- Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104262038
作品紹介・あらすじ
2035年から届いたメールがすべての始まりだった。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子脳計算機科学、35歳問題、ショッピングモール、幼い娘、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。
感想・レビュー・書評
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量子回路の実用化が、並行世界の存在を具現化してしまい、お互いの世界が干渉し始めてしまうお話。量子論の多世界解釈を元にした思考実験のような小説で、知的で面白かった。
また、冒頭において、wikipediaや3000はてなブックマークなど、日常利用しているサービスの記述が登場することで、作品のリアリティが増し、物語の世界にすんなり入り込めた。
村上春樹の作品に登場する「35歳問題」についての記述も、自分がもうすぐその年齢になるということもあるかもしれないが、激しく同意してしまった。本当にその通りだと思う。
後半はSFというより世界系っぽい展開になってしまったのがちょっと残念。前半の雰囲気が最後まで続いてほしかった。個人的なクライマックスは、第一部で赤毛の「量子脳計算機科学者」と名乗る女性が、ネットワークと並行世界の関係を説明するところ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
NOVAの新刊に「火星のプリンス」が載るというのを見て、急に東浩紀が目の前にちらつき出したので。
複数の並行世界が登場するが、いずれにおいてもネットは不確かな情報によって信頼性が等しく崩れ、情報社会が崩壊している。確かにネットにばらまかれた膨大な情報を人間は把握もできず制御もできない。未来像として説得力のあるものだ。
ネットワークで繋がれた計算機械が、多世界の存在を計算するというのはどうだろうか。それは別の宇宙についてのラプラスの魔(魔シンか…失笑)を許すことになる。いかに量子計算機が強力でもそれは不可能に思える。
計算される世界や意志は実存するのか?イーガンを読んだ時から思う疑問だが、答えは分からない。近い将来、現実がSFを追い越すだろうし、期待している。
登場人物たちは、あったかもしれない現実ifにみな囚われている。35歳を境にifがwasを凌駕するというのは恐ろしい。その憂鬱からは絶対に逃れられないと主人公は語るが、なんとか逃げ出さないと。ともかくifにたよることは最後には否定される。ifではなくwasのみが自分の過去なのだ。
少し説明的なことが気になった。要は並行世界とタイムトラベルを組み合わせているわけだから、説明なしでもう少しいけたのではないか。 -
テロと平行世界の量子家族。こむずかしい言葉がいっぱい出てくるけどエンタメ小説。大事なところは太字。第一部後半がワクワク感ある。
<主要登場人物>
葦船往人、友梨花、風子、理樹、汐子、渚、江頭新、寺田、田島
コンピューターの回路が古い回路から量子回路になったことで重ね合わされた別の現実の電子を計算資源として使うこととなり、別の現実(平行世界)の計算結果が出てくることとなる。人間の脳も複雑なリンクを張り巡らせた計算機みたいなものだから意識だけなら並行世界を行き来できるという設定。
フラッシュメモリは雨に濡れたり土に埋もれてたんじゃ使い物にならないんじゃないかなと思ったりもした。 -
家族ってなんだろう、わたしにとっての「行う《かもしれなかった》こと」ってなんだろう、という、誰もが一度は考えそうなことを題材に、うまいことSFミステリーとして書かれていると感じた。好き嫌いはありそうだけど、私はこれ、嫌いじゃない。
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読了。量子的に崩壊してしまった家族の軌跡を、時間の境目なく辿っていくうちに、自らの「世界の捉え方」が平衡感覚を失っていく。その実、ドメスティックな家族の描写がひとたび、便宜上の定義を失ってしまうと、それはスペースオペラのように陳腐でとりとめがない。
「世界の終わり」を定義し、並行世界の描写をある程度「手に取れる」かたちで持ってきている点、たしかに村上より評価できる。
今私の隣にあるパラレルワールドが数学上実証できたとしても、それが一体何の意味を成すのだろう?
とにかく色々、便宜上の定義をぐるりと回転させられる、面白い試みの本、と思った。 -
「ふたつの世界の葦船往人の人格を交換する」
SFを楽しみたいのに間にはさまれる露悪的なシーンの描写が今となっては刺激が強くてきついな。宮崎勤事件に始まる日本サブカルチャーの拗れとかゼロ年代批評で目にした「レ○プファンタジー」の概念、そして純文学の反復であるということなどが念頭に無いと読み進められなかったかも。面白いんだけどね。罪を抱えたままどこに着地するのか気になったし。結局着地する地なんてないのが量子的。それでも"家族"をつなぐのは、どこかにある・あったかも知れない幸福なお家に帰ろうという汐ちゃんの祈りでしょう。元々は往人の無意識の願いであったはず。夫婦関係の危機。ただそれだけの話が世界線まで超えてしまうという。
もしもの世界に逃げ込んだところで肉体を持つ限り世界の終わりには同化できない、別のハードボイルドワンダーランドが広がるのみ。ifの可能性をリアリティあるもの、それでいて考えても仕方のないものとして説得力をもって書かれていた。数式で表せない事象を文学的に証明された感じ。 -
偶々、性行為をし身篭った子が今の子供で、その行為が1日、いや、一瞬でもズレたならば、子供の性格や遺伝形質は完全に今と同一にはならないだろう。我々は偶然を生きている。作家東浩紀が、似たような事を発言する動画を見た事がある。この小説の源流に、その思想を垣間見る。
検索性同一性障害。時代を超えてリロードされる人格。SF仕立ての設定の中で、物語は進む。我々は言葉を検索し、検索結果を自らにインプットする。クォンタムとは、量子の意味。並行世界を生きる量子家族。並行世界を夢想する事は多く、その原理は読解できないが、読みながら巻き込まれる頭の混乱は、SFというよりももはや一種のアートだ。SFとして読むか、芸術として読むかは読み手次第だろうか。 -
並行世界で集い、また離れてはやり直そうとする、家族の話。
設定が面白かった。
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ベストSF2010年3位
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mmsn01-
【要約】
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【ノート】
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難解だが惹き込まれて読んだ。年代のずれた並行世界が複雑に絡み合う設定、検索性同一障害・・・SFなのに本当に近々現実になるような奇妙なリアリティがある。
P252「ひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけでなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなしとげられる〈かもしれなかった〉ことにも支えられている。」というのが着想の原点なのかもしれない。
著者の”一般意志2.0”も早く読まねばー
[more]<blockquote>P16 いまやもっとも重要な問題は、富の最半分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分といってもいい。そこでもっとも問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳の総量は、決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に落ちる。
P175 量子計算のアーキテクチャが世界を覆い、すべてのライフログが量子化されネットワークでつながれば、地下室人が地下室人のまま、地下室人にはならなかった時の生を生きることができる、あらゆる可能な人生の豊かさを仮想的に獲得することができる
P181 暴力の意味は、言葉にはまだ力があると人々に錯覚させる、その一瞬のスペクタクルの中にしか存在しない。言葉には力がない、意味すらない。
P190 文字は活字になることで生きる。分解され複製されることで生きる。もしも文字が分解され複製の道具になり、紙の上に定着することで初めて活きるのだとすれば、私たちもまた、肉体的な死を迎え、すべての量子計算が終わった時に、初めて本当の生を与えられるのかもしれません。物語として。あるいは方程式として。
P237 貫世界通信は別の人生を夢見るためにあってはならない。この人生を肯定するために使われなければならない。</blockquote> -
リアル書店でSFの棚に置いてあるのは正しいのだと悟った。
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東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」というとんでもない小説を読了した。
2035年の未来にいるという、覚えのない自分の娘から、ある日メールが届く。並行世界というパラレルワールドだ。
ちなみに一、二節
「私たちの量子脳もまた、並行世界からのボーア=ペンローズ干渉かがなければ意識を生成できません」
「・・・量子脳計算機科学は、並行世界が『実在する』ことと、複雑さの閾値を超えた量子ネットワークが、特定の並行世界が実在する『かのような』情報を生み出すことのあいだを区別しません。」
なんのこっちゃ。
あまりにも難しくて、笑ってしまう。
あったかもしれない人生、いたかもしれない家族が交差する。小説家で大学教員でテロリストだったかもしれないぼくと、童話作家でカルトの教祖であったりする妻と、いたかもしれない娘と、やはりいなかったりいたりする息子が往ったり来たりする。それぞれ、死んでしまったような、生きているような、小さいころの娘と大きくなった娘が同時にいて、後者が前者を可愛がったり・・・
おいおい、どうなってるんだ。
もう一度最初から読み返してみると、ほとんど最初に読んだ記憶がない。こんなこと書いてあったっけ・・・となる。
そうか理解せずに読んでいたのだ。そもそも理解できない部分が多い。
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ツイッターでの東浩紀自己紹介
東浩紀。1971年生。批評家/哲学者/小説家。東工大特任教授。経歴についてはwikipediaなど見てください。
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wikipediaより
東 浩紀(あずま ひろき、1971年5 月9日 - )は日本の批評家、哲学者、小説家、愛娘家。東京都三鷹市出身。博士(学術)。大学での専攻は現代思想、表象文化論、情報社会論。日本SF作家クラブ会員。日本推理作家協会会員。愛称はあずまん[16]。
妻は作家・詩人のほしおさなえで1児あり。義父は『探偵物語』の原案者で翻訳家の小鷹信光。
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ほお、小説の主人公にそっくりなプロフィールである。
とんでもない小説家だなあ。
浅田彰と仲いいんだ。そんな感じだなあ。
司馬遼太郎はなんて読みやすいんだろう。 -
地味で総花で既視塗れだが娯楽性高い
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セカイ系のSF小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を主眼に置き、量子論によって明らかになった異なる世界に存在する自分を飛び越えて旅する家族の物語。存在のあやふやさや望む未来がないときに、それを変えることが、本当に幸福かなど、タイムトラベルの悩みを書きつつ、幸せな家族は何かという汎用なテーマにも言及していく。所々、ミステリーチックでもある。量子論の小難しい解説もあるけど、楽しんで読めるのではないでしょうか。
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大掛かりな装置、大掛かりな演出でごてごてと華々しいけど、文学的な重みは芥川賞かすこしばかり軽い、という。一言で云えば、そういう本です。
別に文章も特にうまくないしな。最後の方なんぞ人間とも思えない長台詞、収集をつけようと説明の嵐。これはアレだえ、編集は誰も突っ込めなかったのか、「本職じゃないから仕方ないや」と思ったのか、もしくは「どっちにせよ売れるだろうからツッコむのよそう」と思ったか……。
でもなんで三島賞を受賞したか――というか三島賞をとった作品が思い浮かばないので、どの辺が三島的かといえば、強固で明確な観念で平行世界SFを描ききっているという点かしらん。よくできた世界観、よく出来た世界設定。そういった型といいますか、考えの模型についてはよく出来ていると思いますが、それによって語られるブンガクはあまりにも線が細い。
本作「新潮」に掲載されてたと思うのですが「新潮」の愛読者は結構冷ややかだったんじゃあないだろうかね。もっと云えば、東浩紀というネームバリューがなかったら、この作品、載ったろうか。載らなかったと思う。でも、あの東が小説を! っていうことで結構売れたんじゃないかね。それでよしとするのも商売です。売れたんでしょう。よかったんじゃないかしら。
と、そのくらい、苦労して読んでも見えてくる景色は面白いものではありません。目新しさがなんかあったかい、というと、別に、ない。何かあるだろうと思って険しい山道を登ってみたら、単なる峠でした、みたいなガッカリ感だけが残る。
普通の小説家よりも頭の整理の行き届いた書き手が、ややこしいことを整然とよく書き切ってはいるものの、小説としては「凡」です。
大学のセンセイが文学してみたらこうなりました、という。それ以上の意義は見つかんなかったなぁ。 -
読み進むに連れて、事態はどんどん複雑になっていく。複雑になればなるほど読む手が止まらなくなった。面白かった!
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つまるところこの物語は、このタイトルに集約されていくんだな。そう感じたのは、別に、名が体を表すだけの単純な物語だとか言うわけでは無く、テーマだけ教えられて行き先の知らない旅に出てみたら、あちらこちらで冒険活劇を演じた後きちんと出発点に戻ってきたような、そんな感じ。いや、そんな感じ、とまとめても、イマイチ伝わらない気もしますが。
ワシは、物理学は好きですが趣味で嗜む程度で、専門的な知識には疎いわけですが、そんなワシの理解する、すなわちテレビ番組や物語の中で表現される「量子的」であることを、とても上手に家庭ドラマと結びつけたな、と、まずはそのプロットの良さを感じます。
SF理論についても、一部首を傾げるところもありましたが、虚実の無い混じった「見てきたような法螺」がそれなりの説得力を持って語られていた感です。
そして、それらの舞台装置を前に語られる「人生とは何か」「家族とは何か」という、人間が社会的生物である以上幾億回と繰り返されたであろう問いに、ひとつの方向性を示唆しているのが何より面白かったです。ある意味で、落ち着け方としては無難かもしれませんが、舞台装置がそうは思わせない。その辺は、「小説の技巧」をきちんと考えた上で書いたのかな、とも思います。
ただし。良い意味でも悪い意味でも、文章の「技巧」が先行していて、ワシみたいなそれが気になる読書家には、純粋に「物語」に入り込んでいけない部分はあるかもしれません。まぁ全体感としては「面白」かったので、不満というほどでは無いのですが。 -
読み終わった、というよりも途中で挫折してしまった小説。
少し難解な設定で、且つ、あまり馴染みのない言葉などが出てきて
どうにも頭にあまり入ってこず、読むことを諦めてしまいました。
ただ、話の展開がどうなるのか???
結末はどうなるのか??? など
完全に興味を失ったわけではないので、
時を改めていつの日か再挑戦してみたいとは思っています。 -
東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」の第一印象は、藤子・F・不二雄的なSF(すこし不思議)をモチーフとしたサイバーパンクのように見えた。読み進めていくうちにいくつもの既視感を感じ、結局は同世代のオタクの感性を総動員したようなわかりやすいラノベスタイルに落ち着いたのだなと想像できる。
村上春樹やフィリップ・K・ディックをいたるところで引用しているが、ぼくとしては最後に読んだ東浩紀と大塚英志の対談本「リアルのゆくえ」で感情的に語られたことが非常に印象的で、だから検索性同一性障害なる病気が大塚英志の「多重人格探偵サイコ」に対抗しているようにしか感じなかった。
読了後とてもおしい作品だったと感じたのは、「批評から小説へ」というキャッチコピーの中で、しかしながら批評的なことは結果的になにひとつ語られなかったことだ。東浩紀は一貫してニートやオタクを擁護し、そこにこそ未来的なライフスタイルが隠されているようなことを主張している。だから、小説の中でそういったニートやオタクの未来的なライフスタイル像が語られるのかと期待したのだがそんなものはなかった。せっかくおもしろい物語の装置を用意した割には、オカルトめいた家族愛のファンタジーに終始したのは残念だ。だからぼくはとても惜しいと思うのである。 -
平行世界の存在が顕在化する世界で、今の人生と、もうひとつの可能性の人生を対峙させる物語。
自分が歩んだ道、自分が歩まなかったもう一つの可能性をもう一度見つめ直すことで、主人公が自分の人生を再構築させようとさせる。
が・・・・・。
主人公の生きている世界とパラレルワールドに住むもう一人の主人公が入れ替わったり、主人公が別の平行世界で他の男性の身体に入り込んだりと、かなりまどろっこしい内容。
こんなまどろっこしい話を書くのは村上春樹くらいなもの!
本作の著者である東浩紀氏は、村上春樹の大ファンなのだろう。
途中から村上春樹の引用や文体から村上春樹臭がぷんぷん。
初小説ということもあり、東浩紀のやりたいことが詰まった小説だが、この物語は自らの問いに応えているのかは疑問。
村上春樹的感じ・SF的感じ・家族ドラマ的感じと、雰囲気だけで体裁を保っている気がするなぁ。
今後に期待します。 -
あ、世界を構築していったんだな。という匂いがするのでちょっと興ざめ。構想メモが私の頭にも浮かんできちゃう。
平行世界の存在、私が今の私では無かったならというのは誰でも考えたことのあることでしょうけど、本当にそういう世界があるんだと突きつけられたら…どうなるだろうなあ。でも世界が知らないところで繁殖し増殖しているって、ありえることじゃない?なんて思ってどきどきしたりする。
『数学的にあり得ない』を思い出す。枝分かれした世界。そこにあるのに誰も気づかないモノ。 -
やっぱ、頭いい人は違うな~、小説も書けるのね、と素直に思う。SF。
ちなみに、読んでる途中は、時間軸の整理が必須。SFだし。 -
量子的な家族の物語。
並行世界ものなのでついていきにくいかも。
どこまでもSF。
スッキリはしない。 -
正直言えば、よくわからない作品だった。
コンピュータや思想に関する知識がまるでない私には、著者の説明がまるで理解不能だった。
そして文体信仰がある私には、体裁のよく取れた平坦な文章は魅力を感じ得なかった。
物語も何だかサブカル方面で良くありがちな感じだった。
それでも凄く感じたのは、そこら中に書かれていることではあるが、純文学とSFのハイブリッド、ということである。
東浩紀は好きだが、彼の書く小説は恐らく二度と読むことはないだろう、そんな決意をさせました。 -
量子力学的な感動。そこにはタイムマシンは不必要だ。