ごまかさないクラシック音楽 (新潮選書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106038969

作品紹介・あらすじ

美しい旋律に隠された「危険な本音」とは――? バッハ以前はなぜ「クラシック」ではないのか? ハイドンが学んだ「イギリス趣味」とは何か? モーツァルトが20世紀を先取りできた理由とは? ベートーヴェンは「株式会社の創業社長」? ショパンの「3分間」もワーグナーの「3時間」も根は同じ? 古楽から現代音楽まで、「名曲の魔力」を学び直せる最強の入門書。

感想・レビュー・書評

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  • 音楽評論家と音楽学者が繰り広げるクラシック音楽の深い話。
    まるで酒を飲み爆笑しながら「あいつはあーだこーだ」と言っているようでとても痛快。

    小説に繋がったり、政治に繋がったり、楽器を演奏したりクラシック音楽が好きで聴いているだけでは知り得ないことが満載。
    ちょっとダークな部分もあるが、時代背景から仕方ないことも理解できたり。
    特にベートーヴェン株式会社が何をどうして作り出したものは何か…是非読んで知ってほしい。
    アッセンブリーするだけでなく一つ一つ部品を作る、そんな想像をしながら新しい気持ちで聴きたくなるベートーヴェン。

  • ◆深い分析と優しい結論[評]藤井克郎(映画ジャーナリスト)
    <書評>『ごまかさないクラシック音楽』岡田暁生(あけお)、片山杜秀 著:東京新聞 TOKYO Web
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/264729?rct=shohyo

    天才作曲家のイメージがガラリと変わる! 岡田暁生さんと片山杜秀さんの対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)が本日発売!|株式会社新潮社のプレスリリース
    https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000994.000047877.html

    岡田暁生、片山杜秀 『ごまかさないクラシック音楽』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/603896/

  • 以前、のだめを許容しない時代遅れの権威主義者に呆れた覚えがあるが、そんな奴がこの本を読んだら、発狂するかな?
    まぁ、片山先生の名前でもって、猫またぎになるんだろうけどね。
    諸井誠は第九の対抗馬を同じ9番の新世界にしてたけど、第九のアンチはタコ5だ、というのは、判りやすい話ではある。
    シルヴェストリの狂気の突撃演奏で、人類愛の幻想なんかぶっ壊せ!

  • クラシック音楽にまつわる入門書や解説書というのは世の中にごまんと溢れていて、当然のごとくそれらの大半は知的興奮を全く与えてくれないレベルのものばかりである。
    そんな情況に対して”Nein”を突き詰めるが如く、京都大学人文研におけるクラシック音楽の専門家として高いレベルの分泌活動を続ける岡田暁生と、政治学者としての顔も持ちながらクラシック音楽に対する広範な知識量でも読者を圧倒する片山杜秀という2人がタッグを組んだ本書は、まさに自分が本当に読みたかった入門書・解説書であった。

    本書の特徴は、通常の入門書・解説書ではさらっと触れるような点についても、その背景・理由をごまかすことなくクリアに語ろうとするその姿勢にある。もちろん、クリアに語ろうとすれば、そこには一定の解釈やスタンスを取ることからは避けられないが、そうして点からも逃げない点にこそ、個人的には好意を感じたし、博覧強記とも言える2人の語り口の鮮やかさに、改めてクラシック音楽というものの魅力を強く再確認した。

  • 2人ともものすごく詳しい。
    よく知っている。
    音楽はどこへ行くのか?

  • 帯や紹介文には「最強の入門書」と銘打っているが、全く入門書ではない。切り口は、岡田史観と片山思想。ある程度、この2人の著者の本を読んでいない人にとっては敷居が高そうな内容だった。

    私は岡田氏の本も数冊、片山氏の本は多く読んでいるが、本書は対談のためもあってだろうが、落としどころ・まとめ方が弱い感を受けた。対談は岡田氏がリード役である。片山氏の得意分野である前衛音楽の部分が一番面白く読めた。

  • 音楽のストリーミング配信とクラシック音楽の関係性。聞きたい所だけを抜き出して聴く、ながら聞き、
    クラシック音楽は今後衰退の一方と思いきや、音楽コンクールでのアジア勢の活躍。混沌としときました。

  • 面白かった!!!きちんと音楽史として眺めることで、自分の中にある諸々の言語化を突き付けられ、そうですよね、ハイ…となっていました笑

    序章 バッハ以前の一千年はどこに行ったのか
    ポスト・ヒューマン時代には…
    (片山)そうなると、ベートーヴェン的な音楽は「虚偽」に聴こえてくると思うんです。だって、かつては≪第九≫一曲に「世界」のすべてが入っていて、それを聴いたり演奏したりすればユートピアに至るーというつもりで聴いてこそだった。…しかし幻滅する。ベートーヴェンを聴くこと自体が、バカバカしくなってくる…。(p.36)
    (岡田)環境音楽ーたとえば、ひたすらサラサラと流れるせせらぎの音を聴いても、それで世界全体が見渡せることなんてありえないわけです。せせらぎの音もミニマル・ミュージックも、仮に一時間半つづいたとしても、それが世界全体を表していることにはならない。やっぱりフーコーの『言葉と物』の最後がいやでも思い出される。「賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」。もしかしたら人間とは、せせらぎの音を聴きながら、人間には到底見渡すことなどかなわない全宇宙を、少しだけ垣間見たような気になるのが精一杯という程度の存在なのかもしれない。この間書くって、中世ヨーロッパ音楽と通じるところがあると思うんですよね(p.38)
    (片山)要するに交響曲とは四つの楽章がワンセットとなって何らかの全体性が表現されているのだという考えでしょう。…アダージョ楽章だけを抜粋で聴いていいんだと提案したわけです。まさに全体性の解体であり、ミニマル・ミュージックやアンビエントや古楽につながる雰囲気を感じさせます。『アダージョ・カラヤン』こそは、ポスト・モダン、ポスト・ヒューマンになっていく九〇年代を象徴するCDであり、まさに冷戦終結の象徴でもありました。

    第一章 バッハは「音楽の父」か?
    バッハ=「神に奉納される音楽」
    (岡田)…そして一つの長い物語というよりは、どこからでもランダム再生できるばかりか、聴きおえてもグルリと円形を描いて元に戻る円環のイメージすらある。それは近代のロジックではない。どこからでも始められるし、どこでも終われる。(p.78)
    グールドがバッハを演奏する理由、グールドが見ていた未来。バラバラになる人間と音楽…

    SF(映画)と音楽!!なんとここでSFの話が盛りだくさんになるとは…やはり繋がっているんですので…
    ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』:≪われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ≫BWV639
    (岡田)…地球の終わり、あるいは人類が死滅したあとの世界のイメージですね。人間がもういないのに流れている音楽。こんな場面で流せる音楽は、確かにバッハ以外には絶対ありえない。(p.80)
    (岡田)…例えばグレゴリー・ペックが主演したSF映画『渚にて』や、小松左京の『復活の日』『日本沈没』などにも、バッハがピッタリ合うような気がしていました。…
    (片山)ベートーヴェンは、人間の「相手」がいないとうまくいかないでしょう。一人だったら、やはりバッハですね。
    (片山)…(『幼年期の終り』)一つの「全体」になったような表現でした。これ、音楽でいったら、まさにバッハ的なポリフォニーの実現ですよ。それまでモノフォニーで一声部だった音楽が、ポリフォニー=多声部で一つの世界を表現できるようになったのですから。

    もう『幼年期の終り』も『渚にて』も大好きなわけで、確かにそこで流れる音楽がどんなものかは考えたことがなかった。バッハ、なのだとすると、私が朝・夜と聞くときにはたった一人、自分と向き合っているのだろうか。。まさに「(岡田)やっぱりバッハの音楽は「本当はこわい」」…

    (片山)つまり、個物の相克を乗り越えると、完璧なポリフォニー、そして別々の旋律が同時にからみ合う対位法に行き着く。しかし、そこまで行くには、大きな痛みや犠牲を伴う。…それは、もしかしたら核エネルギーのことかもしれないけど、とにかく人間がやることを全部やってこそ、その先に開けるものがある。これがまさしくバッハの≪マタイ受難曲≫でしょう。みんなで血を流して、ルター的な狂気に駆られて、行くところまで行ったら、進化して違ったものになっちゃう。そういうことまですべて引き受けるのが、たぶんバッハなんです。(p.82)

    第二章 ウィーン古典派と音楽の近代
    1. ハイドン
    (岡田)…イギリスはポピュラー音楽の世界では有力なんですよね。ビートルズとかローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか。対するにクラシック音楽の「本場」のドイツやオーストリアの世界的なロック・グループなんて想像もつかない笑。…ビートルズの旋律やハーモニーは、スコットランド民謡の末裔です。…スコットランド民謡的なものは、クラシック音楽の語法より、ポップスに向いていたのかもしれない。
    (片山)ミュージカルが多く生まれるのも、似たような論理かもしれません。(p.92-93)
    英語が覇権言語であることも、勿論あるだろうけれど。

    2. モーツァルトの浮遊感と根無し草

    3. ベートーヴェン
    (片山)…ひたすら駆り立てられて、爆発して、それが人間の感情や魂の解放だということになる。しかも愛を貫くことにも関係してくる。熱量が高まると、お見合い結婚じゃなくて、恋愛結婚になる。
    ⇒そしてそんな女性がブリュンヒルデだと…。やばい、ブリュンヒルデになりたいと思っていた私笑

    (片山)…ベートーヴェンを超えるには超人類になるしかない。ベートーヴェンを超える何かがあるとすれば、ワーグナーでもシェーンベルクでもなく、美的・思想的にはスクリャービンかもしれません。(p.130)
    ・スクリャービンの≪焔に向かって≫、≪プロメテウスー火の詩≫

    (片山)…それでも人間はさみしいから、たまにはお酒を飲んで、芝居を見ましょう、音楽を聴きましょう、そうやって、楽しく生きていましょうとなるわけです。…それに見合った文化芸術のキャラクターとして必要だったのは、もうベートーヴェンではなくて、モーツァルトだった。
    (岡田)日本の経済力がピークに到達して、もうベートーヴェンのように悩んでがんばる必要がなくなったんだな。…
    (片山)…しかし、バブルの崩壊とともにセゾン・グループも解体されてしまい、ポスト・モダンとモーツァルトの時代も過ぎ去ってしまった勘があります。まさに諸行無常の響きありますね。(p.140)

    第三章 ロマン派というブラックホール
    2. ロマン派と「近代」
    (岡田)ロマン派の本質的なところがほぼ出そろったと思います。ポスト・ベートーヴェン世代の悩み、内面への逃避、狂気の演出、フランス革命以来の軍楽隊、「遠くへ行きたい」という欲望と鉄道と観光、植民地支配とエキゾチシズム、ホールの登場、音楽批評の誕生…こうやって考えると、ロマン派ってまったくキメラというか、ごった煮ですね。…ところで、ロマン派を語る際に避けては通れないテーマがあると思うんです。…たとえばワーグナーの≪ニーベルングの指環≫におけるブリュンヒルデとジークフリートのような「命がけの愛」もとい「バカップル」(p.176)

    (岡田)人口生産の手段としての愛自体は、いつの時代にもあっただろう。じゃあどうしてロマン派になって、愛があそこまで焦点化されたのか?僕は資本主義が関係してたんじゃないかと思っているんだけど…
    (片山)…資本主義が回るためには、とにかく労働力が必要だからです。…新たな労働力として子どももどんどん作ってもmらわなければならない。その際に必要になった概念が「愛」ということですね。好き同士になったら、経営者と労働者だろうが、ブルジョワジーと下層労働者だろうが、どんどん子どもを創らせる。そのために生み出されたのが「愛」というイデオロギー装置だった。(p.180)
    これは西洋的にはそうなのだけど、日本はやはり万葉集があり源氏物語があり…と考えると、すごく不思議ですね。

    (岡田)…「国民楽派」という言葉には、悲哀のようなものも感じてしまうんですよ。「自分たちは二等国ではないぞ」と言うために、地元の民謡などを取り入れた「国民楽派」的な音楽を一生懸命に作るわけですが、でも結局は、ヨーロッパ中央の音楽業界で認められて初めて一人前。ウィーンとかパリとかロンドンとかね。でも彼らは国民楽派をしょせんエキゾチシズムとして消費するだけ。決して「本流」にはなれない。本流にしてもらえない。ものすごいコロニアリズムです…(p.195)

    3.ワーグナーのどこがすごいのか
    (岡田)…比較的小ぶりの≪タンホイザー≫でさえ、三時間超だから、ほとんど宗教儀式の世界です。洗脳イニシエーションですね。…ちなみにコアなクラシック通には、「長いものこそ本格的だ」と思う心性がありますよね。(p.208)
    それな~~~笑という。

    (片山)…長らくヨーロッパを支配していたキリスト教文化が崩れていくプロセスの中で、階級の崩壊や流動化が起きる。そうなると、ある種の不安とか刹那主義のような感情がどんどん表に出て、人間の感情が揺れ動くようになる。すでにモーツァルトの音楽などに、そういう不安定な人間の感情が表れていると思います。…ところが、、市民社会、労働者社会になると、「愛」によるカムフラージュが必要になってきた。…でも「揺れ動く」ことは、人間としての重要な感情なんだけれど、やっぱりずっと揺れ動いていると、くたびれるんですよ。その果ては、死に至るしかない。そこで今度は、感情をなだめるというか、ごまかす何かが必要になる。あとでまた「揺れ動く」ことになるとしても、とりあえず、一時的な安静を得て、安らぎの中から、また始めてほしい。この揺れ動きと安静の往還を音楽で表現したのがワーグナーの「三時間文化」ではないでしょうか。で、もう一時的な安らぎだけでいいじゃないかというのが、ショパンの「三分間文化」(p.209-210)

    (岡田)宗教泣き時代にいかに宗教的恍惚を体験させるか。それがワーグナーだな。
    (片山)そして、この長い時間の中で、最終的には神に成り代わって全人性、トータルな一個の人間としての完成が目指されている…マリア様とイエス・キリスト、あるいは幼子イエスの絵が描いてあって、アイドル写真みたいに拝む。こういうアイドル感覚が「三分間」だとすると、そうではなく、聖書を全部読み切ったような全人的な完成、その疑似体験版として、「三時間」の大交響曲や、大ピアノ・ソナタの集中的鑑賞がある。
    (岡田)長い難しいものを最後まで読み通すのは、「立派なこと」なんですよ。ワーグナーはそういう教養主義イデオロギーにそのものずばりはまる。あれだけ長くてややこしいのに、あれだけ人気があるというのは、ワーグナーが教養主義者、つまりは俗物に「受ける」コツを知り抜いていたからだと思う(p.212-214)
    俗物が私です!!いやーまさにこれっていうか、私だって聖書全部読みました派だもんね、絶対………耳が痛すぎ

    マイアベーア!

    第四章 クラシック音楽の終焉?
    これからのクラシック音楽をどう聴くか
    (片山)クラシック音楽が、今更趣味以上の意味はないとも思いたくない。やっぱり世界を知る、歴史を知る、人間を知るツールであってほしいです。
    (岡田)「音楽」の背後の頑強なイデオロギー性に無自覚に、グルメよろしく美的にのみ消費する、というのはやっぱり危うい。あまり無邪気に「音楽って、いいですねぇ」とは言いたくない。…その背後にやっぱり神学的なものが隠れているということを忘れたくない。政治的・宗教的・思想的にニュートラルな音楽なんて存在しない。…「ファンになる」とは、その音楽が求めている絶対倫理を受け入れることに等しいんです。…(p.335-336)

    (岡田)「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことにほかならないのかもしれないですね

    引き続き考えながら聞いていきたい。

  • こちら門外漢、ごまかされているかいないかはさっぱりわからないのだが、二人の識者が本音で語るクラシック音楽とその歴史、という本だと思う。本音であるということはこの二人の考え方がそのまま著されているということで、もちろんこの本に異を唱える人がいるだろうことは想像がつくのだが、素人にはただただ楽しいクラシック音楽解説本であった。ある音楽を好きになるということは入信するようなものだとあったのだが、日頃昔のアニソンばかり聴いている当方にもあてはまるのだろうか?(苦笑)。

  • 超インテリおじさん二人の気を抜いた対談。

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著者プロフィール

1960年京都生まれ。京都大学人文科学研究所教授。専門は近代西洋音楽史。著書に『リヒャルト・シュトラウス 人と作品』(音楽之友社、2014)、『音楽の危機』(中公新書、2020、小林秀雄賞受賞)、『音楽の聴き方』(中公新書、2009、吉田秀和賞受賞)、『西洋音楽史』(中公新書、2005)、『オペラの運命』(中公新書、2001、サントリー学芸賞受賞)、共著に『すごいジャズには理由がある』(アルテスパブリッシング、2014)など。

「2023年 『配信芸術論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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