の「スゴイの書いてやるぞ」みたいな意欲と覇気がひしひしと伝わってくる感じもいいんだよなぁ…。
トリック(トリックという言葉が適当かどうかはともかく)そのものはかなりムリがあり、やっぱりどう考えたってムリな『Xの悲劇』をダメとし、こっちをいいとするのはいささか依怙ひいきだとは思うだけどさ。
でもコレ、今さら思ったけど、もしかしたら『戻り川心中』より好きかも?w