宗教社会学: 神、それは社会である

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  • 東京大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130530316

作品紹介・あらすじ

いまも神は,いたるところで生きている――.社会学の知見に立ち,「宗教とは何か」に迫るとともに,政治・経済・学問・芸術・スポーツなどの根底に息づく宗教の論理を,身近な題材を通して鮮やかに描き出す.〈宗教社会学〉のリスタートを告げる入魂の一冊.

感想・レビュー・書評

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  •  「政治」「経済」「スポーツ」「芸術」などを宗教社会学の視点から読み解きつつ、宗教社会学とは何かについて述べていき、更には宗教と社会学がほとんど一致しており、究極的には社会=宗教であることを述べた本である。いや、=で結ぶのは正確ではない。いわば、「宗教の中に社会があり、社会の中に宗教がある」のだ。

     宗教とは「聖なるもの」への信仰である。社会学的に見れば、「信仰と儀礼のシステム」である。「不確実性に満ちた世界の中で、人々に生の指針を提示する」と同時に「教団の活動を通じて、人々を社会的・集団的に統合する」機能を有する。

     普遍性を持つ宗教の特徴として教祖の「二度生まれ」がある。
     開祖などは、最初は普通に生きていて、日常に苦しんでいる。そして神と出会い教祖となる。「一度生まれ」が無自覚的・非反省的に信仰している状況であり、「二度生まれ」が「神」を自覚的・反省的に信仰している状態である。
     関連して、V.W.ターナー『儀礼の過程』通過儀礼について「分離」「過渡」「統合」の三段階に分類している。集団Aから離れて、どこにも属さない段階を経て、集団Bに加入する。これは教祖となる人物が辿る二度生まれの道筋と似ている。ある王族の王子が離れ、一人修行し、教えを広め団体となる。物語の基本的な形もこれである。「行って帰る」が物語の普遍的フォーマットだからだ。
     では、二度生まれのない原始的な「神」への信仰はどうかというと、例えばフロイトはトーテム動物を父親の代用品であると主張したという。そして人は敬愛と畏怖でもってトーテム動物と接する。最終的に行き着くところは、二度生まれであろうがどうだろうが、不確実な世界のなかでの生きる指針として信仰と生活があることだ。

     そして、宗教はもちろん弾圧されたり迫害されたりもするのだが、本来「わたしたち」と「かれら」は、相互依存関係にある。すなわち両者は、一方がなければ他方もないという関係にある。特に宗教が教団となると、その傾向は強くなり、信仰を保つために弾圧と戦うのではなく、弾圧によって信仰を保つようなところもでてくるわけだ。
     宗教は本来、人々の一元的な管理を目指している。儀礼はまさに、そのための一つの手段である。朝礼終礼などの儀礼もそうである。宗教は何も入信しなければならないものではなく、社会の秩序を保つため「礼」として「儀式」として普遍的に偏在している。その儀式の中心にあるのが「政治」である。
     一本の映画をどう見るかというのは、それ自体一つの政治的な行為である。というのもそれは、ある立場に賛同したり反対したりすることと密接に結びついているからである。その意味では政治的な行為は、わたしたちの日常生活の中に偏在している。
     立場Aや立場Bが必ずしも万人を包摂しているわけでもないことが大事である。実際には二つの立場の間に、どちらにも与しえない人々が多数存在する。もし政治の分析に社会学者や社会学徒の出る幕があるならば、そのようなアウトサイダーの存在に着目することではないかと著者は述べる。

     一五三〇年代にドイツの都市ミュンスターで創設されたコミューン(自治共同体)は、最も悪名高い「千年王国」である。
     ではユートピアが出来上がったのかというと、逆で、革命的指導者による恐怖政治がまかり通ることになった。結果的にかれらの「千年王国」は、一年ほどしか保たなかった。
     プラトンの理想の国制はいかなるものか。端的に言えばそれは、エリートの支配と私有財産の否定を基軸とする体制として構想されている。エリーティズムとコミュニズムが、かれの「共和国(repiblic)」の中心的な理念であったと言うことができる。
     また、マルクス主義の場合、自己の立場を絶対化した上で敵手の立場を問題化する傾向が明瞭である。マルクス主義の内部でしばしば正統・異端論争が展開されるのも、宗教の場合と同じである。
     「理論優位」と「現実優位」で、日本の思想においては、理論と現実が健全な関係を持ちに行くことが問題となっている。外来のマルクス主義を取り入れた日本の左翼は、理論がそれ自体として現実との充分な交渉を欠いたかたちで、尊重される傾向を持つ。理論がそれ自体として尊重される時、そこに宗教的な態度が生じるのは必然である。
     また、ここでいう「現実優位」とはあるがままの現実に密着しようとする態度をさす。しかし客観的に見れば、そこでの「あるがままの現実」とはそれ自体一つの理論的構築物に過ぎない。
     自治共同体も、共和国も、マルクス主義の夢も、行き着くところは人間の自由と希望を奪う独裁世界である。現実にしっかり根付いた「現実優位」の理論というのは、「現実優位と理論」という矛盾を抱えている。むしろこの永遠に近付くことのできない現実に少しでも寄り添っていくことが大事なのではないかと思われる。
     ではその寄り添いのなかにある人間の経済とはなんなのだろうか。
     究極的には、人々が「有用」と思うものが「有用」なのである。消費の論理が自己言及的な構造を持つ。これは宗教における、人々が「聖なるもの」と思うものが「聖なるもの」であると同じだ。
     貨幣の歴史を貫通するのは、「価値のない」ものが「価値のある」ものとして通用するという論理である。人々の信認で通用する。「わたしたちは神を信じるごとく、この貨幣を信じます」というわけだ。
     そこから近代的な世界に向かうにはどのようなエートスが誕生したからか。それは未だに議論のなかである。近代化の道筋は複線的であり、それが近代化の理論の基本的な方向性となった。「何が近代化に適合的なエートスであるのか」はますます判然としなくなった(P143)と著者は述べている。

     本著の中ではいくつか興味深いところがあって、例えば社会学では人間を評価する基準として、属性主義と業績主義を区分している。
     属性主義は、年齢・性別・家柄など、その人物が「何であるか」に基づいて人間を評価する態度である。
     業績主義とは、業績(能力・資格・実績など)、その人物が「何をするか(したか)」に基づいて人間を評価する態度である。
     しかし業績主義である学歴主義も行きすぎると学歴信仰となる。これは理論VS現実で、現実にいつまでも行き着けないところとよく似ている。現実も、追求し続けると「現実理論」というものができあがってしまう。

     ほか、ブルデューを賛美する左派に対する痛烈なことがさらりと書かれてある。
     客観的に見れば、ブルデュー自身が「文化貴族」の一人であることは明らかである。そしてそれは、ブルデューを信奉する社会学者の場合も同じである。おそらく『ディスタンクシオン』の読者は、大半が「文化貴族」に属するのであろうと思う。そこには教祖を中心として、奇妙な「美のコミュニティ」がかたちづくられている。(P181)

     また、スポーツの章も興味深いものがあった。
     N.エリアスいわく18~19世紀のイギリスにおいて、スポーツと議会政治が同時に成立したのは偶然ではない。スポーツと議会政治はいずれも紳士階級の人々を中心的な担い手とし、暴力の規制の上に成り立っていたからである。紳士階級の人々の「礼儀」があったからであるというのがエリアスの主張である。一定のルールの下での非暴力的な闘争が行われることとなった。
     スポーツは、そのうち、柔術を「柔道」にすることで「心身の教育システム」として再編成される。「礼にはじまり礼に終わる」=文明化=暴力性の排除となる。
     これはあらゆるバトルにも見いだされることかもしれない。そのさい、バトルに最強とされること、バトルの格が上がる名バトルが起こることが条件かもしれないけれど。
     
     ほかに、「人間にとって認識しえないものが三つある」というのもあった。
     それは、「事物の裏側」「他者の心理」「死後の世界」だという。
     事物の裏側に回り込んでも、またもう一つの事物の裏側を生み出すだけである。
     これは、壁を乗り越えたら、またその向こうに壁があるという求道の精神のようだ。これも、アーティストが自分の作品をつくりあげるときに、つくりあげたら、また次の壁が見えたみたいなのと同じものを感じる。つまり、作品をつくり続けようとおもう精神も、宗教的なことなのだろうか。

     「神は社会の象徴的な表現である」とデュルケームは「宗教生活の基本形態」で述べているという。著者は「宗教」を一つの自己言及的なシステムとしてとらえている。
     木や山が「聖なるもの」として崇拝の対象になるのはなぜか。それは、木や山が「聖なるもの」として崇拝されるからである。法・貨幣・社会・愛も、自己言及的システムである。その自己言及で支えられているのは信仰であり、信仰のコミュニティである。

     個人的に、コミューンと共和国とマルクス主義について連続して述べられているところで、いずれも専制政治や弾圧と崩壊に至ってしまう部分で思うことがあった。
     反体制は述べてもいいし、革命を目指す自由はあるが、私達は事実ベースとして捉えておかないといけないのは、国家権力が警察や軍隊や官僚を維持・運営し、不審者や殺人事件や劣化した道路や汚物処理・衛生管理等を解決してくれていることである。「私達」で解決するのではなく、「公的」に実行していくことによって、私達のしんどさを肩代わりすることによって私達は日曜日に読書をしたり、習い事をしたり、世の中を憂いたり、反日や愛国に一喜一憂して生きていくことが成り立つ。革命理論も、権力のおかげで考える時間があるので構築できるのであって、世の中が便利で、パソコンがあって、自由だからこそできるのであろう。その革命理論が現実になると図書館がまず焼かれていく、道路は壊れる、伝染病が蔓延する未来が待っているのではないか。よって、革命的指導者が望むことは、同じ信仰・思想を持つ団体に利益誘導するくらいのレベルを行うことであり、体制が崩れてしまうレベルのことは決してせず、結局は国の運営のために身を削っている人間や違う立場の人間を犠牲にすること負担をかけることによって、楽に生活できる権益を得ることぐらいだろう。

  • 東2法経図・6F開架:161.3A/O54s//K

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著者プロフィール

亜細亜大学経済学部教授

「2021年 『宗教社会学 神,それは社会である』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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