不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101465210

感想・レビュー・書評

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  • 著者が15年にわたって行なってきたロシア語を通訳するということに関してのエッセイ。
    ロシア語だけでなく同時通訳というものに関する悲喜こもごもが詰まっていてお仕事大変だなあというのが分かる。
    そしてコミュニケーションの難しさとおもしろさに関して書かれている。
    タイトルの元ネタはフランス語で美しいが原文に忠実でない翻訳とぶっちゃけ微妙だが原文に忠実な翻訳という意味、らしい。

  •  初めてこの書名を目にした時は、何の事であらうかと思ひましたが、著者がロシヤ語の同時通訳者と知り、「ああ、なるほど」と得心したのであります。元元通訳翻訳を女性に例へる格言(?)のやうなものは昔からあり、実践者は皆「貞淑な美女」といふ二律背反を目指しながら、現実には「不実な美女」と「貞淑な醜女」の狭間で呻吟してゐるのでせう。
     ところで、書名の中の「醜女」は「ブス」と読ませるやうですが、現在では(特に男は)中中口に出来ない単語となつてをります。

     わたくしなどは日本語で話す事さへ苦手なのに、同時通訳者といふのは本当に同じ種類の人間なのだらうかと訝る気分があります。本書ではそんな通訳者の苦労話がユウモラスに語られます。やはり失敗談が面白い。
     翻訳者は原書を前に、腕を組んで考へたり調べたり、人に訊いたりする余裕がありますが(無論翻訳なりの難しさはあるでせうが)、通訳者は孤独であります。沈黙は許されません。

     専門用語がポンポン飛び出す会議や商談などに呼ばれる場面が多いさうで、仮に日本語の訳語が分かつても、その概念を理解してゐなければ相手に伝へられません。故にその都度、事前に猛勉強せねばならぬといふことです。
     原発言を通訳者を通じて対話者に伝へるプロセスを記号化・視覚化すると、どうしても機械翻訳では対応できぬブラックボックスがあるとか。ここに人間の通訳が失業しない理由があるのですね。しかし最近はAIによる翻訳がその部分にもかなり切り込んでゐるさうです。

     苦労話や愉快な失敗談が多く披露されて親しみも湧きますが、やはりそれ以上に「ああ、自分のやうな凡人とは次元の違ふ世界だな」と驚嘆する舞台裏だなと感じた次第であります。単に読物としても痛快なる一冊と申せませう。

  • 面白すぎる、止まらない

  • 2009/9/7 予約 9/12 受取

    URLは http://homepage1.nifty.com/maedata/issatu.htm 『お勧めの一冊 : 前田真彦 エンジョイ@韓国語』 :  で見つけた!
    おもしろくないので、途中でやめて 返却
    タイトルで、目を惹こうとしたようだが、内容はつまらない。



    内容 :
    外国人が発する呪文のような言葉をたちどころに日本語に訳してしまう同時通訳。
    教養と実力が要求されるこの業界に身を置く著者が、現場の爆笑譚から苦労話までを軽妙な口調で語る。

    著者 :
    1950年東京都生まれ。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。
    文化学院教員を経て現在は日露同時通訳者、翻訳者、ロシア語通訳協会事務局長。
    92年日本女性放送者懇談会賞受賞。

  • 逐次通訳と同時通訳では求められるものが違うが、通訳と翻訳の差よりははるかに近しい関係だと思っている。通訳を生業とするときの自分の向かっている方向、取り組むスタンスは決して明後日の方向を向いているものではないのだろうな、とちょっと安心することができた。
    読み物として、かなり面白く、興味深いエッセイだと思います。

  • 「役得で、人間のありとあらゆる活動分野の現場を経験する機会に恵まれる。単にのぞくというよりも、言葉という媒体を通して、ほとんど当事者になりきって実にさまざまな職業、さまざまな人々の立場を追体験できるのだ。その意味では、古今東西多種多様な人間の営みを、演ずるという行為を通して、追体験する俳優に似てなくもない。しかし、俳優のそれはあくまでも虚構の世界でのことであるのに対して、通訳が相手にするのは、常に生きた現実の世界なのである。
    そして同時にいろいろな立場の人、各分野の人々の頭の中を垣間見ることが出来る。言葉というのは、表現の手段であるだけでなく、思考の手段でもあり、いわば人間の考え方の型を如実に反映するものである。通訳するとき、あるいは翻訳するとき、訳者はスピーカーや原文作者の思考の型をも他の言語に移し替えるのである。だから、さまざまな他人のものの考え方の構造と筋道を、受動的にだけでなく、能動的に実体験できる。まさにこの点が、通訳・翻訳稼業の苦行と魅力の源である。醍醐味である。少なくとも飽きと退屈だけには無縁な商売であると断言しても許されるのではないだろうか。」

    「消極語彙、積極語彙という概念をご存じだろうか。語彙に限らず、知識は一般にパッシブなレベルで身についているものと、アクチブなレベルにまで達したものと、大きく二つに分けることができる。そしてどんなに逆立ちしてみたところで、積極的知識が、消極的知識を上回ることはない。読めば分かるけれども、書こうと思うと書けない漢字は山ほどある。森鴎外の文章を読んで、感動するほどまでにそれを理解できても、では森鴎外並みの文章を書いてみろ、と言われて、果たせる人はそういるものではない。
    要するに、消極的な知識とは、他人が話したり、書いたりしたものを理解できる、受け身の知識や語彙を意味し、積極的知識とは、自ら話したり書いたりする際に能動的に使える語彙や知識を指す。
    話し手が述べたことを理解するのには、消極的な知識で十分。ところがそれを別な言語に転換して伝えようとするとき、表現の手段である語彙も知識も技術も自家薬籠中のものでなくては、使いこなせない。通訳は、両方の言語の間を絶え間なく往復するため、その両方の言語で消極語彙と積極語彙の差を縮めていかざるを得ないのだ。
    外国の文献を常日頃スラスラと読みこなしておられる大学教授が、その得意なはずの外国語で発言しようとすると、学識と知能レベルにふさわしい的確な表現が出来ずに、ご自分も周囲もイライラしてしまうなんてことがよくあるのは、まさに積極的知識と消極的知識の格差のせいである。
    あるとき、わが師匠の徳永晴美氏が、
    「他人の通訳を聞いて、『コイツ、なんて下手なんだ』と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じくらいだろう。『ああ、この程度の通訳なら、私だって出来る』という感触を持ったなら、その人は、君より遥かに上手いはずだからね」
    と述べたのは、別に「自分に厳しく、他人にやさしく」という人の道を説いたわけではない。他人の通訳を聞くときは、消極的知識を動員すれば事足りるのに、自分でプレゼンテーションするときは、積極的知識で当たらねばならず、消極的知識は積極的知識を常に量的に凌駕するものである以上、客観的に当然の真理なのである。」

  • 2017年10月19日-->高橋

  • 20年近く前に買って読んだが、2006年に内容について読者からの指摘があり、それについての返信が絶筆だったという顛末とそのやりとりが巻末に文庫編集部名で追記されている(「文藝別冊 米原万里」に載ったブックガイドで知る)、ということで買い直し、ついでに読み直し。

  • 1998年刊。露語通訳として著名だった著者(過去形が辛い)による、通訳とは何ぞや、を論じたエッセイ。著者らしいシニカルな目線・指摘にゾクゾク。その中、通訳行為のブラックボックスに関する説明が秀逸。通訳行為には、置換すべき言語がなくどうにもならない時と、置換すべき言語がなくても、その背景・イメージから別の語彙を探索し、表現できる場合があるらしい。ある言語や概念が、その言葉が生まれ初めて成立する面と、言葉なしで当該概念が生成される面があるのを言い当てる。言語や言語を操る人間の脳の深遠さを感じずにはいられない。

  • 2015/3/20読了。通訳とはなんぞやと知るために読んだ。何度も読み返すであろう本

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。作家。在プラハ・ソビエト学校で学ぶ。東京外国語大学卒、東京大学大学院露語露文学専攻修士課程修了。ロシア語会議通訳、ロシア語通訳協会会長として活躍。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)ほか著書多数。2006年5月、逝去。

「2016年 『米原万里ベストエッセイII』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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