- Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106035548
感想・レビュー・書評
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グローバリゼーションにより排除されたものや見えなくなったものが、どれだけ大きかったのかについて考えさせられる内容であった。
「科学的」「合理的」思考によって得られた「真理」により我々は何を信じ、何を排除したのか。一歩立ち止まって考える良い機会となった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
グローバルの対極にあるローカルなものとしての「里」。
その里というのは、村のことではなく、「過去の自然の営みがみえる場所、過去の人間たちの営みがみえる場所」「自分が還っていきたい場所、あるいは自分の存在の確かさがみつけられる場所」だと定義しています。
そして、そんな「里」を失ってしまいつつある現代へ警鐘をならしています。
現代文明がどういうものなのか、どうしてこうなってしまったのか、分かりやすく述べています。
お薦め。
http://glorytogod.blog136.fc2.com/blog-entry-1097.html -
先日、「むらの原理 都市の原理」という本を読んでいて、何となく思い出したこの放置本。 根っこにある問題意識は恐らくかなり似通ってはいるんだろうけれど、あちらは「むら」と「都市」を2項対立的に考察しているので、解り易くはあるものの、論点がどうしても画一的になりがちで、どちらの原理も少しずつ持っている社会についての考察までは踏み出せない一種の限界のようなものを感じました。 そのあたりを考察するためにはもう一歩踏み込んだ、もしくは俯瞰した視点の話を読みたいと感じたことにより手にした1冊です。
ああ、これだ!! KiKi が落ちこぼれながらも会計人として行き詰ってしまった、あの時期に感じたモヤモヤしたものが全てここに言語化されている!! これが KiKi のこの本の感想です。
(全文はブログにて) -
社会はすばらしき未来に向けて努力していくのが人間の生き方と標榜し、利益や効率を「神」の地位に高め、企業は市場経済を前提に活動し、人々は企業活動と対立しない精神習慣を作る。
かくしてシステムに人間が従属する構図となる。
根源的変化の時代にあって、変革は更なる普遍化・グローバル化ではなく、多元的認識、多元的世界像をローカルな視点から組み立てなおす事。そこを自己存在の確かさが見つけられる場所「里」と定義。 -
群馬県上野村に住んでいる実感から、現代社会を読み解く本。
自分自身が、粟島に来てから読んだので、頷ける部分多数。
気持ちの整理、頭の整理によかったです。
以下、メモ。
経済が発展したからこそ、私達はただの消費者になり、雇用されなければ生きていけない人間になった。
「里」とは、自分が還っていきたい場所、自分の存在の確かさを見つけられる場所
里には、人間が暮らしているからこそ、いっそう美しくなっていく風景があった。
「昔の人は、山にあるすべてのものを利用しきる知恵と技を持っていた。それと比べれば、いまのわれわれはお金がなけりゃどうにもならなくなっちゃったんだから、弱くなったものだ。」
現在の私達は問い直している。自然とは何なのだろうか、と。人間はなぜ生きているのだろう。豊かさとは何で、人間にとって仕事とは何なのだろう。
それらはどれも、知性の力だけでは答えの出せない問いばかりである。知性の奥にある感覚が、それを感じ取らなければ、決してわからない問いである。
ローカルな世界を無事な世界としてつくりあげることによって、いままでとは違う豊かさと自在な生き方を、新しくつくろうとする動き。
私が上野村を始めて訪れたころ、二十歳を超えた頃。滞在期間が長くなるにつれて、私は「何もできない自分」にあきれるようになっていた。
少しはいろいろなことができるようになってきたとき、私は自分がこの世界にいるということを、知識としてではなく、感じるようになっていた。
二十世紀の社会は、人間から存在するための技を喪失させていたのである。
毎週土曜日「語り部の夕べ」
村人やたまたま村に宿泊している人々を相手に、村の人たちが話したいことを話すと言う企画
「今はいい時代なんだろうと思う」
「何もかもがある時代になった」
「しかし、私は、もしもできるのなら、何もなかった時代に戻りたいと思う。あの頃は、人間のすばらしさを実感することができた」
私達は、了解のできる世界の中で生きて生きたいのだと思う。
人間は、自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じ取っていたからこそ、それと照らし合わせながら、日本の歴史や世界の歴史といった大きな歴史をも、読み取ることができたのである。
村に暮らしていると不思議な安心感を覚える。
村で暮らしていると、私達は一代ではつくりだしえないものに支えられて生きていると感じられる。
<風土>に適したローカルな思想が、自然を守るためには必要だった。
「真理はローカルなものの中にしか存在しない」
フランスの哲学者、リオタール
もしかすると「豊かさ」とは、自分の暮らしている風土が生み出した経済倫理と結びついているのかもしれない。だから日本では、多消費だけでは豊かさを実感できない。日本の社会では、豊かさを感じるためには、有意義に働き、有意義に暮らしているという確認が必要であり、経済はそのための手段でしかないのだから。
二十世紀とは、言葉を破壊してきた時代なのかもしれない。
この世界には、ローカル性を帯びた人間しか存在しない。それを忘れて、世界的な、普遍的なものがあるかのごとく錯覚したことが、現代世界の不幸であった。
農家の時間、漁民の時間、職人の時間、商人の時間・・・。時間は風土であり、文化であった。
「労働が喜びになり、人間的なものにならないかぎり、自由な生き方はできない」
ジョルジュ・ルフラン
歴史全体が進歩へと向かうなどということはありえない。経済の発展は環境の後退を招き、技術の進歩が人間の技うや想像力を低下させたように、歴史はある部分だけを見れば進歩し、また別の部分を見れば後退している。
「進歩」の犠牲になったもの
環境、人間の思考力や技、知恵、人と人の結びつき、地域や家族・・・。そして、労働。
20世紀の技術は、生産のための技術であっても、労働を豊かにしていく技術ではなかった。
一人一人の人間が、かけがえのなさ、を失っていたのである。
20世紀は、働くこと自体の意味を問うのではなく、労働の結果を享受することで満足する時代を、つくりだそうとしたといってもよい。
「自分の力の限界を認識しなくなったときから、人間は自分自身を破壊するようになるのです。強制収容所をご覧なさい。」
(レヴィ・ストロース『遠近の思想』)
自然を失った人間とは何か。
人間が人間的であるためには、自然と言う緩衝帯が必要なのに、人間はこの緩衝帯を破壊してしまった。
さまざまなものを多層的に受け入れるところに、伝統的な日本的精神の特徴はある。
自分のものであったはずのものが、気が付いてみると、何物かに乗っ取られている。それが現代社会の姿なのかもしれない。
自分が学ぶために学校に行ったのに、その教育は社会システムを再生産するための装置になっていて、この社会システムに使われていく人間として、自分が教育されている。それをとおして、自分自身が何者かに乗っ取られていく。自分の目的があって働いていたはずなのに、企業と市場経済の中に身を置くうちに、いつの間にかその目的さえ、企業と市場経済のメカニズムに乗っ取られ、いまではそこからも使い捨てられようとしている自分がいる。
ひとつの時代と社会が作り出した精神の習慣とともにある自分たちの平穏が、それを問いかけた瞬間、こわれていくのではないという無意識の不安。検証しなければいけないのは、このような状態のなかにいる私達自身である。
「真理はひとつ」「正義はひとつ」を唱える社会のまずさ
真理や正義の独り歩きを阻止するものは、文化の深さ
日々の自分の行動を、歴史の創造と結びつけながら考える。
歴史はいかに作られ、どこに行こうとしているのか。そのことを考える自分と、自分の日々の行動は調和しているのか、このような問いかけの中に、「主体的」という言葉の意味がある。
自分たちの価値観に基づいて、他の国や社会の人々を、管理していこうとすること自体が侵略である。
世界はひとつではない。世界は多様であり、多元的なのであって、それぞれの歴史や文化、自然や人々の考え方を尊重しなければいけない。
資本主義にとっては、世界はますます均質化していくことが好ましい。
近代の発想は、未来を死後にではなく、現実の延長線上に置く。つまり、人間から死後を喪失させた。
私は、矛盾と折り合いをつけながら生きていこうとするとき、私達が手にすることであろう平和のほうを信頼する。矛盾とともに生きる覚悟をしたときに訪れるであろう「自由」のほうを信頼する。
課題は、折り合いをつけながら生きることが可能なこと、そうするしか方法がないことと、折り合いのつけられないこと、対決するしかないこととを、私達が見定めることだ。そして、折り合いをつけながら生きる領域では、折り合いをつける方法が私達自身の手に所有されているかどうかだけが、重要なのだ。