スカイ・クロラ

著者 :
  • 中央公論新社
3.67
  • (639)
  • (568)
  • (1198)
  • (99)
  • (27)
本棚登録 : 4855
感想 : 715
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784120031588

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 音のない世界のイメージ。しいんとした中に、空を飛ぶシーンが浮かぶ。これほどフィクションの世界に引きずり込まれたのは、これが初めてでした。

  • "僕はまだ子供で、ときどき、右手が人を殺す。その代わり、誰かの右手が、僕を殺してくれるだろう。"
    そんな、表紙に飾られた一節が魅せる世界。戦争がある種シンボルとして、あるいはショーとして存在する世界の中で、「キルドレ」という人工兵器としてつくられた永遠の子供の視点から世界が描かれている。生と死が、通念の感覚とは違った視点で認知されていて、淡々と進んでいく日常の中に見える、主人公カンナミの深層に揺れる様々な心情や情動、避けられない誰かの死、そして死に対する見解が、人というものの複雑さ、単純さ、聡明さ、身勝手さなど様々な真理をリアルに、そしてとても深く描いていく。
    カンナミの思考はとても哲学的で、シンプル。主観を交えることなく、世界や、世界に存在する様々な事象を純粋にあるがままに捉え、認識しようとする。死を可哀相、哀しいと捉えるのはやはり主観的で、この本に描かれる人間社会はそんな身勝手さや偏見に溢れた主観によって成立している。逆に死を身近なものとして理解し、空を飛ぶことを純粋に愛して、時間という認識を排除して生きているキルドレにとっては、死はただの結論に過ぎない。二つの世界のコントラストが鮮明で、それがとてつもなく哀しい。
    独特な世界観と、複雑で緻密に構成された設定が魅力的な一冊です。

  • この本がシリーズになってるとは知りませんでした。
    スカイ・クロラを読むだけでは謎な事が多いです。が、シリーズを読む楽しみには繋がります。
    儚くて切ない考えさせられるストーリーと『僕はまだ子供で、ときどき右手が人を殺す。その代わり、誰かの右手が僕を殺してくれるだろう。』このセリフが頭から離れない。

    大切な一冊です。

  • 頭がいい人が書いたと感じる本。

  • ありえたかもしれないもう一つの世界を舞台に、戦闘機パイロットの日常と "死とは" をテーマに描かれる物語。

    戦争ものというのは大抵重くなりがちで苦手意識があったんですが、読んでみると独特の世界観に引き込まれてとても面白かったです。
    登場人物の洒落た会話のセンスや比喩を絡めた詩的な文章表現は秀逸。

    個人的には、終盤ラスト数ページのところで話がグッと重苦しくなり読後感がスッキリしなかったのは少し残念な部分。

    シリーズ化されてる本作はファーストでありながら時系列的にはシリーズ最終章になるらしいので、より深く読み説くには他の作品も順に読んだ方が楽しめそう。

  • 映画化されたとのことで読んでみたんですが
    あまりのダラダラした盛り上がりのない話に
    途中で読むのを挫折してしまいました。
    有名な人みたいだけど
    正直どこが面白いのかさっぱりわからん。
    いつか再チャレンジして読み終わったら評価しなおす予定。
    映画の方は面白いらしいのでいつか見たいです。

  • 映画やっと観たので再読
    映画はずいぶんわかりやすいなぁと思ったけど、意外とまんまだった
    ふーん
    なんだかさっぱりな印象だけが残ってたけど、そうでもなかったんかな
    とりあえず、この後は時系列読みにチャレンジだ

    1011

  • 乾いている。
    どうしようもなく乾いている。

    浮かぶ情景は砂漠。エジプトの黒砂漠の夜だ。黒くて透明な空がどこまでも広がっていて、じっと見ていると目が痛くなってくる。

    それにしても、ノドが乾いた…

  • 読み始めてから、シリーズものの最終章だということに気付きました。
    ああ、間抜けな私。

    現実感がないことが、逆にリアリティを感じさせる世界でした。
    たまにはこういう物語を読むのも、いいかな。

  • スカイ・クロラシリーズ。

    これに感想をつけることができるとは、読後には思わなかった。
    実際、当初、何が言いたかったのか、さっぱりつかめなかった。
    よいともわるいとも何とも評価しかねる話だったのだ。
    子供のまま成長しない戦闘機乗り。空で自由でありながら、その空で死闘を繰り広げ、しかも、戦って死ぬことを肯定する物語。

    映像化にあたり、
    『本作はヴェネチア国際映画祭で反響があり多くの海外メディアから取材を受けたが、主な質問は物語そのものではなく、「現実に少年少女が兵士として徴用さ れ、命を散らしているのに、「生を実感するため」などという空虚な理由のために戦うなどという作品は、フィクションであるとしてもどうか」など世界観につ いてであった。』(Wikipediaより引用)
    と、メディアがこぞって指摘したがるような内容でもある。
    映像化に当たった押井守氏も、おそらくは本作の意味を把握し損ねていたのではないか。

    つまり。
    これは、本当は戦争の話ではない。

    そのことに気付かせてくれたのは、奇しくも、自分が似たような内容の夢をみたからなのだ。
    おかしな話だが、私は夢の中でパイロットになり、誰ともわからない敵の攻撃に備えていた。自分には同じパイロットの仲間がいて、一緒に出撃準備をしている。私は相手のことも自分のことも、地上では何もできない、何も知らない、飛ぶことしか能がないと感じていた。さらには、空中戦の間、自分も仲間も、そして敵も、いつ撃ち落とされても不思議ではない、ぎりぎりの戦いを戦っていると思い、そして、そのことは恐ろしいことではなく、やるせなくもあり心地よくもある緊張感をもたらしてくれていた。

    スカイ・クロラの印象を受けて、夢を見た・・・というのではない。なぜなら、小説を読んだ時には、登場人物の感情も行動も全く理解できなかったのだ。

    だが、夢の中では違った。その逆だった。感覚が先にあった。
    全ての感情を捨て去って冷静に判断している自分がいた。そして、その緊張感が、自分が戦っていることを思い起こさせたのだった。

    目が覚めて気付いたのは、その感覚を自分が実生活でとてもよく知っているということだ。
    むろん、パイロットの経験があるわけではない。パイロットとして知っている経験ではない。これは、私がかつて、理系の助教という立場で仕事をしていた時の、そのころの緊張感そのものなのだ。
    ここで著者の森博嗣氏が工学部の助教授であったことを思い、ああやはりと思った。

    大人にならないパイロットたち。実生活では不器用で、戦闘機を操縦している時だけは、果てしなく自由であり、かつ、その自由な世界においてのみ戦いがある。
    これは、理系の研究者のことをそのまま暗示しているのだ。

    研究者が、生活の全てにおいて、あるいは人格の全てにおいて、子供じみているとは言わない。だが、こと研究に関しては、子供の心を抱いたままだ。好奇心や探究心、自らの手で自然の神秘を明かしていく、あるいは新たなものを作り上げていく、その達成感、いや、単純にその喜びというべきか、そういった純粋な気持ちはよくも悪しくも、研究者なら常に持ち続けているものだ。
    子供のまま成長しないパイロット。そういうことなのだ。

    そして、朝から深夜まで研究室で論文を読み、実験を行っている分、世間とはどうしてもずれてしまう。さすがに今どき、ニュースくらいは誰でも追っている。しかし、ドラマ、バラエティとなると、見ている時間はない。巷で流行っているものも、学生が持ち込んだりしてある程度は知っている。けれど、自分で流行を追いかけるということもあまりない。

    研究者は、物を対象に研究をしているからと言って、人と付き合いがないわけではないし、学生や院生の指導もしなければならない。他の研究者や学生、院生と話をしている時、それが討論であれ、たわいない学内の出来事であれ、その間は何も不自由はない。

    ところが、近所の主婦と、昔の友達と、親戚の年寄りと話をするとなると、売れている俳優の名前も話題のドラマもわからない。世間は息苦しく不自由な場所になる。俳優の名前も知らないと、よほど頭が固いかのように思われたりもする。ただ、そういう情報に触れる時間的余裕がないだけなのだが。

    研究という仕事は、簡単ではない。皆が興味を持つようなテーマ、たとえば大きな技術革新につながったり、難病の治療につながるような研究となると、同じテーマに取り組む研究者は自分ひとりではない。世界に2,3の非常に似たような方向で研究を進めるチームが現れる。そうなると、少しでも早く成果を上げたもののみが論文を書ける。研究者は自分が論文を発表したいし、学会で発表したい。というより、自分が答えを見つけたい、その感動を味わいたいのだ。
    そうでないなら、自ら研究などせずに、他人の論文だけ読めば知識欲は満たされる。
    だが、研究者が本当に味わいたいのは、自らの手で解き明かす快感であり、その発見を、あるいは発明を、聴衆の前で発表し、どよめかせることだ。自分が称賛されることではない。自分が解明したことに、その内容の面白さに、共感してほしいのだ。ぞっとしてほしいのだ。

    だからこそ。他人に先を越されたくないからこそ、結果を急ぐ。だからこそ、深夜までも論文を読み、戦略を練り、実験を組む。世界中の優れた研究者たちが相手だからこそ、どちらが先に成果をあげるのか、焦る気持ちを抱く。相手は自分よりはるかに頭の切れるすごいやつかもしれない。
    数年の月日と研究費をついやして自分が行ってきた研究が、後れを取ったばかりに論文とならないことは、大変な損失でありショックだ。

    相手をかわしながら、先手先手を打つ空中戦。焦る気持ちを抱きつつも、冷静に信頼できる結果を生み出さなくてはならない。確かな攻撃は、相手を仕留める。しかし、相手の実力が上回れば、自分が撃ち落とされる。緊張感ののちに、自分が生き延びた場合のその快感といったら言葉にならない。
    小説の中のその感覚は、死を恐怖する感覚ではない。そう、死ぬのではない。撃ち落とされる。

    何も論文だけではない。あるテーマについて、あるいは論文について、他の研究者たちと議論するとき、やはり私たちは、それなりの緊張感の中で意見を出し合う。問題の本質を見極め、必要な実験は何か、結果から読み取れることは何か、事実を説明する理屈は何か、持てる知識とひらめきを駆使しながら、意見を出し合う。互いの発想に、ひらめきに、アイデアに、わくわくしたり、ぞっとしたり、時には侮られまいと慎重になったりしながら、議論を交わす。

    空を飛ぶことの自由。自分のよく知る世界で、自分の得意な発想で、難問を切り抜けていく快感。この世界なら自由に動けるという感覚。気は抜けないし、自分よりはるかに強い敵に出会うかもしれない。けれど、今はまだ、どこまでも行けそうな気がする。地上より、世間より、はるかに自由で、そして周りの同期の仲間にはまだまだ負けない。そんな感覚。

    もちろん、中には、自分よりすごいと思える人がいる。ナ・バ・テアで、ティーチャとして登場した人物が象徴するように、私にとってティーチャが象徴するのは、私自身が所属していた研究室の教授だと言える。優れた研究者であり、教育者でもある。そういった人物を指すコードが、小説の中でティーチャであったのは、偶然ではないと思う。

    パイロットに感情がないことも、私の夢では再現されていた。
    私は討論するとき、あるいは先生として人を指導するとき、感情を捨てる。冷静で論理的に無理がない説明を心がける。感情的になっては、指導はできない。議論もできない。

    いったん、こうしてスカイ・クロラに記される特徴的な事柄が、自分の研究生活という実体験にぴたりと重なってしまうと、当初、読んだときに意味がわからなかったことのひとつひとつが、素直に感じとれて行ってしまう。
    まるで、自分の中にパズルの枠組みがあって、そこにひとつひとつ、ピースが収まって行くかのようだ。
    いや、著者が同意してくれるかどうかはわからない。私の勝手な妄想だと笑われてしまうだろうか。

    しかし私としては、あの一種リアルな夢を体験してしまって以来、スカイ・クロラシリーズがどうしても研究者としての自分に重なってしまう。逆に、そこに重ねる以外、感情移入ができない。そして、そこに重ねて読んでしまえば、ただ、研究者として生きた日々を戦闘と比喩しただけの日常の物語となってしまう。

    いや、どうだろうか。誰が読んでも、あれは不思議な世界の世界観を描いた、その世界のただの日常ではないだろうか。
    生きる意味がどうとか、子供が戦うことの是非など、毛頭、問うてはいない。そんなものを深読みするのは、何かのメッセージを期待している読み手の妄想なのだ。そう思えてならない。

全715件中 11 - 20件を表示

著者プロフィール

工学博士。1996年『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、エッセィ、新書も多数刊行。

「2023年 『馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow』 で使われていた紹介文から引用しています。」

森博嗣の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×