- Amazon.co.jp ・本 (321ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122027848
感想・レビュー・書評
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百閒はふとした縁から野良猫「ノラ」を世話をするようになる。老夫婦を癒し、心の拠りどころにもなっていたノラは、ある日突然姿を見せなくなる。ノラを懸命に探し数年が経った頃、軒先に迷い猫「クルツ」が現れる。
「ノラやお前はどこへ行ってしまったのか」
突然姿が見えなくなったノラを案じ、迷い猫探しの広告を作成し、日々の空虚を日記にしたため、外国人が保護しているかもと想像力を膨らませ英字版の広告も用意し…と猫探しに奮闘する日々。「似た猫がいる」という連絡があれば確認に赴き、一喜一憂します。愛猫が帰らない毎日に涙する様子に胸がきゅっとなる…。
猫が見つからないという事実を前に、ここまで悲哀の想いが吹き出し、言葉が生まれ、1つの作品が仕上がることに驚きます。
悲劇は喜劇とはいうものの、私はこの作品に“愉快さ”を感じられませんでした。けれど、「ノラや、ノラや…」と懸命に愛猫を捜索する百閒の必死さから人の温かさと優しさと愛しさに触れ、溢れんばかりの猫愛が伝わってきます。
とことん切ないけれど、動物を心から慈しむ姿に触れ温かい気持ちにさせてくれる1冊でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
だめだめな百閒先生の姿に、なんか安心する。本人はあくまで大まじめなのである。
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※1980年3月発売
猫どころか動物を一切飼ったことのない私が読める本なのか?と思いながら手にとったが、すっかり百閒先生のペースに飲み込まれました。
ノラが可愛くて、いなくなってからは、今日こそ帰ってくるんじゃないかと期待し、もうこの感じだと帰ってこないのかなと気づきつつも、似て非なる猫クルツを受け入れるまでのささやかな葛藤なんか、もう一緒になって感じている気にさせられました。
猫愛が薄い私ですらこんな感想なんだから、猫好きな人は読んでて辛くなるかもしれない。 -
内田百閒先生の猫溺愛ぶりが父と重なって仕方がない。しかし、父は死後の猫に対しては案外冷静なのに対して、先生の未練には驚いた。風呂には入りましょう。
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2016.7.16読了
ネコ好きなら読んでみて欲しい。
ノラ 出前の鮨の玉子焼きが好きだった。不明になってから出前を注文する気にもなれなくなった。
クルツ 尻尾が短い。先生はドイツ語が堪能なのかしら?クルツはドイツ語で「短い」という意味。
偶然にも我が家に遊びに来ているさくらネコになった野良猫がいるんだけど、私もクルツって名付けクルちゃんって呼んでいる。その子も尻尾が短いから。 -
いつも散々変なこと言って変なじいさんだと思って面白がっていたが、家族の一員を立て続けにな(失・亡)くして泣いてばかりいるじいさんを文を通して時代をこえても、哀しくて仕方がない。
でも風呂には入って。
平山君の解説を読んでも当時の周りのサポートも推して測るものがある。
また、百閒を心配して手紙を寄せる人達の温かさというものも感じた。ノラも百閒もクルツも、みんなから愛されていたんだと思う。
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多分1956年あたりが初出かと。
内田百閒先生ですから、エッセイというか、文章というか、雑文というか。
ノラという猫を飼っていた内田百閒先生。
もう老齢です。
ノラが迷子になってしまって狂乱して探す百閒先生。
見つからずに泣きくれる百閒先生。
そのうちに迷いネコをなし崩しで飼い始める百閒先生(と奥さん)。
クルツというその猫を飼いながら、ノラを思って泣いたりする百閒先生。
だがそのクルツも病に倒れ、また泣き崩れる百閒先生。
今から65年くらい前の東京、今と比べると猫や犬の死は多かったことでしょうが。
なんとも取り留めもない中に、そこはかとなく格調と人間性が諧謔の風味の中に匂い立つ、唯一無二の百閒先生。
代表作と言って良い一冊を、ご縁が無くて読んでいませんでした。
猫好きな方は是非。いや、泣いちゃうから忌避されるか…。 -
最初の20ページ程がノラとの交流、まさかその後ずっと悲嘆に暮れているとは…
いつのまにかクルツが居着いて、でも折々ノラを思い出して泣いて、クルツを見送って。
猫好きなら気持ちはわかるけど、本になるほど書き連ねる事ができるのは作家だからか。
平山三郎の解説まで全部読んでこの本を読了としたほうがいいと思う。 -
「先生」の家に現れた野良猫。内田百間の師、夏目漱石の『吾輩は猫である』を思わせる微笑ましい猫との出会いが、2章目から急展開する。犬猫を飼ったことのある人なら涙なくして読めないだろう。