現代日本を読む―ノンフィクションの名作・問題作 (中公新書 2609)

著者 :
  • 中央公論新社
3.50
  • (2)
  • (11)
  • (9)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 148
感想 : 18
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121026095

作品紹介・あらすじ

「非」フィクションとして出発した一方、ニュースのように端的に事実を伝えるだけでもないノンフィクション。本書では、『苦海浄土』『日本人とユダヤ人』に始まり、『捏造の科学者』や『こんな夜更けにバナナかよ』、ノンフィクションとして読まれた『美しい顔』など、一九七〇年代から現在に至る名作・問題作を精選。小説と報道のあいだに位置し、同時代を活写した作品群が浮き彫りにする現代日本の姿とは。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「語り手を持つということでノンフィクションは創作小説に通じる性格を備えることになるが、小説になってしまえば非(=ノン)フィクションという定義自体を裏切ることになる。物語的な文章の創作小説と、事実的な文章であるニュース報道の間に位置することで、ノンフィクションはどのような制約を自らの表現に課してきたのか」

    期待以上に面白かった。
    というか、自分自身がノンフィクションというジャンルをあまり考えて来なかったことがよく分かった。

    大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品を中心に、その作品がノンフィクションとしてどんな立ち位置にあったのかを、幾つかのテーマに分けて述べていく。

    たとえば後半、第5章のアカデミズム(としてのサントリー学芸賞)とジャーナリズムの乖離と接点を考えていく内容が面白い。
    続く第6章では話題になった北条裕子『美しい顔』、第8章ではSTAP細胞の顛末を描いた須田桃子の『捏造の科学者』が紹介されている。

    表現の柔軟性を求めるのか、専門家に通ずるような知見を求めるのか。
    何かと重ねて切り取るやり方では本当の魅力が見えてこないのかもしれない。

    今後、ノンフィクションに触れていく上での参考になった。

  • 本書を手にした動機。ここ数年でノンフィクション作品の面白さを痛感している。「今更でごめん」と思いつつ。すると欲張りなもので、過去の名作にはぜひ目を通したい、現在進行形の様々な出来事を新刊や雑誌の連載を通して体感したいなどと思いが膨らむ。で、メディアで「ノンフィクション」なる語を見つけると、ついその記事に目を通してしまう。たまたま2021/1/16の日経新聞夕刊で本書が紹介され、それを機にいつか読もうと目星を付けていたところ、図書館にあったので思わず借りて読んでしまった。

    しかし、このタイトル、ミスリードかなと。事実を重んじるノンフィクション研究者にしては、いかがなものかと思う(笑)。『現代日本を読む』を真に受ければ、時代は「現代」、場所は「日本」。「読む」はあくまで比喩であり、例えば2000年以降の20年間、または平成の31年間における日本社会の「なにかしらの変化」を取り上げ、眼光鋭き著者がそれを素材に、未知・未見の課題や問題点をばっさばっさと読み解くことで、ついに読者が「目から鱗が落ちたとは、まさにこのこと!」と叫びたくなるような書物を想像してしまう。残念ながらそうではないが。。。

    副題に『ノンフィクションの名作・問題作』とある。「それ、タイトルの『現代日本を読む』と何の関係もないやん」と、ひとりでツッコんでしまった。邪推するなら、当初、この副題こそがタイトルだったと考えられる。しかし、これでは地味で訴求力不足を感じたのだろう。さらに、「”問題作”って、どれやねん!」というどクレームも来そうだ。なのでそれをタイトルとしては採用せず、副題に落ち着かせながら、「えいや!」とインパクトを狙って本タイトルに落ち着いたのだろう。前著の『日本ノンフィクション史』(2017年)に対し、「個別の作品にもっと焦点を当ててみれば?」といった反応があったらしい。それをきっかけに中央公論のWEB上での連載記事が始まり、それをまとめたのが本書である。この邪推は意外に、当たらずも遠からずではないかと思う。

    それはさておき、内容は1970年に始まる「大宅壮一ノンフィクション賞」(以下、大宅賞)の受賞作を中心に(受賞作オンリーではない)、その変遷を辿りつつ各作品の内容を分析し、さらに作品を取り巻く状況や背景をも浮かび上がらせつつ、ノンフィクションというジャンルが、いかなる表現を生み出してきたかを明らかにするものだ。9章で構成され28篇のノンフィクション作品が取り上げられている。

    ところでノン・フィクション作品は、フィクションたる小説と事実記録たるジャーナルの間に位置する文章表現のジャンルである。ではノンフィクション作品に関して、考察を迫られる論点は、どのようなものか。本書の9つの章を通読し、それらの問題意識を整理していくと、3つのキーワード、「作者」、「事実」、「表現」が浮かび上がる。ある「作者」が、特定の「事実」に焦点を当てて取材をし、それを何かしらの「表現」に落とし込むのが、ノンフィクション作品の成り立ちであることを踏まえれば、それらの論点になにかしらの課題や問題を見て取るのはごく自然なものといえよう。具体的な問い掛けは次のようなものだ。

    ①誰が作者なのか
    作者が何者か、とりわけ作者の属性が作品の内容といかなる関係を持つのか。もしくは、全く関係のないものか。例えば作者が自称ユダヤ人、または外国で生活する日本人女性であったとする。その主題が現代の社会状況や事件、出来事に関したものである場合、例えば女性ならではの視点と感性を駆使することで、男性にとっては不可視であった実態に迫ることが出来るなら、”女性であること”は作品にとって一つの利点となろう。過去にはそのような観点で選ばれた大宅賞の受賞作もあった。しかし著者は1991年以降、ジェンダーに拘らず普遍的な視点で社会と現実に斬りこむ叙述が中心になってきたと見る。

    また作者の国籍などがメディアで論争になった過去もあったが、結局は不問に付された。文章が面白く知的な刺激があれば、そんなことは些末なことだという、ある意味真っ当な判断に落ち着いたわけだ。ちなみに論理学では、「発言者の権威は発言内容の真偽には全く関係がない」という原則がある。「権威に訴える論証の誤謬」と呼ばれるものだが、実際の世の中では、それが当てはまらないことの方が多い。皮肉なものである。

    ②作者は事実の真相に迫れるだろうか/読者は噂と真相が区別できるのだろうか
    作者がどのような出来事や事件を対象にするか、それは全くの自由である。問題は、作者がその当事者でないとき、事の真相を確実に知る方法がないという不可知性をどう考えるかである。

    たとえば最先端の科学での発見(=STAP細胞の有無)や密室での政治的な交渉の存在(日米の沖縄返還における核の密約)といったものは、その現場に深く関わった者しか分からないこと、知らないことが多々でてくる。作者が真相を暴くために警察のような強制力を行使できるわけではないし、たとえそれを手にしても真実が明らかになる保証はどこにもない。冤罪がその好例である。

    つまりノンフィクションが描く事実の信憑性には自ずと限界があるわけだ。賢明な読者としては、書かれた内容を妄信せず、将来には新証言や新資料などでその白黒がひっくり返るかもしれないというぐらいの鷹揚な気持ちで、それを読みこなす必要があろう。ただ関係者がみな揃って口をつぐむ、まさにそういった出来事や事件こそが、その真相究明を強く求められたりするのも、これまた皮肉なものである。いずれにせよ後日の検証に耐えうるような「開かれたノンフィクション」が求められるのだ。

    ③事実はどのように表現されるのか
    ノンフィクションが既存の事実に依拠する点は疑いようがない。出発点は特定の事実、それもひと連なりの複数の事実であろう。ノンフィクションを書くという作業は、多くの登場人物によって織りなされる演劇を見て、それを再演する脚本を書くようなものだ。その時、どのような表現方法や表現手段を使うか。それによって、受け手がどう感じるのか。いくつかの論点が生じるだろう。

    まず小説のような想像的な表現が混じることを、どう評価するか。著者によると、ノンフィクションは「物語るジャーナリズム」である。事実を取材し、それに基づいて始終を伴った一連のシーンが描かれる。しかし場合によっては、実際には語られていないことを想像して書く、取材した複数の声を一人の人物に帰して表現する、など小説的な技法が使われることがある。これを邪道として一切、拒否すべきなのか。もしくは現実のリアリティを体感する上での許容された手法とみなすのか。突っ込んでいうと、書かれた内容は漏れなく一対一で事実に対応するといった実証主義的なルールを貫徹すべきなのか否かという問題である。著者は、この点に関し、事実の記述を重視しつつも、それを超える表現方法を必要な範囲で認めるという現実的な姿勢をとる。もちろん、それは評価・価値観の問題であり、各人各様に捉えれば良い問題ともいえる。こうあるべきという規範的な問題ではなかろう。

    そもそも読者は文章という一連の記号に接するしかなく、その記号が現実を指すのか、虚構を表しているのかを適切に見分ける術はない。まずは信じるしかないのだ。TVや映画で「この物語はフィクションです」という念押しの表記が添えられるのは、逆に「信じないでね」との警告である。読み手からすれば、小説=フィクションといえど、登場人物が実世界には実在しないだけで、その物語自体は過去に実在し得た、もしくは将来に実現し得るというリアリティを感じるものだ。だからこそ書物によって笑い、涙することが出来るのである。そのときフィクションとノンフィクションにおいて描かれたものの実在性に、異常にこだわる必要はないのだろう。

    次に、作者がその事実の当事者である場合の表現手段である。特に映像(写真、ビデオ)が問題になる。写真は写ったモノが「かつて、そこに、あった」という一瞬の事実を生々しく伝えられる武器である。1981年創刊の『Focus』といった写真週刊誌が爆発的なブームを生んだのは、写真による事実の圧倒的な存在感であろう。まさに百聞は一見に如かずである。この臨場感は事実の信憑性を重んじるノンフィクションにとっては心強い味方である。著者は、写真と文章の2段構えで一世を風靡した藤原新也の才能を称えつつ、彼の新作への期待を呟く。

    本書はノンフィクションをぎちぎちの枠に収めて定義しようとはしない。「物語るジャーナリズム」という折衷的な定義を与えて、その虚構性と真実性の間に揺れ動くところに、ある可能性を賭けているように思える。例えばアカデミックジャーナリズムという世界を夢見たりするのも、その可能性の一つだろう。実際のノンフィクション作品を読み進めながら、ふとそのジャンルの足元が揺らいだときに、たまに参照してみるのが良い本書である。

  • 事実をそのまま伝えるニュースや創作である小説とノンフィクションとではどんな違いがあるのか。ノンフィクションの立ち位置を、数々の作品とともに探る本。

    「大宅壮一ノンフィクション賞」を受賞した作品を紹介しながら、各作品の背景、問題となったことなどが紹介される。中には「コピペではないか」という疑問がついたり、創作と紙一重だったり、問題ありとされながらも受賞した作品も。

    震災での出来事をベースに書かれたノンフィクションでは、被写体となる少女の心の変遷なども描かれたり、遺体と対面した時の描写など、引用元の是非はあるにせよ、リアルな心情が伝わってくるのはノンフィクションならではだ。

    以前読んだことがある小保方晴子氏の「あの日」も紹介されていた。完全に著者の主観で書かれたものであり、相対する人の主観とはだいぶ違いはあれど、これも「ノンフィクション」には違いなかった。

  • ノンフ賞の発足にまで時期を遡り、歴代受賞作に概ね焦点を当て、同ジャンル作品の意義を見つめ直すもの。なので、取り上げられている作品群は、名作紹介というニュアンスは薄く、ジャンルを定義するにあたり、重要性の高い作品が中心。芥川賞候補作や写真集にも論が及び、同ジャンルの懐の深さも垣間見える結構。

  • ノンフィクションって、何か?ということは、興味のあるテーマだった。この本はノンフィクションを社会的に評価した大宅賞をとった作品に焦点を当てて、ノンフィクションを語る。
    事実を報じるジャーナリズムは、新聞という媒体によって成り立っている。「事実的な文章」と「文学的な文章」の間に全ての文章表現は収まる。
    ノンフィクションでは、著者が「語り手」となって、ひとつの出来事、事件として始まり終わる。
    その物語の中に、事実を配置する。
    つまり、「事実」があり、「語られた事実」もあり、「事実から推定・推測」できるものがある。
    事実に基づいて、事実のように創作する、つまり著者の都合の良いように作る。
    ここでは、事実とは何か?という大きな問題が横たわる。黒澤監督の「羅生門」のように見る視点で物語は大きく変わる。大統領がフェイクニュースを流す時代に、ますます事実が不明瞭な意味を帯びてくる。日本においても日本軍の大本営発表が、日本が勝っているようなフェイクニュースを流し続け、それを信じた日本人がいた。
    1970年4月大宅壮一ノンフィクション賞の第1回が発表された。「極限の中の人間」尾川正二と「苦海浄土」石牟礼道子の二人が受賞した。ところが、石牟礼道子が辞退した。なぜか?を著者は究明する。苦海浄土は、審査員からは「魂の記録」「事実を突き破るもの」として評価された。
    苦海浄土は、聞き書きリアリズム、ノンフィクションのようにとらえられた。「公害の悲惨を描破したルポルタージュ」「患者を代表して企業を告発した怨念の書」という風にとらえられたが、それは違う「粗雑な概念で要約されることを拒む自律的な文学作品」であり、石牟礼道子の私小説だというのだ。石牟礼道子は、「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にするとああなるんだもの」「自然に筆が動き、それがおのずから物語になった」という。つまり、ノンフィクションではないということで辞退したのだ。ジャーナリズムの価値観で評価され、断罪されることを回避しようとした。
    しかし、「こころの中の声ならぬ声」を聞いて、本人に代わって書くことは、尊い作業だと思う。
    ノンフィクションであるかフィクションであるかは、あまり重要ではないと思う。そこで起こっている事実を捉え、そこから湧き出てくる物語をいかに表現し切るかの方がもっと重要だ。
    この苦海浄土に関する分析は、圧巻だった。著者はいい仕事をしている。
    「日本人とユダヤ人」がイザヤベンダサンによって発表された、ベストセラーになった。それが本多勝一と山本七平との論争に発展していく様はおもしろい。作者が誰であるかより、作品が何を語ろうとしていることの方が、重要なのだ。
    ノンフィクションとしての沢木耕太郎についての批評もいい。正確な理解の下、細部まで描きこんだシーンを連続させて、浅沼暗殺というテロ事件の全体像を現前させる「テロルの決算」を評価する。
    ジャーナリズムの現実行動性、時事性、現在性、現実性、常識の主体、理解可能な範囲での事実問題を取り上げて、世に発表していく。時代の共感を生み出す作業。ここで紹介されている28冊の本の背景が、ノンフィクションとは何かを様々な視点で評価されているのがいい。アカデミズムとジャーナリズム、大宅壮一賞とサントリー学芸賞との関連など、本の世界は奥深い。
    中国から、日本に戻ってきて、はや4年の月日がたつ。そして、リスクの多い仕事をしてきたが、その終焉を迎えてきている。人には体験できないことを積み重ねてきた。なんとか、それを物語化したいと、コツコツと積み重ねているが、この本の指し示した「物語のあり様」はおもしろい。勉強になりました。

  • ああこの人の事を評価していないんだなぁと感じられる部分が自分の評価及び当時の状況を振り返っての感想と違う部分がいくつかある。
    そういう点で”辛い”部分と”甘い”部分が混じったセレクトだと思う。
    ま、それは個人の好みだから問題にはしないけれど、絶対評価として読むのは注意と当然ながらも申し上げたい

  •  たとえば後藤治さんの人物評伝とか、スポーツとか、そういうものは無い。けれど、同時代史としても読める。たしかに、この本はあったなぁと。きちんと読んだ本が、ほとんどないことに、自分の読書傾向を笑いながら振り返ってしまったり。
     

  • 武田徹(1958年~)氏は、国際基督教大学人文科学科卒の、評論家、ジャーナリスト、専修大学文学部教授。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。『流行人間クロニクル』でサントリー学芸賞受賞(2000年)。
    本書は、著者の『日本ノンフィクション史』(2017年/中公新書)の続篇として、「web中公新書」に2018年9月~2020年7月に30回に亘り連載された「日本ノンフィクション史 作品篇」を、加筆・修正のうえ再構成したものである。
    私は、もともとノンフィクションというジャンルの本が大変好きで、『日本ノンフィクション史』も読んでおり、「ノンフィクションの名作・問題作」を取り上げているという本書を興味深く手に取った。(前著の続篇だということは、不覚にも読み始めるまで気付かず、続篇という性格上、一部に前著と類似の内容が出てくる)
    著者は、“ノンフィクション”と新聞記事のような客観報道のジャーナリズムの違いを、「バラバラの事実を整理して配置し、それぞれの因果関係を読み込み、意味の通ったひとつの出来事や事件として描き出すノンフィクションには、著者という「語り手」が必要だ。そして著者によって語り出されるノンフィクションの作品世界は、始まりがあって終わりに至る「物語の構造」と持つ。」、「ノンフィクションとは「物語るジャーナリズム」だ」と言い、それが紛れもなくノンフィクションの最大の魅力であるとする。
    しかし一方で、「物語の力を借りたことでノンフィクションは弱さも孕んだ」のであり、「ノンフィクションである以上、それは非(=ノン)フィクションでなければならず、フィクションとジャーナリズムの間の、どこに作品を着地させるべきか、ノンフィクションの書き手たちは試行錯誤を重ねてきたのだ。」と言う。
    本書では、大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作品を中心に、石牟礼道子『苦海浄土』、イダヤ・ペンダサン『日本人とユダヤ人』、沢木耕太郎『テロルの決算』、鈴木俊子『誰も書かなかったソ連』、平松剛『光の教会 安藤忠雄の現場』、北条裕子『美しい顔』、藤原新也『東京漂流』、須田桃子『捏造の科学者』、若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』などの28作品(文中に出てくるものは更に多い)を取り上げているが、それらの内容を単に紹介するのではなく、各作品にまつわるエピソードを交えながら、ノンフィクション賞の辞退、作者不明の作品、フィクションとノンフィクション、ノンフィクションとジェンダー、アカデミズムとジャーナリズム、虚構と現実、写真とノンフィクション、科学ノンフィクション、日記とノンフィクション等、多面的な切り口で論じており、大変興味深く読めた。(『苦海浄土』、『日本人とユダヤ人』のような有名なエピソードも含まれているが)
    E.H.カーは名著『歴史とは何か』の中で、「「歴史」とは、「史実」を後世の歴史家が自らの主観に基づく因果関係で結び付けた「物語」であり、「史実」そのものではない」と言ったが、それと同様に、「ノンフィクション」は、「事実」を書き手が自らの主観に基づく因果関係で結び付けた「物語」であり、「事実」そのものではない、という限界があるとは言えるが、それでも、というか、それゆえに、その特定の書き手がそのテーマをノンフィクション作品にする意義があるのであり(結び付ける個々の「事実」にウソがあるのは論外)、今後も優れたノンフィクション作品が生まれていって欲しいと思う。
    (2021年1月了)

  • 事実をそのまま報じるジャーナリズムと、それを物語的な文章形式で表現するノンフィクション。

    その可能性と限界についてこれまでの名作を紹介しながら論じた本。面白かった。

  • ノンフィクションはフィクションの否定、フィクションはフェイクとほぼ同義、フェイクの反対語はトゥルースだから、ノンフィクション=真実、っていうような簡単な話にならないのがノンフィクションというジャンルです。だって本書でも取り上げられる「日本人とユダヤ人」の作者イザヤ・ベンダサンだって虚構なのだから。そいうえば、本書においてノンフィクションというジャンルを日本に定着させたとされている大宅壮一ノンフィクション賞の大宅壮一でさえ、岡本喜八の映画「日本の一番長い日」の原作者とされていたけど、最近の文庫では実質の原作者、半藤一利にクレジットが変えられているという話を聞いたばかりです。まえがきで引用される本田勝一の「日本語の作文技術」においてのテーゼ、『「事実的な文章」と「文学的な文章」にすべての文章表現は収まり、両者の配合度合いでその性格を位置づけられる』のだとしたら、ノンフィクションは作者の文学的エモーションに駆動される事実ベースの物語ということで、その真ん中に位置するのでしょうか?事実が事実として共有できない今日こそ、ノンフィクションという作者の視点の入った取材をベーストしたジャンルのトリセツを各々が持つことは、とても大切なコンピテンシーになると思います。そういう意味で、作者不詳、フィクションとノンフィクションの間、フィクションとジェンダー、アカデミック・ジャーナリズム、虚構と現実を越えた評価軸、写真とノンフィクション、科学ノンフィクション、日記とノンフィクションという章立ては刺激的でした。

全18件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

昭和21 年、長野市に生まれ。
長野高校、早稲田大学を卒業後、信越放送(SBC)に入社。報道部記者を経て、ラジオを中心にディレクターやプロデューサーを務める。平成10 年に「つれづれ遊学舎」を設立して独立、現在はラジオパーソナリティー、フリーキャスターとして活躍。
主な出演番組は、「武田徹のつれづれ散歩道」「武田徹の『言葉はちから』」(いずれもSBC ラジオ)、「武田徹のラジオ熟年倶楽部」(FM ぜんこうじ)など。

「2022年 『武田徹つれづれ一徹人生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

武田徹の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×