スーパー・カンヌ

  • 新潮社
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感想 : 3
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  • Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105414023

作品紹介・あらすじ

銃声が静寂を破り、ビジネス・エリートたちの超楽園に闇が、ゆっくりと、口を開く-現代文学の巨人が挑む人類の未来、ミステリの快楽。

感想・レビュー・書評

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  • 初バラード。山形浩生のバラード論。ぬるいお風呂に長く浸かっていると時々体も頭も冷まさないと湯あたりするもんね。ゲートシティはどうなんだろう?ラストが今ひとつで物語としては物足りないけれどテーマが興味深いので。

  • バラードを読んだ経験はほとんどない。しかもSF作家と目されていた時期の作品とは巡り合わなかった。全ての理系志向少年が潜在的SF好きであったような時代を過ごして来た世代としては珍しいのかも知れないが、自分はSF好きらしいSF好きではなかった。それがよかったのかも知れない。バラードのことをSFの裏切り者的に見る視点が自分にはないのだ。であるからこそ、バラードこの「スーパー・カンヌ」を読んで単純にこの作家に感心することができる。

    「スーパー・カンヌ」は翻訳で出版されたバラードの小説としては、再版された「コンクリート・アイランド」を除いて最も新しい作品だ(2002年出版)。バラードが1930年生まれで、56年にデビューして以来常に話題作を提供しつづけていることだけでも驚異的であるが、この「スーパー・カンヌ」で描いてみせている現代社会の病に対する筆の勢いを目にすると、一段とその思いは強くなる。例えば、この作品と同じような匂いが、ドン・デリーロの「コズモポリス」にもするけれど、二人の年齢差を考えてみると、バラードの脳細胞の柔らかさが実感されるように思う。

    管理された社会というものを人類はどこかで追い求めてきていることは間違いない。例えば、古代文明の都市に見られるように、人類は予測不可能の要素の代表である自然を必死に押え込もうと街を作り、人工物を代わりに並べて来たとも言えるだろう。養老孟司もどこかで書いていたけれど、徹底的に自然の要素を生活環境から排除してみて結局残ってしまったのが自分自身の身体だけとなった。だから、その予測不能な身体の行う最たるものである、死、を見えないところへ追いやろうとするのだという。バラードの描く「スーパー・カンヌ」は、まさにその徹底した自然の排除の結果残ってしまった身体、そしてそれを無意識の内に管理している、心、というものを描いていると見ていいだろう。

    フランス、カンヌに開発された人工都市、エデン=オランピア。そこは、労働環境を徹底的に効率化した世界だ。敷地内には豪華な居住空間があり、必要なものはなんでも揃っている。各オフィスにはエルゴノミックス的に最適な設計があり、故人専用の休息室も完備する。ここには世界中の重役達が集まっているのだ。その最先端の人工都市を運営する会社に雇われた小児科医が、ある日重役達を次々に殺害した挙句に自殺した。その小児科医の知り合いであったイギリス人女医が、翼をもがれた飛行気乗りの夫と伴に後任の小児科医として短期契約でエデン=オランピアに赴任する。しかし、そこには何か隠された陰謀があると考えた飛行気乗りの夫は独自に調査を開始する。

    そう書くと、ミステリー的要素が強調され過ぎると思うのだが、現代社会が抱える暗い部分を書いていてもエンターテイメント性を高く保っているところが、この作家の凄いところなのだと思う。事実、この作品を読み始めると文字を追いかける自分の目の動きの速さに酔ってしまいそうになるくらいだ。余りにスムーズに読めるのである。これじゃいかんと時々ブレーキを掛けるのだが、気付くともまたもの凄い速さで頁をめくっている。その位この「スーパー・カンヌ」にはぐいぐいと挽き込まれる。但し、ミステリーの結末は、この本の書き出しに既にスケッチ風に描かれており、やはりそうくるか、という感じはしたけれど。

    小道具として登場するものは目新しいようで、聞いたことがあるようないようなもので満ちている印象があるのだが、そういう外見にまとっているものを見て、これはSFだとかミステリーだとか決めつけてしまうと、バラードという作家は見誤るのかも知れない。単純に言ってしまえば舞台装置は代わったところで人間の本性はそうそう変わるものではないということを、この本を読みながら思い知らされる。その本質の負の部分を強調してみせれば、暗がりの中で密かに牙を剥いている凶暴性、というところに行き着くのだと思う。その部分を完全に押え込むとどうなるかというと、それこそまさに現代病とも言うべきうつ病やストレス性の精神障害という形で身体に響いてくることになる。心の中でもやもやしている内は、個人一人の問題であるが、身体に響いて回りのものに影響が及ぶと、社会的問題となる。そしてさらにそれが企業という利益を追求する組織の中にあっては、ゆゆしき問題となる訳だ。なぜなら、企業組織にあっては全ては管理可能、つまり計算可能なこととして進んでいるのに、そこに最もままならない身体の問題が持ち込まれてしまうからだ。

    ここまでは現代社会の一般的な記述である。ここから、どのようにストーリーを描くかが、作家の特徴を決定する。例えば、先にも揚げたデリーロの「コズモポリス」では徹底的にその病理の深層に向かって突っ走る一人の男を描き尽くす。エピソードは勝手にトリップし、男の意識は定まる時がない。そして必然的に、最終的に語られるものは、収束点である死、となる訳だ。そこには一切妥協もないし、読者に対する道標、さらに言えば小説を読んで得られるかもしれない光明のようなものも一切、ない。一方バラードはその探求の道筋をミステリー風に描きだし、セックス、ドラッグ、暴力、と読者のあらゆる興味を刺激する。刺激しながら、徐々に暴き出されるエデン=オランピアの負の部分。何もかもが暗示的で、ミステリー風の道筋がしっかりとある。そして収束点は、明示されてこそいないが、やはり死だ。そのまま、ああ面白かった、と本を閉じることもできる。しかし、その刺激されたものに反応している自分の何かが、まさに小説の中で語られる人間の本質の負の部分そのものであることに気付いて、軽い眩暈を覚えない訳にはいかない。単純に言えば、デリーロの語り口をなぞるときには、自分と切り離した世界として客観的な目線を保てるのに対し、このバラードの作品においては、全く架空の世界の話として読んでいるつもりで、うっかり自分がその世界に具現化してしまっていることに気付いた、というような足元のおぼつかなさが残るのだ。

    そこで最近読んだサン=テグジュペリの「人間の土地」のことが少し頭の隅をよぎる。この自らが抱える凶暴性、その本質の部分をしっかりと見据えないければ生きていけない社会がくることを、ハイテク時代の先がけであった飛行気乗りであるサン=テグジュペリは心得ていたのだな、と。バラードが空軍で訓練を受けた飛行気乗りであることは、単なる偶然ではないように思えて仕方がない。

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