ワークショップと学び1 まなびを学ぶ

制作 : 苅宿俊文  高木光太郎  佐伯胖 
  • 東京大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130530811

作品紹介・あらすじ

ワークショップの根源をたどる。「あたりまえ」を解きほぐし、まなびなおしの場を作り出す、ワークショップの可能性。

感想・レビュー・書評

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    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/704434

  • 以下引用

    ワークショップというのは、一言で言えば、『異との出合い』である。ふだんと「ちょっと違う」場で、『ちょっと違う』人たちと出会ったり、『ちょっと違う』活動をともにする。当たり前に起こっていることが、『ちょっと違う』ことに気づいたり、『ちょっと違う』考え方、生き方があることを知る。

    まなびをゴールとの関係からではなく、不確定の未来に向かう変化のプロセスとして捉える

    まなびほぐしは、自分の身体に合わせたセーターを手に入れることを目的としているわけではない。そうであるなら、新品の毛糸を用意し、自分の体形にぴったりの型紙を使ってセーターを編み上げたほうが効率的。

    三田の家ー基本的には誰にも門扉をひらき、居場所を提供するといった「非構成型」のWS。単に場所があるわけではなく、その「場」の企画や運営を担ってきた大学教員や研究者が「場が持っている意味を実証するために、先駆的で実験的なWSを展開
    →この視点でいくと、うちも「箱」としてのWS(工房)でもあり、「場」としてのそれでもあるんだなということを思う。

    まなびほぐしーいったん編み上げられた知が解体されつつ、不安定に揺らぎながら何か新しいものへと変化していく過程そのものに焦点をあてる。揺らぐ現在から、少しずつ未来の姿が浮かび上がってくるプロセスをまなびとして捉えようとする。どこかで誰かによってあらかじめ定められた未来に向かうのではなく、まだ姿がよく見えない未来の時間をいまここで生成する

    ★まなびほぐしの学習論は、まなびの現場でうまれる「混乱」「戸惑い」「躊躇」「食い違い」「対立」と言った「揺らぎ」に肯定的な可能性を見出そうとする。「まなびほぐし」のプロセスにおいて、既存の知が解体されて生じる不安定状態は、まなびの阻害要因ではない。それはむしろ未来の時間が創造される生成の場である。

    中野;講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり創り出したりする学びと創造のスタイル

    未来の時間を生成するプロセスとしての学び。生成の場としての揺らぎ。知の再生産と生成。


    目的や理由がよくわからない場合でも、相手に教示的伝達顕示の意図を読み取った場合、「そっくりまねる」という方略で、文化適応する

    行為内容を吟味する思考は停止して、まさにそっくりまねることに専念する
    →ある種、良いカウンセラーとかファシリは、わざ伝承とか芸道の世界の「型」の中にいれるという部分があるんだとおもう。

    私たちは、『ほんとうのこと』というのは、ずぐにわかるとはかぎらないということをどこかで受け入れていなければならないはずである

    わかっていくということは、簡単なことではない。もっと本当のこと、もっと深い意味、もっと多様な意味を、『よくわからないまま』探求し続けるということをも重要

    このような「わからなさ」を「わからないまま受け入れる」ということは、わざの習得過程では、むしろ、かならずくぐらねばならない修行。

    ★初心者は、ひたすら師匠の示す「形」をそっくり写取るように「まねる」ことが要求され、自らもそれを心がける。「形」をまねている段階では、個々の動作の意味などはまったくわからないままである。まさに「見よう見まね」でやってみて、師匠に「ダメだ」「もう一回やってみろ」と言われ続ける。
    →★★こうした芸道における習熟プロセスというか、ある種の「強制」の要素は、おそらくあわ居でもいるし、サンティアゴとかはその型の中に誘導させるのがうまいんだろうなぁ。
    ★その意味では、あわ居で伝達しようとしているのって、末端の技術とかではなく、いわゆる芸道で伝承される「全体性」というか、「生への構え方」みたいなところなんだなということを思う。もう少し言えば「生活する身体」と「芸術する身体」ともいえるかな。それに接続しているか否かだけを、自分たちは見えているし、そこからはずれて、再接続するためのプロセスに伴走しているともいえる。

    ハビトスの学習・教育は、個別的な特徴や技能の伝達ではなく、まさに人間全体の伝達である。そこで生じるのは「威光模倣」。信頼し、また自分に対して権威をもつ人が成功した行為、また成功するのをまのあたりに見た行為をもhプうする

    人を学びに駆り立てる動機について、「理解動機」「競争動機」と並びーというより、もっと大切な動機として「感染動機」をあげている。つまり「直観ですごいと思う人がいて、その人のそばに行くと、感染してしまう、身振りや手ぶりやしゃべり方法までまねてしまう」

    暗黙知は、どこまで意味を探究しても「言葉では語れない」ものであるなら、意味をわかろうとする努力は、言語や論理による探求に向けられたものではない。

    ★★理由、説明を見出すという言語的な解釈とは質を異にする、身体全体でその「型の意味について納得」すること

    生田は、このような「形」の意味を、「身体全体」で納得する(つまり、型を習得する)ためには、世界への潜入が必要だとする。

    このような「わざ」の習得における掃除、洗濯、炊事といった「わざ」にじゃ直接関係しない事柄をこなすことの教育的意義は、「わざ」の世界全体を流れる空気を自らの肌で感じ、師匠の生活のリズムを(呼吸のリズム)を、そしてさらには当のわざに固有の間を、自分の呼吸のリズムとしていくことができるといこと、認識の観点から言い換えるならば、形の習得以外の事柄を「なくてはならないもの」として身体を通して認識し、「形」と「形」との関係、さらには「形」とそれ以外の事柄との間の意味連関を身体全体で整合的に作り上げ、そうした状況全体の意味連関の中で、自らの意味を実感として
    捉えていくことができるという点に集約する

    型の習得というのは、生田によればその型を作り上げている「世界」に潜入することで、その世界の状況全体の意味関連を、身体を通して把握すること。
    →この意味では、僕らが言っている「その人らしい生」というのは、その人の「形の自覚」であり、その現象は、「型」を通してしか経ち現れないということなんだな

    からだを動かし、しかも慣れっこになっているからだの動かし方ではなく、あまりやったことのないやり方で、体を動かしてみる。そこでは、いままで慣れっこになっている頭の使い方は、停止させて、頭を使わない分かり方や、使ったことのない頭の使い方を経験する

    型こわし、型探しを経験する、まさにまなびほぐしの場

    私たちは、この社会的、文化的な学習で身に着けてしまった「型」をなかなか意識できない

    ブルデュー:ハビトゥスは、日常生活で行為や態度を習慣化し、その結果、日常生活そのものを自明視させる資質の総体。それは意識に上ることもない

    まなぶというのは、身体全体で行うことである。身体をほぐしていくことは、おのずと身体の一部である脳をほぐしていくことにもつながる。その基本的なことを忘れるほど、私たちは、身体を置き去りにして生きている。

    ★コミュニケーションの器官としての身体


    相手の気配から埋める相手の思いや気遣いを受け止める必要がある

    凝り固まった思考に気づきという刺激を与え、それを再び活性化するマッサージのようなプロセスとして理解する

    まなびの型の定型的ないしは惰性化が、単純な思考停止ではなく、強力な思考の運動=思考発現と表裏一体の関係にあるのならば、「まなびほぐし」による変化は、思考の停止状態から活動状態への移行という単純な再活性化ではない

    学びほぐしは単なる思考のマッサージではなく、より複雑な創発現象として理解する。

    まなびの凝りは、個人レベルの現象としてではなく、社会的関係のレベルで生起している現象として位置づけること。なぜならまなびの凝りの生成と密接に結びついていると考えられる模倣は、生得的基盤を持った個人レベルの心理メカニズムにより可能になるものだが、その一方で、モデルとなる他者との相互作用が不在の場所では、発現しえない社会的現象でもある

    ハビトゥスは、個々人の多様な実践を生み出すと同時に、それに対する制約として機能することで、規範、権力関係、慣習、趣味、階級といった社会の構造的な関係性を再定義する。

    LPPでは個々人が社会の関係的な構造性の内部で、その制約を受けつつも、即興的かつ創造的に、実践を遂行し、そのことを通して社会の関係性的な構造性の維持に貢献できている状態を「参加」と呼ぶ

    実践共同体において人々が共同的に織りなしている実践の一翼を、新参者である学習者が不完全ながら実際に似ない、そこに配置されている、ひと、もの、表象などのリソースと、自身の行為の関係調整を進める。

    周辺的な参加はあくまでも実践共同体に配置された諸制約と学習者の行為の調整を通して、その身体に実践共同体のメンバーとして求められる傾向性を形成していく

    個人間の直接的な相互行為が埋め込まれているより大きな社会の構造的な関係性のレベルにおいて「まなびの凝り」は、諸制約の特定の配置によって人々に身体化されたハビトゥスを生成する一見固定的で反復的な学習の実践であり、それにより相互性性的に機能する社会の構造的な関係性

    まなびの凝りの生成過程は、正統的周辺参加理論の枠組みで捉えた場合、学習者の実践を「ダイナミックな静止」へと導くようにアレンジされた諸リソースの配置をもつ実践共同体への参加過程として捉えられる

    まなびの凝りは、ハビトゥス論およびLPPの枠組みで捉えた場合、それは学習者個人の思考に関わる現象ではなく、特定の傾向性を帯びた学習者の身体と、それを構築し、同時にそれによって構築される実践共同体との結び目において生起する現象であるということになる

    まなびほぐしは、気づかせる、柔軟にするといった個々の学習者の思考過程をターゲットにした介入過程ではなく、身体と実践共同体の結び目に働きかけ、それを変化させることを目指す関係的な介入過程として捉える

    共変移。現状のハビトゥスが、機能しない実践共同体に飛び込み、そこで他者との相互作用に参入することで、従来のハビトゥスを解体し、結び目を新たなものへと組み替えていく。


    ここでの祖母の実践は、封建的なイエ社会と近代的な社会の重なりのなかで日常生活を送っているこの地域における「生活の便宜」のために編み出された、伝統的知識の変形可能性の探索と、それを通した外部との接続可能性の構築

    実践共同体はの諸制約に完全に拘束されるのではなく、またそこから完全に離脱するのでもない、一定のゆるうさをもった関係を構築することは、具体的には実践共同体の内部で共有されているカテゴリー、儀礼、知識などの媒介を、その本質的構造が崩壊しないぎりぎりの程度にまで変形し、それを用いて従来困難であった、実践を可能にすることであった

    外部との新たな接続可能性を開くのではなく、むしろ従来の実践のより純化された再生産に向かっている

    ダンスの身体言語を中核としたフォーサイズの新たなアプローチは、こうしたシステムと個人の関係そのものを解体している。システムを構成する媒介(=身体言語)が高度の変形可能性を帯びることで、人々を一定の様式で結びつけつつも、人々の動きに応じてシステムそのものが変形し、それが新たな関係の可能性を開き、それに応じて人々がそれまでにない動きを生み出していく

    フォーサイスが生み出した身体言語は、一歩足を踏み出すごとに地面が揺らぎ、予定していた次の一歩は取り消され、新たな足の起き場を探索し続けなければならない

    身体が倒れるとき何が起こるのか。あなたの意識はダンスの行為から逸れるとき、あなたは安全ではないはずです。ところがそこに、あなたを倒れ傷つくことから守る何らかのメカニズムが働くのです。大げさかもしれませんが、わたしはそれをエンジェル効果と呼んでいます。

    システムを構成する諸媒介に最大限の変形可能性を
    与え、人々を常に転倒させ続けることで、「エンジェル効果」を生み出す。これはつまりシステムと身体の関係に許さを生み出すテクノロジー

    実践共同体と学習者の身体の関係を常に緩い状態に保てるように、システム内の諸要素の変形可能性を最大限にするデザイン

    まなびほぐしそのものが記号的媒介として、内臓されている実践共同体の構築

    まなびのアクションを起こすたびごとに、媒介が変形し、そこで新たなまなびの可能性が発見されるという、普段のまなびほぐしが実現されることになる

    WSのデザインとは、このような不安定な足場のなかで参加者が完全にバランスを失ってしまうことのないように配慮しつつ、こうした転倒しつつある状態の連続をひとつの愉楽として経験できるように様々な媒介の配置と変形可能性を調整する作業である

    離陸→混沌→着陸

    見たくないものを見ないで済ませるというエトス

    アートは、人々の生活経験から離れ、アートのためのアートとしての性質を強めていく

    アートを、人々の日常生活や経験から切り離すのではなく、ひろく市民の公共生活や活動全般にかかわる観点から捉えなおすことにあらわれている。

    アートを制度化された閉鎖的な仕切りの中の活動から、人と人とをつなぐ市民の活動とコミュニケーションの空間へとひらく方途を探究した。

    パリやロンドンの広場、公園、劇場では、多様な人っ体が相互に交じり合う空間が構成された。それらの都市では、すれ違う人たちが互いに見知らぬ他者として放置されるのではなく、相互の関係を意味付けて認識し、社交的にふるまうことが要請された。

    セネットは、公的文化の終焉を19世紀の都市空間の変容にみる。その発端は、人々が公的領域で自己表現を行うことから後退し、個性の抑圧が社会生活を凌駕したことである。

    公的領域における個性の抑圧は、都市空間においても顕著にあらわれた。小売店では、売り手と買い手が商品を交渉し合い、購入する仕方が消滅し、値札についた定価で買うという、百貨店の先駆けとなりスタイルが確立した。

    個性の抑圧過程で自信を喪失した人は、家族や友人関係といった私的領域の温かさへと逃避し、親密性の専制による公共性の喪失を帰結させた。

    アートを人間の生活活動全般にかかわるものとして考えた。そこにおける分裂は3つ
    1つは、アートの経験が制作と鑑賞、生産と享受、観るものと観られるものといった二項対立に分離し、人々の生活世界やコミュニティから切り離されていくこと

    芸術を、経験と解釈しなおすことで、芸術がそれ自体「強力な経験」であること、もっと具体的には、受け身で被ることと同時に生産すること、呼吸することと同時に経験されたものを反応よく再構築することの両方を含む経験として再定義

    芸術家と聴衆、行動的製作者ないし著者と観照的受容者ないし読者という本質的な区別を否定し、双方を、同じ二重の過程のなかでリンクさせることを意味している

    演劇、音楽、絵画、建築は劇場、画廊、美術館を前提にしたアートの領域から発展したというよりも、人々の経験やコミュニティに根を張った「人間生活」に結びついていた。しかし「アートの領域」の発展に伴う「制度化」は、制作者と鑑賞者、生産者と享受者といったように、アートの経験を分断させることにつながった


    プラグマティズムが提起するのは、芸術家と聴衆、制作者と鑑賞者の関係を、演じる側と観る側、制作する側と受容する側、卓越した才能を発揮する側と受け身的に沈黙する側といった本質的な二項対立においてではなく、互いに働きかけられながら、美的経験の質を高めていくあるいは双方にとって制作的な経験であるとともに、受容的な経験でもあるというような、相互性と共同性のプロセスのうえにアートを成り立たせる

    シュスターマンによれば、高級芸術を理解できるかどうかは、社会的に決定される相対的な問題なのに、それを本質的な愚劣の記とされ、趣味と感受性の欠如として投射されることの問題性を指摘している。

    デューイ流に、芸術を経験と定義することは、芸術を制度に閉じ込められた純粋芸術の実践という息苦しい締め付けから解放することを意味している。必要なのは、芸術概念と芸術制度を廃棄し、美術館を閉鎖することではなく、変形し、開いて拡大し、生の実践への緊密な統合へと向かわせること

  • 忙しすぎて読んで考える時間がないので、ほとぼりが冷めたら読む

  • 「まなびほぐし」、「アンラーン」自分で気づけばいいけど、気づかないことも多いだろう。

  • 【資料ID: 1117021120】 379.6-Ka 67-1
    http://opac.lib.saga-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB09024020

  • まなびほぐしの概念の理解のため。ヘレンケラーと鶴見俊輔。説明できるようにしておきたい。平田オリザさんの章が読みやすい。

  • ワークショップについて、戦後すぐに東大で行われたことの批判的分析が面白かった。今のアクティブラーニングにも同じような批判があることが想定できる。

  • ワークショップを学びの場としてとらえたもの。
    2016/3/18
    ワークショップとは、教育関係者が専門家による指導助言の便宜を与えられて、現場に必要な問題について自主的な態度で共同研究を行うための集まり。
    任せて文句を言う社会から引き受けて考える社会へ。
    空気に縛られる社会から合理を尊重する社会へ。

  • やっと一冊目読み終わった。あと2冊。読み切りたいと思います!

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