- Amazon.co.jp ・本 (623ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102095065
感想・レビュー・書評
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大学四年生の夏休みに鬱々と重たい心を少しでも紛らわせようと手に取ったのがこの本だった。読み進め易いけれどなんだか今一つ物語の世界に引き込まれる決め手に欠けるなァと感じた記憶がある。
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なによりも圧倒的な文章力。躍動感と抑制の絶妙なバランス。何一つ無駄な箇所変更すべき箇所がない、完璧な文章。内容は実際に起こった殺人事件の取材を通じて書いたノンフィクション・ノベルだが、緻密な取材に基づく描写は詳細を極めており、有無を言わさず物語に引き込まれる。ノンフィクションを元にした小説という新しいジャンルを切り開いた古典的名作、という評価にも躊躇なく頷ける。罪のない一家全員が殺されたのは、殺人者のこれまで人生の尻拭いをするためだという仮定の残酷さ、無常観。また高村薫も同名の小説を出しているが、完全にカポーティへのオマージュであるということが分かった。もちろんそれが悪いことだというわけではなく、古典と呼ばれるほどの昔から、現代に至るまで通底する不変のテーマを扱っていることの証左であろう。
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初めから犯人が分かっている現実に起こった殺人事件は、フォーサイスの「ジャッカルの日」のような緊迫したミステリの体でもあり、犯人のペリーとヒコックが逮捕されてから法廷、実刑に至るまではキリスト教的思弁に基づき「カラマーゾフの兄弟」的であるけど、冷静な筆致はこの物語が現実に基づいている事から、優秀なルポルタージュなのだ。勿論小説家ととしてのカポーティの現実を埋める人間の業についての表現力あってこそ迫力のあるノンフィクションノベルとなった。決して古びないのは作者と訳者の佐々田雅子さんの力量の所以。
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書名は聞いたことがあってもよく分からず読んでみた。
ある事件のノンフィクションということだが、
文体はとても小説的でとてもよく練り上げられている。
具体的な叙述が多いのはそれだけ具体的な内容にあたっているからだが、
主観的であるような言葉が露わになるのはそれだけ
直接の聞き取りを行ったからだろう。
事件のノンフィクションだと中立性や真実性を際立たせるために
警察の取調べ記録や法廷での裁判記録などを中央に据えることもあろうが
この本の場合はそういったものが存在する前に作られたような感じがする。
無害化される前のなるべく生に近い物語を作りたかったに違いない。
この物語には「何故」という視点はない。
しかし、それだけにただ悲しいだけの事件にも
気を惹きつけられるような挿話が多くある。
ただただ人生は、
そうでなければならなかったということはないだろうに
取り返しのつかない事が多すぎる。
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ラップ家はローマンカトリックだったが、クラッター家はメソジストだった。娘と少年がいつか結婚するという夢を抱いていたとしても、その事実だけで夢を断ち切るのに十分な理由になった。(p.21-22)
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アメリカはカンザス州、1959年。時代の風俗的なものもしっかりと描かれている。
農業がメインの穏やかな街での事件だった。
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彼女に対する態度を一貫させ、貴兄が弱い人間であるという彼女の印象に何かを付加するような真似はしないこと。それは、彼女の善意が必要だからではなく、このような書簡が今後もくると予想されるからであり、そして、それらの書簡は貴兄がすでに有している危険な反社会的本能を増幅させるばかりだからである。(p.267-268)
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これは事件を起こした犯人の姉からの手紙を紹介した上で、
それについての刑務所仲間からの批評をそのまま掲載している。
単にシニカルというよりも根が深くねじれたものを感じる。犯人に対してか、または著者に対してか。 -
15年ほどむかし、ぼくが広島に住んでいた頃、広島市内で小学校一年生の女の子が下校途中に殺害、遺棄されるといういたましい事件が起こった。女の子は性的暴行を受けた形跡も確認された。犯人(日系ペルー人)はほどなくして逮捕されたのだがその犯人が自供で、”悪魔が自分に入ってきてやった”などと言い訳しているというニュースを聞いてぼくは愕然とした。自分の性癖が昂じて極悪非道なことしておいてあろうことかそれが”悪魔”のせいだなんて、なんというすっとぼけた無責任野郎なんだろうかと気分が悪くなったのを覚えている。
『冷血』本編中に、犯罪心理学者(複数)の書いた『明白な動機なき殺人――人格解体の研究』という論文が引用されていて、そこを読んでいるうちに広島の事件を思い出したのだが、15年前にはでたらめな言い訳だと切り捨てていた例の”悪魔”というヤツ、その横顔をチラとでも垣間見られたような気がしたのだ。ここではその論文の抜粋を載せておくことにしよう。
・・・・・・「この男たち(四人の死刑囚)はすべて、暴力を振るった経験があるにもかかわらず、肉体的に劣り、虚弱で、未熟という自画像を描いていた。彼らの経験を見れば、それぞれが強度の性的抑圧を受けていることは明らかである。四人の誰にとっても、大人の女は恐ろしい生き物であり、二人の場合には明白な性的倒錯も見られた。また、誰もが、幼少時代を通じて、“意気地なし”とか、チビとか、病弱と思われているのを気にしていた……四人すべてに、暴力の激発と密に関連してであるが、意識変容状態を起こした形跡がある。二人には、激しい解離性トランスに似た状態に陥ったことを報告しているが、そういう状態の間に暴力的で異様な行動が見られたのである。一方、他の二人は、それほど激しくはなく、おそらく、それほどまとまりのない記憶喪失状態のような挿話を報告している。彼らは実際に暴力をふるっている間、あたかも、他人を眺めているかのように、自分自身から分離し、孤立していると感じることがしばしばあった……また、生い立ちを調べてみると、四人すべてが幼少時代に両親から過激な暴力を振るわれた経験を持っている……一人は『振り向くたびに鞭で打たれた』と述べている……別の一人は、行儀の“悪さ”をしつけるためと称して、また、吃音や“ひきつけ”を“なおす”ため、激しく殴打された……過激な暴力というのは、それが空想されたものであれ、現実に観察されたものであれ、こどもが実際に体験したものであれ、精神分析の一つの仮説に符合する。その仮説とは、子供がそれを克服する能力を身に着ける前に、圧倒的な刺激にさらされるのは、自我の形成における初期の欠陥や、衝動の抑制における後期の深刻な障害と密に関係する、というものである。この四人すべての事例で、幼少時代に深刻な愛情の欠乏があったという形跡が見られる。このような愛情の欠乏は、片親、または両親が、長期にわたり、または繰り返し不在である場合、あるいは、両親がわからないとか、他人の手で育てられた子供を、片親、または両親がまったく受け付けないというような混乱した家庭生活が送られる場合に、必然的に生じうるものである……情動に関する組織の障害の形跡が見られた。もっとも典型的には、彼らは過激な攻撃的行動に関連して怒りや憤りを経験しないという傾向を見せた。一人一人がとてつもない残酷な攻撃をなしうる可能性を秘めながら、殺人との関連で憤りの感情を報告したものはなく、強く深い怒りを経験した者もなかった……彼らの他人との関係は浅く冷たい性質のもので、それが彼らに孤独や隔絶といった資質を付与していた。彼らにとって他人は、暖かく感じるとか、肯定的に感じる(あるいは、腹を立てる)対象という意味では、ほとんど現実的な存在ではなかった……」
現実との接触が失われるのなら、なるほど人は何だってできるようになるだろう。なぜといってそこには感情、習慣、モラルなど、人の行動を規制するものなど一切ないのだから。そう考えると女児殺害の犯人が言ったのはあながちヘタな言い訳などではなく、”悪魔”とは”虚無”そのもののことではなかったのではないかとぼくは思いいたったのである。 -
実際の殺人事件に取材したカポーティ渾身の作品。犯罪者の心理描写としては、個人的には「カラマーゾフ」や「心臓を貫かれて」に並ぶほどのものではないかと思う。読むと消耗します。
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間違いありません。傑作です。
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一家四人惨殺事件を追ったノンフィクション。丹念な取材と淡々とした語り口のなかに、徐々に犯人への共感が混じっていく様が不気味でとてもおそろしく感じました。