- Amazon.co.jp ・本 (434ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102035023
感想・レビュー・書評
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「なんじらはいかに思える。この日ありしによって ―― 、われははじめて、わが全生涯を生きたるを悦ぶ。
…『かくの如きが ―― 人生であったか?』とわれは死にむかって言おう、
『いざ!いま一度!』」(p.404)
ニーチェって
コミュニケーションがすごい苦手だったらしいけど
本当はすごく人間が好きだったんじゃないのかなぁ。
人が嫌いだったら
こんなこと書けなかったと思うよ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
まとめると
・超人たれ、と。一度「没落」して、超人たれ、と。
・「!」をここまで多用する人文書は読んだことが無い。アツい。
・永劫回帰の思想はちょっと興味深い。
・以前に読んだ本(佐々木中氏?)の中で、「読むとはそもそも苦しくて、しんどいこと」、みたいな話題があったけど、まさにそういうことかもしれない。
・『自省録』(マルクス・アウレリウス)に近しいテイストを感じた。
…ということでちょっと他のニーチェの著作を知らないので何とも言えませんが、とにかくこの本では「ツァラトストラ」は本当によく語っていました。 -
■小さくする美徳
つつましやかに,ひとつの小さな幸福を抱きしめる.それを彼らは信仰に「帰依する!」と呼ぶ.そうしながら,彼らは早くも,こっそり他の小さな幸福を盗み見る.
結局彼らがひたすら望んでいることは,ひとつである.誰からも苦痛を与えられないということだ.そこで先回りして,誰にも親切を尽くすというわけだ.
これは臆病というものだ.例え「美徳」と呼ばれようと.
彼らにとって美徳とは,謙虚にさせるものだ.大人しく飼育するものだ.この美徳によって彼らは狼を犬に変えた.人間そのものまで,人間の最善の家畜に変えた.
ツァラトゥストラはこう言った(上)にも登場したが,信仰を免罪符にした安逸であり,苦痛を避けるための思考放棄であるとニーチェは指摘する.キリスト教自体に罪があるというよりは,キリスト教を都合よく解釈し濫用していることに問題があるのである.隣人愛の節にも述べたが,「隣人を自分のように愛せ」という教えは決してパッシブなものではなく,むしろダイナミックでポジティブ,自発的なものではないかと思う.自分自身を愛すというのは,ただ受動的でいることには成し遂げられない.自分自身に対しても,内なる声を聞き,自分と積極的に対話することによって,少なくとも,自分自身について考えるところから始まるのである.それは自ら自分へ働きかけるという自発性が必要なのではないか.そのようにして自分を愛すことができるのである.それを,誰からも苦痛を与えられないようにと,思考放棄を正当化するために用いるのは,自己都合による身勝手な解釈であり,「美徳」の皮を被った単なる臆病であるのだ.このようにニーチェは語りたかったのではないだろうか.
■重力の魔
私はいっさいの偶然をわたしの鍋で煮る.その偶然がよく煮えた時半わたしの食べ物として賞味する.
人間は容易に発見されない.ことに自分自身を発見するのは,最も困難だ.「精神」が「心」について嘘をつくことがしばしばある.
だが,つぎのように言うものは,自分自身を発見したものと言える.
「これは私の善だ.これは私の悪だ.」と.彼はこう言うことによって,「万人に共通する悪」などと言うモグラと小びとを沈黙させた.
何が出てきても美味しくいただく安易な満足,これは最高の趣味ではない!
先ほどの節で述べたことが,「自分自身を発見」というフレーズで,自分に働きかけることの必要性として述べられていることがわかる. 偶然を私の鍋で煮る.現実世界に起こることそれ自体は自分のコントロール下には置けないものの,その事象に対して,自分の認識,自分の価値観,自分の考えを持って咀嚼して飲み込むことが必要であるとニーチェは主張する.無批判的に受け入れ,盲目的にyesと唱えるのではいけない.善である,否,悪であるなどという価値判断には,事実判断→自分なりのロジック→価値判断というフローを辿る.すなわち,自分なりのロジック,咀嚼が必要になるのである.いきなり,事実判断から価値判断には結びつかないのである.重要な「自分なりのロジック」がキリスト教的市民道徳に奪われ,無思考的に価値判断に結びついてしまっていることに対してニーチェは憤る.これは私の善だ,これは私の悪だ.というように適切な価値判断を下せるようになるためには,ロジック構築能力が必要であると思われる.論理の飛躍なく,事実判断から価値判断へと繋ぐ論理思考力,1つずつ階段を上るように,安易に結論に飛びつくことのないように.
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なにか偉大なものなんだけど理解不能
解説書かなんか読みたい
なにかがあることは確かだと感じる -
(1968.04.02読了)( 1966.12.18購入)
内容紹介
第1部で神の死、第2部で権力への意志を説いてきたニーチェは、本巻においていよいよ“永劫回帰"の思想について語りはじめる。ルターのドイツ語訳聖書に対抗し、ドイツ語のゲーテ的水準を一歩踏み越えさせるという自負のもとに書かれ、全編が詩もしくは音楽的な律動感にあふれている。思想書としてだけではなく、魅惑的な哲学的叙事詩としてもドイツ文学第一級の作品である。 -
なんとか読み終わったという感じ。ニーチェが意識していた事の1%も意識できていない気がする。役者の言葉が私の肌に合わなかったと言えば合わなかったので、また別の役者を読んでみようと思う。
いつかは原文で読むぞ。 -
目次
第三部
さすらい人
幻影と謎
意に悖る幸福
日の出前
小ならしむる德
橄欖の山にて
通過
離反者
歸鄕
三つの惡
重壓の靈
新舊の表
快癒者
大いなる憧憬
後の舞の歌
七つの封印
第四部 最終篇
蜜の供物
危急の叫び
王たちとの會話
蛭
魔術師
罷職
極醜の人
みずから志せる乞食
影
正午
挨拶
晩餐
高人
憂鬱の歌
學問
砂漠の娘たちの間に
覺醒
驢馬祭
醉歌
兆
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下巻はまだ読んでません。
なかなか長いよツァラトストラ。 -
(続き)