- Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121005007
感想・レビュー・書評
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小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」で取り上げられていた漢字もありました。易しく漢字について知りたい方は、小山氏の本がオススメです。
より詳しく知りたい方は、本書「漢字百話」の方をオススメします。
明治生まれの白川静氏、その博識に驚くばかりでした。膨大な知識は、どのように収集されたのか気になりました。
漢字の成り立ちから、昔の人の信仰・宗教的な考え・文化的側面を知ることができ、非常に興味深い一冊でした。
【本書より抜粋】
・すべてのものは、名をもつことによってはじめて具体的な存在となる。
・文字は古くはただの文とよばれ、文章をなすものを文辞といった。「孟子」万章上に「文を以て辞を害せず」というのは、語の表面的な意味で真の文脈を失ってはならぬということである。
・祭祀に従う婦人は、髪を結い上げ多くの簪飾(しん)を加える。妻や毒の横棒はそれを表現している。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
くー。やっぱり大変でした。
読めたとは言えない、再読前提!
直前に読んだ松岡正剛『白川静』があったから、補足されて非常に良かった。
漢字から文化を辿ってゆくことは、自分が今使っている文字を改める機会になる。
巫女、媚女、蔑むの繋がりや、犬や鳥の扱いなど、なかなかゾクッとさせられる。
そういえば水戸光圀の圀は、則天武后の時代に作られた文字だったのですね。へー。
端々に当用漢字についての批判も見られる。
文語から口語へ、そして漢字制限とローマ字。
日本って言葉の豊かな国だけれど、だからこそ歴史に流され失われたものも多い。
多くの人がそれに抗いながら、今がある。
考えさせられる。 -
読むのに大変時間がかかった。
慣れ親しんでいる漢字の中に隠されている謎。
白川静は「口(サイ)」という発見によって、
わたしたちが見ていたけれど視えなかった物語を詳らかにする。
殷の時代の呪術的思考を、
表意文字である漢字から読み解くさまは、
ホームズもかくやの推理力で、
かの時代の生活が眼に浮かぶようである。
その碩学の前には唯唯敬服するばかり。
「呪術」というと眉をひそめる人もいるかもわからないが、
そもそも「ない」ものを「ある」とする思考のことなのであるから、
例えばおじいさんが亡くなった時に遺体に話しかけたりするのも、
「愛」という形のないものを信じているからでこれと地続きだと言える。
もっと言えば「常識」や「国家」なんていうのもそうで、
吉本隆明風に言えば「共同幻想」なのである。
わたしはこういう、
「ない」を「ある」とする思考こそが人間を人間たらしめていると考えている。
また、
甲骨文や金文のキッチュな造形に心惹かれるのは、
岡本太郎的に相通じるものを感じるからかもしれない。
ふむ。
もはや本のほぼ全てと言っていいほどの蛍光の黄色。
これ線引く意味あるのかしらん、なぞと。
最後に、
国語問題について考える時、
語義の体系的な習得という点は、
伝統的な意味においても合理的な意味においても、
大いに検討していったほうがよろしいのだろうね。 -
この漢字百話 (中公新書 (500))は新書でありますが、その内容の濃さは最近の軽い新書の比ではありません。内容は深く濃く、そしてとても理性的です。漢字の成り立ち、漢字の意味、そしてその背景にある古代人のドラマを余すところなく凝縮した一冊です。普段何気に使っている漢字の中に、これほどまでの“思い”が詰まっていることに、感動を覚え、漢字の文化圏に生きていることへの感謝と喜び、そしてそれをまた受け継いでいくことの大切さを感じることができます。
タイトル通り、漢字にまつわる100の物語が収録されていますので、一日一話ずつでもゆっくりと読み進めてみたらいかがでしょうか。 -
古代中国の文化や、漢字自体に興味がある人には面白いかも。
漢字を通して、中国の古代文化に触れられるのがうれしいというか、
熱いwwwwwww
たとえば、「道」という字の歴史について、
「他民族の生首を吊るして、道を進む」
という呪術的な行為から形成されたとか。 -
漢字は数が多く学習するのが大変なものであるから簡略に、という考えで内閣が出した当用(常用)漢字は古典、他の漢字使用国との文化的切断が問題。そこを埋める本。
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漢字のお話。一つ一つを丁寧に的確に説明している。ぱっと開いて読むだけで楽しい。漢字大好き。
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あとがきが印象深かったです。
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ものすごく中身の詰まった一冊。
手に取ると、誇張ではなくずしりと重い。
本を開くと、中には活字がみっしり。
しかし、あまりの面白さにぐいぐい引き込まれる。
冒頭から3分の2くらいまでは、漢字の成り立ちが次から次へと立ち現れてくる。
「甲骨文」と「金文」から紐解かれていく成立過程は、まさに白川静の真骨頂。
有無を言わせぬほどの説得力を持って、目の前で繰り広げられる風景には、ただ圧巻という他ない。
この部分に関しては、まずは自分の目で見てみないことには分からないと思う。
目から鱗がぼろぼろ落ちていくのが分かるはず。
そして本書は、「日本語」における「漢字」についての思索に進んでいく。
その結びに書かれているのは、「漢字」から見た「<a href="http://mediamarker.net/u/ikedas/?asin=4480814965" target="_blank">日本語が亡びるとき</a>」。<blockquote> 漢字の伝統は、中国においては字形を正すという正字の学として、わが国においてはその訓義を通じて、漢字を国語化するという国語史の問題として存した。中国が正字を捨て、わが国で字の訓義的使用を多く廃するのは、それぞれの伝統の否定に連なることである。</blockquote>これは、決して懐古主義などではない。
それは、流れるように展開されていく論理によって、しっかりと積み重ねられた成果である。<blockquote> 漢字は訓よみによって国語化され、その意味が把握され、語彙化される。音訓表においては、「おもう」「うたう」「かなしい」などの動詞・形容詞は、思・歌・悲のそれぞれ一字だけに限定されているが、国語の持つニュアンスはもっと多様である。字音としては懐・念・想・憶などの字もあるが、そのように「おもう」ことはできず、また唱・謡の字もあげられているが、音訓表では「唄う」ことも「謡う」こともできないのである。</blockquote>これはつまり、「表現の自由」に他ならない。
日本語とは、音ではなく字によって意味を為す言葉だと思う。
この前提に立てば、ある言葉の表現が一つに制限されるという行為は、自由の侵害に他ならないはず。
これが怖ろしい理由を、白川氏はこう記している。<blockquote> いまの年配の人たちは、総ルビ付きの赤本などで、少年の時から多くの文字を自然に学びえたことを、懐かしく思い出すであろう。いまは、旺盛な吸収力をもつ若者たちが、とざされた言語生活のなかで、知ることを拒否されている。かれらは多くの語彙、ゆたかな表現のなかに、情感の高められる緊張の快さを知らない。もしいまの少年たちに書物ばなれの傾向があるとすれば、その一端は、この抑圧された文字環境にあるのではないかをおそれる。</blockquote>そして、このような抑圧を進めてきた真犯人は、他でもない大手出版社だったりするのだから笑えない。
「表現の自由」を旗印に掲げる彼らが、一方ではこのような罪を重ねてきているのが現実。
そして、もうひとつ興味深い指摘がある。<blockquote> 高等な動物ほど、遊戯本能をもつということである。その道理をもっていえば、字遊びのできる文字ほど高等ということになる。遊ぶことを知らぬ字など、字というに価しないものであるのかもしれない。</blockquote>この指摘は非常に重要な部分を突いているように思う。
「遊ぶ」事が出来るということは、すなわち「余地」が広く取られているという事に他ならない。
さまざまな「遊び」から、いくつもの「進化」が生まれてきているのがこの世だと思う。
そして、「遊び」には、確実に「良い遊び」と「悪い遊び」がある。
「良い遊び」とは際限なく広がっていくような「遊び」であり、「悪い遊び」とはどんどん内側に狭まっていくような「遊び」だと思う。
かつて行われていたような文字遊びは、結果として日本語の柔軟性を高め、表現の幅を爆発的に広げた。
いまでも、若い世代は言葉を弄び、さまざまな形で言葉遊びを行っている。その代表例が、「略語」ではないかと思う。
しかし、その遊び方は「悪い」遊び方なのではないかと感じる。
言葉は縮めることで、単なる「記号」に成り果ててしまう。
そして記号となった言葉は、すでに「生きて」はいないのではないかと感じる。それは、ただの「標本」に過ぎないのではないだろうか。
その根本的な原因が、先に挙げた「表現の自由に対する侵害」にあるのは明白なのではないだろうか。
本書が書かれたのは、昭和53年の4月。
ここで表明された危惧が顧みられることなく、時は進んでしまっている。
いま、この時期だからこそ、改めてこの問題を考えてみなければいけないのではないだろうか。