- Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101465210
作品紹介・あらすじ
同時通訳者の頭の中って、一体どうなっているんだろう?異文化の摩擦点である同時通訳の現場は緊張に次ぐ緊張の連続。思わぬ事態が出来する。いかにピンチを切り抜け、とっさの機転をきかせるか。日本のロシア語通訳では史上最強と謳われる著者が、失敗談、珍談・奇談を交えつつ同時通訳の内幕を初公開!「通訳」を徹底的に分析し、言語そのものの本質にも迫る、爆笑の大研究。
感想・レビュー・書評
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「いいかね、通訳者というものは、売春婦みたいなものなんだ。要る時は、どうしても要る。下手でも、顔がまずくても、とにかく欲しい、必要なんだ。どんなに金を積んでも惜しくないと思えるほど、必要とされる。ところが、用がすんだら、顔も見たくない、消えてほしい、金なんか払えるか、てな気持ちになるものなんだよ」(14p)
これが米原万里の師匠から授けられた「通訳者=売春婦」理論である。以降、米原万里は通訳料金の前払いを胸に刻み込んだという。
ずっとレビュアーの間から高い評価を勝ち得てきた米原万里さんのエッセイを初めて読んだ。通訳のあれこれだけで、1冊を書き通した。訳するということを全方位から解体しながら、面白いエピソードだけで繋いでゆくという荒技を、難なく成し遂げる真の知識人の魅力を満喫した。
本書の執筆は、1994年であるが、74pに、既にPC翻訳の進歩について言及している。
London has knocked some of corners off me.
という訳は、「機械翻訳で次のようにまでは処理できる」と、米原さんいう。
ロンドンは私から角の幾つかを叩き落とした。
しかし、それでは意味をなさない。どうしても次のように訳する必要があるという。
ロンドンに来たお陰で角が少し取れた。
これが「機械翻訳の限界」だと米原万里さんは胸を張る。それから30年、いくらなんでも機械翻訳は人間に近づいているんではないかと、iPhone所蔵のアプリで翻訳してみた。以下である。
ロンドンは私からいくつかのコーナーをノックしました。
良かった!全然進歩してない。米原万里さん、未だ大丈夫ですよ。
著者あとがきの後に、文庫本編集者の後書きが載っている。そこに彼女の「絶筆」が載っていた。エッセイでもなく、小説でもなく、本書の間違いを指摘した読者へのお礼の手紙だった。亡くなるたった15日前の誠実な文章だった。米原万里。かけがえの無い人だったのだと思う。
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【感想】
Youtubeで、英語音声の日本語字幕もしくは日本語音声の英語字幕を見たことはあるだろうか。発言を翻訳したものが文字として表示されているわけだが、両者を比べてみると、発言に比べて字幕の量が驚くほど少ない。なかには発言の半分も字幕化されていないケースがある。これは話者が口にしている「冗語」をばっさりカットしているからである。
また、テレビの同時通訳で時おり、語数は非常に多いけれども、何を言っているのかサッパリ分からない通訳者がいないだろうか。筆者はそれを「情報の核をつかみ、余分な情報を切り捨てる勇気と労力を惜しんだ結果である」と断じ、筆者の知人は「お役所の庶務課係長の訳ですな」、つまり判断を下すことによって責任が生じることを極力避けようとしているような訳だ、と辛辣に皮肉っている。
通訳者は話者のトレースではない。何を訳し、何を訳さずに捨てるべきか。聞こえてくるものをとにかく訳してしまうと、話の筋道や論旨を追えなくなり、言葉は流れてくるが要領を得ない庶務係長タイプの訳ができあがってしまう。そうした判断を猶予数秒で行うのが「同時通訳」という仕事なのだ。
本書『不実な美女か貞淑な醜女か』は、ロシア語通訳の第一人者である米原万里氏が、「同時通訳」という職業の難しさとそれにまつわる苦労を、実体験を交えながら解説するエッセイである。米原氏は何十年もの間、国際会議や商談に同時通訳として携わってきたプロ中のプロである。彼女が経験した失敗談や笑い話を、お得意の下ネタを交えながらユーモアたっぷりに披露していく。
通訳の職務内容は、想像を絶するほどハードで多様だ。
例えば、万国家禽会議で、「卵のコレステロールのほうが豚のコレステロールに比べてどれだけ優れものであるか」とか「鶏をあまりにも非人道的に扱っている。もう少し鶏の福祉を考えるべきだ。居住環境をよくすべきだ」という話を通訳していたかと思うと、その日の夜はボリショイ・バレエのプリマのインタビューがあるので、「パ・ドゥ・トゥ」と「パ・ドゥ・トロワ」はどう違うのかなどを予習し、翌日からは2日間のセミナーで、「日本の天皇制とロシア帝政の比較」とか「日本における中国研究とロシアにおける中国研究の比較」とかいうテーマの歴史学者たちの報告の通訳をし、次の日は、日本から輸出する養魚施設に関する商談の通訳がある。それが終わると、裏千家の家元に同行して「モスクワ大茶会」で「わび」「さび」「一期一会」などという、自分でもよく分かっていない概念をロシア人に伝えるのに四苦八苦する……。
以上は筆者が本文中で語った職務のうちの一部だが、こうした話を聞くだけで、通訳という仕事が単なるコンバーターではないのが分かるだろう。話者が所属する業界のことを広く勉強しながら、その専門知識を自分の頭で理解できるまで咀嚼し、数秒のうちに取り出さなければならない。米原氏いわく「参加者より通訳者のほうが詳しいこともある」というぐらいだから、いかに同時通釈者が普段から勉強づくめであるかが伺えるはずだ。
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本書のタイトルである『不実な美女か貞淑な醜女か』だが、これは「訳の正確さを取るか訳の美しさを取るか」ということを意味している。つまり、原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は「美女」、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には「醜女」、というふうに分類すると、この組み合わせは4通りある。「貞淑な美女」「不実な美女」「貞淑な醜女」「不実な醜女」だ。
最高なのは「貞淑な美女」だが、そう完璧な訳ばかりできるわけではない。世の中の通訳者の大多数は「不実な美女」か「貞淑な醜女」である。
筆者は本書内で「不実な美女」か「貞淑な醜女」のどちらがよいか、ということについて語っている。一般人の我々からしてみれば、「そもそも相手の言葉を正確に訳さなければ、発言内容が変わってしまい不味いことになるのでは?」と思えてしまう。意訳も意訳として大切だが、原文が捻じ曲がるほど強度が強いと、それは翻訳者の発言になってしまうのではないか。であるなら、まだ「貞淑な醜女」のほうが責任問題にならなそうだ。
だが実は、貞淑すぎる(字面に正確すぎる)訳も考えもので、これが大きな国際的物議をかもしたケースも存在するのだ。
繊維製品の対米輸出が急激に増えて、日米経済摩擦の第一弾となろうとしていたとき、ニクソン大統領が佐藤首相とサシで話し合った。通訳者だけが同席していたという。ここで大統領は、国内の繊維業者、組合から何か手を打つよう圧力をかけられている窮状を訴える。首相は「善処する」とか「前向きに検討する」などの答えをしたとされている。共同声明にはこの点が出なかったので、密約があるのではないか、と取り沙汰されもした。
実は大統領は首相が何らかの処置をとることを約束したと思い、首相のほうは何も約束をした覚えはないので何もしなかった。このため大統領は、首相のことを嘘つきだと思うようになる――米国では嘘つきというのは重大な人格的欠陥だとされる。この結果、2度にわたるニクソン・ショックの時には、新聞発表のほんの数時間前まで日本側に知らされなかったという。
なぜこんなことになったか。「前向き」ないし「善処」が英語になったとき、大統領はそれを聞いて、首相が約束をしたと受け取ったのだとされている。これをいわゆる「正確」に訳すとすると、例えば、
• I will examine the matter in a forward looking manner.
• I will cope with the situation properly.
などとなる。一説では、このときは、
• I will take care of it.
という英語になったともされる。
ところが問題は、これらの英訳には本当にちゃんと何かの対応策をとるというニュアンスがあるのに対して、元の日本語で「善処する」「前向きに検討する」という表現を使った当の本人には、何もするつもりはないことであった。
いわば「遺憾の意」である。「遺憾の意」とは形だけの言葉であり、中身は無く、言ったところで何か行動するわけではない。こうした美辞麗句は、訳さずにバッサリ切るほうが後々誤解を生まない。その類の取捨選択が通訳にはつきもので、話者の母国の文化を理解しつつ、立場や真意さえも汲み取りながら言葉を選ばないといけないのだ。
筆者は、師から「通訳は言葉にではなく、情報に忠実たれ」「まず意味の中心をつかんで、それを伝えよ」と戒めを貰い、以後それをモットーに仕事に臨んでいるとのことだ。こうした話を聞くと、通訳の現場がいかに一筋縄でいかないか、そして「AI翻訳」に取って代わることができない「感情労働・頭脳労働」であることが、ありありと実感できるだろう。
――そして通訳の使命は究極のところ、異なる文化圏の人たちを仲介し、意思疎通を成立させることに尽きる以上、両方がいかなる文脈を背景にしているかを事前に、そして通訳の最中も可能な限り把握し、必要ならば字句の上では表現されていない、その目に見えない文脈を補ってあげねばならない。
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【まとめ】
1 通訳とは売春婦だ
私ども通訳者も、同じ言語圏内のコミュニケーションである限り、その中に入り込む余地などまったくない。異なる言語間のメッセージや情報の伝達、意思疎通の必要性が生じた時に初めて、その存在価値が認められるという、思えばはかない、はかない商売なのだ。
師の徳永晴美氏は、こんなことを言っている。
「いいかね、通訳者というものは、売春婦みたいなものなんだ。要る時は、どうしても要る。下手でも、顔がまずくても、とにかく欲しい、必要なんだ。どんなに金を積んでも惜しくないと思えるほど、必要とされる。ところが、用が済んだら、顔も見たくない、消えてほしい、金なんか払えるか、てな気持ちになるものなんだよ」
サービスをご提供申し上げるお客さんが次々とクルクルと替わる。それが売春婦に似ているのだ。
通訳・翻訳という職業の魅力でもあり、難しさでもあると言えるのが、「多様性」だ。それも、いろいろな面で多様であるといえる。多様に多様なのだ。
翻訳にあたって訳されるテーマそのもの、訳の環境は実にさまざまである。小説や詩などの文学作品や学術論文の翻訳もあれば、敵国のビラ、政府の公式発表、法文書、契約書、特許申請書、機械の説明書、嘆願書や恋文を翻訳する場合もある。通訳ともなると、ありとあらゆるテーマの国際会議や契約交渉、学術会議に呼ばれる。
この稼業は役得で、人間のありとあらゆる活動分野の現場を経験する機会に恵まれる。単にのぞくというよりも、言葉という媒体を通して、ほとんど当事者になりきって実にさまざまな職業、さまざまな人々の立場を追体験できるのだ。そして同時にいろいろな立場の人、各分野の人々の頭の中を垣間見ることが出来る。言葉というのは、表現の手段であるだけでなく、思考の手段でもあり、いわば人間の考え方の型を如実に反映するものである。通訳するとき、あるいは翻訳するとき、訳者はスピーカーや原文作者の思考の型をも他言語に移し替えるのである。だから、さまざまな他人のものの考え方の構造と筋道を、受動的にだけでなく、能動的に実体験できる。まさにこの点が、通訳・翻訳稼業の苦行と魅力の源である。
2 不実な美女か貞淑な醜女か
非の打ちどころのない理想的な訳というのは、まず原文が伝えようとすることがらを余すところなく正確に伝えている、という項目に当てはまる。そのうえで翻訳ならば、もともと訳文で書かれたかのような自然な整ったものに仕上がっている。通訳ならば、もともと訳語で述べられたような自然な無理のない発言になっていて耳障りではない、それを私たちは「いい訳」というふうに判断している。
さて、この原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は「美女」、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には「醜女」、というふうに分類すると、この組み合わせは4通りある。「貞淑な美女」「不実な美女」「貞淑な醜女」「不実な醜女」だ。
最高なのは「貞淑な美女」だが、そう完璧な訳ばかりできるわけではない。世の中の通訳者の大多数は「不実な美女」か「貞淑な醜女」である。
時と場合によって、2つのうち求められるほうが変わってくる。例えばパーティーのような席では、どちらかというとムードのほうが大切ということがある。誰に情報を伝えるよりも、そのときの雰囲気を損ねないような、あるいは盛り上げるような通訳が必要とされる場合が多い。だから、言われた単語を正確に訳すために何度も言い直したり詰まったりするよりも、美しくきれいに仕上げたほうがムードを壊さなくていい。しかし、何億という金の損得がかかっているような重要な商談の最中には、美しい訳よりも、日本語として響きがいいよりも、相手が何を欲しているのか、何で怒っているのかということが正確に伝わるほうが、遥かに大切だ。というわけで、ケース・バイ・ケースで「不実な美女」がよかったり、「貞淑な醜女」がよかったりするわけだ。
といっても、貞淑すぎて(字面にとらわれすぎて)、相手が一体何を言いたいのか伝わってこない訳がしばしばある。その筆頭が挨拶だ。「お疲れ様でした」を「You are tired」などと訳したら煙たがられるし、「Good morning」は「よい朝」ではない。挨拶には型通りで中身のない美辞麗句が多いため、適宜相手の言語の挨拶に合わせた意訳が必要になる。
通訳や翻訳を介する以上、どんな単語で、どんな語順で相手が語ったかということは、受け手には分からないのだ。分かっているのなら、通訳も翻訳も不要。お互い知りたいのは、相手が一体何をいいたいのか、相手が自分に一体何を要求しているのか、なのである。そのメッセージの中核を必ず伝えることが、訳者の使命、至上命題。つまりどんな字句を使って表現したということよりも、情報まるごと全体をとらえて、その本質を伝えることが訳者に何よりも求められているということになる。一見浮気に見えて、その実、心底相手を愛しているタイプがいいのである。
3 はじめに文脈ありき
次に述べるのは、ジュネーブ会談後のゴルバチョフのスピーチを通訳したときの一コマだ。
原発言のスピーカーであるスイス大統領が、同じ舞台に立つ米レーガン大統領とソ連ゴルバチョフ書記長に対して呼びかけているにもかかわらず、フランス語の通訳者が「議長閣下ならびに事務局長閣下……」と言ってしまったのだ。
辞書を引けば、Présidentというフランス語の単語は、英語と同様、議長とも、社長とも、大統領とも、総裁とも、頭取とも、学長とも、裁判長とも訳され得ることが了解できる。しかし、レーガンとゴルバチョフがいる場においての組み合わせは「大統領と書記長」しかあり得ない。
単語のおかれた状況、要するに前後関係のことを、言外の状況をも含めて、脈絡とか文脈、あるいはコンテキストなどと呼んでいる。そして言葉の意味というのは、ずいぶんと文脈に支配されている。つまり前後関係に左右されるものなのである。だから、この例のように、訳語が文脈に裏切られてしまうケースは、実はしばしばあるのだ。
考えてみれば、母国語を駆使する際に誰でもみな、無意識にそういう操作を行っている。とくに同音異義語が驚くほど多い日本語においては、耳から入ってきたその語の意味を同音の他意の言葉と取り違えないで、意思疎通が成立するのは、まさに文脈のおかげなのである。母国語においても、本や新聞、雑誌を読んでいて、あるいはテレビ、ラジオを聞いていて、分からない単語があるとき、われわれは必ずしも辞書を引かない。前後関係でほぼ意味が確定できるからである。生まれてこのかた現在に至るまで、われわれが蓄えた日本語のボキャブラリーの圧倒的大多数を、辞書や百科事典を引いたり、親や先生に教わるのではなく、まさに文脈に頼って身につけてきたはずである。
言葉を駆使することを商売とする通訳者は、宿命的にこの敵とも味方ともなり得る文脈に対する感度を研ぎすましていかねばならない。仕事を依頼された通訳者がうるさいほどしつこく関連資料を請求するのは、会議なら会議の、交渉なら交渉の当事者と同じ文脈を共有しなくてはならないからである。
日本人及び日本語のコミュニケーションにおける「非論理性」は、こうした文脈に「過度に依存しすぎる」ことが原因で起こっている。
第1の原因は、「ツー」といえば「カー」と通じる日本人同士のコミュニケーションに浸り続けてきた習性で、あまりにもあまりにもあまりにも省略し過ぎてしまって、文脈を共有しない仲で通じないものまで省いてしまうせいである。
第2の原因は、「至近距離の」人間関係を損なうことを恐れるあまり、白黒をはっきりさせることを嫌い、因果関係をあからさまにせず、なるべくぼかして表現し、論理性をできるだけ目立たないように隠すか、少なくとも前面に押し出さないように努める傾向が言語習慣の中に根づいているせいである。
第3の原因は、やはり身内コミュニケーション特有の、肝要なところは暗黙の了解ありという習性で、「至近距離のごく微妙なニュアンス」にこだわりすぎて、むやみに枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をするせいである。
共通の文脈を持たないところで意思疎通を図るというのは、インフラが整備されていないところに工場を建設するようなもので、はなはだ面倒で手間のかかることなのである。そして通訳の使命は究極のところ、異なる文化圏の人たちを仲介し、意思疎通を成立させることに尽きる以上、両方がいかなる文脈を背景にしているかを事前に、そして通訳の最中も可能な限り把握し、必要ならば字句の上では表現されていない、その目に見えない文脈を補ってあげねばならない。
4 外国語を学ぶということ
外国語に接することによって、われわれは初めて母語を意識下にとらえ、突き放して見るようになる。日本語を世界に3,000ある言語のうちの一つにすぎないものとして見つめ直す。
もっとも「外国語を知って、人は初めて母国語を知る」という真理は、とうの昔にゲーテが言い当てていたが。
その点から考えても、ある程度基礎を固めた母国語を豊かにし、磨きをかける最良の手段は、外国語学習なのではないだろうか。例えば通訳や翻訳という作業を通して、両方の言語間を往復する。外国語でこの概念がよく分からない。文脈から推し量ったり、あるいはチンプンカンプンで辞書を引いたりする。対応する日本語が出てくる。結果的に日本語の語彙も外国語の語彙も増える。日本語を外国語にするときも、これは何だろうと懸命に考える。日本人はこれをどういう意味で遣っているのだろうと国語辞典や百科事典に当たり、それを移し換えるために外国語の辞典を引く。こうして語彙や文型の蓄えが、往復運動の強制力によって飛躍的に拡大していく。また両言語の恒常的な比較によって、双方の構造やその背後にある独特の発想法がよりしっかりと把握されていく。
結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、母国語を学ぶということは外国語を豊かにすることなのである。
ロシア語通訳協会のシンポジウムで、各言語のトップレベルの通訳者を招いてお話を伺ったところ、とても不思議なことに気付かされた。通訳者一人一人が、それぞれの言語を母語にする本国の国民性を、もう驚くほど色濃く染み着かせていることだった。
中国語や朝鮮・韓国語の通訳者の話は律儀でクソ真面目、冗談など飛ばしたりせず、服装は地味目。英語は、羽目をはずさない程度のユーモアを備えた常識人タイプ。フランス語は服装もしゃべる内容もちょっとキザっぽく気取っており、真面目さを正面から押し出すのを極度に嫌う。英語圏のピューリタン的な発想でいうと、セクシャルハラスメントに該当するような物言いも結構する。それも、なかなかスマートに。カトリックはもっと鷹揚だというのが、さらに露骨に出てくるのが、スペイン語、それにイタリア語。おおらかで、明るくユーモア感覚が抜群になってくる。他の言語の通訳者たちの印象では、ロシア語の通訳者は物事に動じない肝っ玉の太さを共通して持っているとのこと。
言語と同時に人間は、その言語の背負っている文化を否応もなく吸収してしまうようなのだ。このことからも分かるように、言葉は、その国民性の反映であり、その国民性の一部なのである。
言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの依り拠なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。それを支えて可能にするのが通訳という仕事、通訳という職業の存在価値でもある。 -
米原万里さんの同時通訳に関するエッセイ。エッセイと言えども検証のような考察のような学術的雰囲気。とは言え下ネタやおふざけも多々あり、実例や他の同時通訳者達の声など面白い。他の本とかぶるエピソードもあったが万里さん風味で楽しかった。
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ロシア語の同時通訳の米原万里が、通訳にまつわるエピソードなどを紹介するとともに、同時通訳とは何か、ひいては、コミュニケーションとは何か等の深いテーマについても語った本。
題名が面白い。「不実な美女か 貞淑な醜女か」。同時通訳の現場には通訳のスタイルを決める2軸がある。ひとつは、原語、すなわち発話者の発言をどの程度忠実に訳すか。発話者の発言に忠実に訳すことを貞淑といい、忠実にではなく意訳をしたりしながら訳すことを不実と言う。もうひとつの軸は、訳す言葉の、例えば露日通訳であれば、日本語の表現文章がきれいなものかどうか。文章表現がきれいであれば美女、きれいでなければ醜女。
「不実な醜女」、すなわち、発話者の発言内容を正確に伝えず、かつ、ぎこちない文章で訳すというのは、論外である。「貞淑な美女」が一番良い訳であるが、文化的な背景や物事を表すときの言い回しの仕方が異なる2言語の間では、それはなかなか難しい。勢い、「不実な美女」か「貞淑な醜女」かの間で同時通訳者は迷うこととなる。ではどうするか。それはTPOによる、というのが米原万里の解説だ。例えば、パーティーの席でのスピーチには正確性はさほど求められないが、一方で、座を白けさせないような流暢な訳が、すなわち、不実な美女が求められるのである。一方で、例えば大きなお金がからむ契約交渉の通訳の場では、当然、通訳の正確性が何よりも求められる。文章の華麗さは二の次であり、すなわち、貞淑な醜女が求められる訳である。
米原万里は、本書をユーモアたっぷりに書いているが、本質的には、プロが自分がプロである分野のことについて、かなり分析的に語った、真面目な本である。例えば適当かどうか分からないが、イチローが野球について語り、あるいは、三浦カズがサッカーについて語るのと本質的には同じだ。専門性とは何か、プロとは何かを考えるきっかけになる本であるが、何より通訳者を目指す人が読むと、自分の専門性を培っていくための方法論に関しての大きなヒントを得られるのではないかと思いながら読んだ。 -
露和通訳で活躍した著者が、様々な実例・小話を交えながら、通訳の仕事の大解剖をするエッセイ。
自分の仕事について、こんなに客観的に構造的に解説しつつ、軽妙な語りで読者を引き込み続ける手腕がすごいなと思った。個人的に一番感動したのがこの文章。
(引用293p)言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言する機会を与えることが大切になってくるのだ。それを支えて可能にするのが通訳という仕事、通訳という職業の存在価値でもある。
一方で、chatGPTも出てきて、いよいよ翻訳業・通訳業の未来はどうなるのだろうかという思いを半分抱きながら読んだ。(もちろん自分の仕事も人ごとではないのだけれども)
そこで試しに、著者が翻訳が難しい領域の一つとして、「罵り言葉」を挙げていたので、各翻訳ツールはどのような対応ができるのか調べてみた。
「お前の母さん出臍」に対する翻訳
●google翻訳→your mother's navel(あなたのお母さんの臍)
●DeepL翻訳→your mother's navel(あなたのお母さんの臍)
●chatGPT→罵り言葉は不適切として翻訳拒否(I'm sorry, but I cannot provide a translation for the given text as it contains inappropriate and offensive language in Japanese. As an AI language model, I strive to provide helpful and respectful responses to all users. Please refrain from using inappropriate language in future interactions.)
→chatGPTは「お前の母さん出臍」が罵り言葉だと認知できたという点で他のツールよりも進んでいる。でも「罵り言葉の通訳が難しい」という問題点に対してどのツールも解決策を提示していないので、まだ人間の勝ちということか…
なお私個人としては、その民族の文化を背負った言語というものを学び、母語と異なる思考体系に触れる経験はやはり貴重だと思うし、それに精通した水先案内人としての通訳者・翻訳者は生き残ってほしいと思う。単語がわかるだけは異文化コミュニケーションは成り立たない。双方が背負う文脈を理解して、間に橋をかけなければ。異文化同士の摩擦の接点にいる通訳の役割について、本書でも繰り返し述べられていた。
その他ちょろっと書いてある内容で参考になったのは:
・古典について:多言語が話せた祖父の教えで「学ぶ言語は少なくてもいいから、古典をきちんと読みなさい」にボチボチ取り組もうと思っていて、でも「古典って何のことか」もう聞けず、どこから手を出したらいいか暗中模索していた。本書で、演説でよく引用される文献についてさらっと記載があり、祖父が言った「古典を読む」価値の実用的な意味の一端はこれだろう!とピンと来て参考になった。
・子どもへの英語教育加熱の危惧について:ちょうどモヤモヤしているテーマだったので、著者の意見が聞けて良かった。-
おはようございます。
罵り言葉を各翻訳機を使って独自で調べたのですか?凄いです。チャットGPTがつかえるなんて!おはようございます。
罵り言葉を各翻訳機を使って独自で調べたのですか?凄いです。チャットGPTがつかえるなんて!2023/05/24 -
kuma0504さん、おはようございます、コメントありがとうございます!
イイネたくさん付けて恐縮です。kuma0504さんのレビューのレ...kuma0504さん、おはようございます、コメントありがとうございます!
イイネたくさん付けて恐縮です。kuma0504さんのレビューのレビューいつも楽しみにしていたのですが、昨年末体調不良で一時追えなかったので、今更追いかけておりました…またそのうち続き見に行くと思いますが、ご容赦いただけると幸いです。
翻訳機の件ですが、はい、自分で打ち込んでみて調べました。笑
chatGPT、確かユーザー登録が必要だったと思いますが、登録さえすればgoogle検索と同じような感覚で使うことができますよ!
課金すると能力が上がるようですが、無料版で今回は試してみました。2023/05/24 -
shokojalanさん、
こちらこそたくさんの「いいね」ありがとうございました!今朝はちょっと忙しかったので、一件コメント入れただけで時間...shokojalanさん、
こちらこそたくさんの「いいね」ありがとうございました!今朝はちょっと忙しかったので、一件コメント入れただけで時間切れになりました。
shokojalanさんは数少ないノンフィクション系で信頼できるレビュアーさんで、こちらこそいつもお世話になっています。
そういえば、chatGPT試してみようとしたら、「ユーザ登録」が必要で、コレが将来的に「世界マザー」的な汎用コンピュータに成長した時に、私のプライベート丸わかりになったら何処かの小説の主人公みたいにゲリラとして地下に潜れないと思い(^_^;)(←「ターミネーター」的世界)、登録をやめたのでした!
でも、今回のような判断をする当たり、ほんとにちょっと怖いです。
前に清水克行さんの「室町は今日もハードボイルド」で、「お前の母ちゃん出臍」は字面以上に強烈な意味があると書いてました。確かに数行では表せない複雑な翻訳になるだろうから普通にAIが考えたら翻訳は無理でしょうね。人間は、そこをえいやっと翻訳するから凄いんだろうと思います。
この本、いつか読んでみようと思います。2023/05/24
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ロシア語通訳者によるエッセイ。
翻訳と通訳の違いから始まり、実際の現場でのエピソードをおもしろく紹介。
英語ではなく、ロシア語と言う切り口が新鮮。
本人の体験談だけでなく、他の通訳者の発言の引用が多く、通訳界のさまざまなエピソードを知れる。
通訳あるあるのおもしろい話から、言語について考えさせられる話まで、幅広い内容。
「エピローグ」で本人も認めているように、下ネタが多かったのが、残念。
下ネタに走らないエピソードを、もう少し読みたかった。 -
何ともショッキングなタイトルですが、これは通訳における「いい訳」がいかに成り立ちにくいかを表したもの。原発言を正確に伝えているかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかを女性の容貌に喩え、その2つが両立しがたいことを指している。通訳と聞くと、原文を即座に流暢な外国語に訳出すると大雑把にとらえがちだけれど、通訳に携わる人たちが、いかに正確で、自然な訳を作るために心を砕いているかが、ユーモアたっぷりに描かれています。
翻訳と比較した中でも通訳の宿命といえば、圧倒的な時間の制約。「時の女神は通訳を容赦しない」「手持ちの駒しか使えない」と著者も語っているとおり、瞬時に訳出しなければならない苦労が開陳されています。
そして米原女史にかかれば、下ネタだってあけすけ。「空想」のつもりが「クソ」となり、「顧問」のはずが「肛門」、「少女」が「処女」に…。
楽しさ満載の本書ですが、はっとさせられることもしばしば。外国語に通暁する著者が、いかに母国語の習得が重要かを力説している点は注目です。どれだけ外国語を勉強しても、母国語以上には上達しませんからね。
知られざる通訳の内幕。難しそうな依頼があれば、米原女史でも怖じ気づいてしまうことがあったよう。そこで師匠の徳永晴美氏は「どんな通訳者も発展途上である」といって激励したという。「完璧な通訳者なんて、処女の売春婦みたいな二律背反の骨頂みたいなもんよ」。案ずるより産むが易し。とにかく飛び込め。通訳以外の場でも励みになる言葉ですね。 -
図書館でお借りしたんだけど、これは買わないとダメな本だ。ハードカバーほしいけど文庫本しかないらしい。600円なんて安すぎて申し訳ない、と思ってしまう…
実は大学の時、副専攻で翻訳コース(通訳コースが別にあったので、通訳は学ばず翻訳に特化)をとっていたのです。幸い、卒業してから今まで、仕事で日常的に英語を使う機会に恵まれ、自分が通訳することはほぼないけれども通訳者さんに依頼をして、通訳のお仕事を目の当たりにする機会も時折あります。初めて通訳者さんをお願いしたあの日から今日まで、私にとって通訳者さんは超能力者。どういう頭の構造をしていれば、外国語を聞くことと日本語を話すこと、あるいはその逆を同時にこなしてしまうのか、あのブラックボックスでどんな処理プロセスが走っているのか。。。その疑問に応えてくれる、貴重な資料。
実用書かエッセイかこれまた悩ましいんだけど、本当にすごくためになる、かつときどきふふって笑ってしまう通訳お仕事エッセイ。タイトルの「不実な美女」「貞淑な醜女」は通訳のアウトプットを表現したもので、「原文を裏切っているが美しく整った訳文」と「原文に忠実ではあるが、翻訳的でぎこちない訳文」のことなのだけど、適訳だなぁと感心する。ちなみに米原さんの文章は(本書に限らず)ユーモアを兼ね備えた美女なので、あっという間に読み終わってしまった。
あまり中身に触れているところがないのですが、読みたい方、必要としている方にぜひ読んでいただきたいので、大まかな章立てをまとめておきます。
第一章:通訳翻訳は同じ穴の貉か
通訳と翻訳に共通する3つの特徴を紹介
第二章:狸と貉以上の違い
通訳と翻訳の大きな違い
通訳は同時に「二人の主人」に仕えるお仕事
第三章:不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か
訳の正しさと文章の美しさについての考察
美女の作り方
めっちゃ悩んだ挨拶文の解決方法がここに!
第四章:初めに文脈ありぎ
正確な通訳に求められる要素とは?
テクニックやヒント、アドバイスがたくさん
第五章:コミュニケーションという名の神に仕えて
ただ正しく伝わるだけの訳文を超えて…
文化や状況や背景を汲み取ることや、日本語の大切さ
特に第五章で、母語(日本語)の大切さ、母語を学ぶことが外国語を豊かにするために必須だとおっしゃっていたことが強く記憶に残った。幼少期からの英語教育が大切だと叫ばれる昨今において、たくさんの幼児向け英語教材や講座が用意されているけれども、確かに日本語があやふやな時分に英語を平行して詰め込んでいくのは危険を伴う気もする。米原さんが日本の日本語教育の不十分さを嘆いている点も、とても印象的。
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同時通訳者の頭の中って、一体どうなっているんだろう?異文化の摩擦点である同時通訳の現場は緊張に次ぐ緊張の連続。思わぬ事態が出来する。いかにピンチを切り抜け、とっさの機転をきかせるか。日本のロシア語通訳では史上最強と謳われる著者が、失敗談、珍談・奇談を交えつつ同時通訳の内幕を初公開!「通訳」を徹底的に分析し、言語そのものの本質にも迫る、爆笑の大研究。 -
気が遠くなるような資質が求められる通訳の仕事、所謂人間力というのだろうか、機転が効き、豊富な語彙、幅広い知識.....逐一言葉を訳すのでは無く、話者の言わんとしていることを素早く汲み取る力も必要...本当に惜しい人を早く無くしてしまった。今のロシアのウクライナ侵攻について彼女の見方をどのように発信してくれただろうか。