人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉 (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140910856

感想・レビュー・書評

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  • 興味深く、強く共感できる本であった。この著者・町田宗鳳の本を読むのは初めてだが、今後その著作のほとんどを読むことになるだろう。タイトルはかなり刺激的だが、その主張は、私自身も自分のサイトで主張してきたことと基本的には変らない。この本で強烈に批判されるのは、自分以外の神や真理を赦さない排他的な宗教としての一神教だ。

    「宗教は愛と赦しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである。それが私の長い宗教遍歴の結論である。」(P9)と著者はいう。

    世界史を少しでも学べば、宗教の名において人類が犯してきた戦争、残虐の数々に誰もが唖然とする。とすれば、この本のタイトルも、著者の結論もまさに真実をついているだろう。「組織宗教」「教義宗教」は、自己の教えを唯一正しいものとするかぎり、他の信仰を排除し、憎むのである。いくら愛と赦しを説こうとも宗教戦争が繰り返され、無数の人々が死んでいった所以である。

    この本の前半では、宗教の名の下に、とくにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の名のもとにどのような愚行が繰りさえてきたかを具体的に書き連ねている。この本の素晴らしいところは、抽象的になり勝ちなテーマを、あくまでも具体的な事例に即して論じているところだ。それによって「宗教は人を幸せにしない」というテーマが、説得力をもって裏づけられる。

    たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。

    一神教的コスモロジーを批判したあと著者は、「多神教的コスモロジーの復活」、さらには「無神教的コスモロジーの時代へ」と論じていく。

    いわゆる近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することだともいえる。ところが日本文明は、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。それは、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。これは、日本にキリスト教がほとんど受容されなかった理由の考察として興味深い。

    著者のいう多神教的コスモロジーの要点とは、「単一原理で世界が支配されるのではなく、世界は不確定な要素で動いていく」「男性原理と女性原理は敵対するのではなく、相互補完的関係にある」「他者を断罪する権威は何人ももたない」等々である。

    アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

    ただし著者は、多神教的コスモロジーに留まることをよしとしているわけではない。人類社会から一神教と多神教の双方が消え去ることが理想だという。「人間の力を超えた偉大なるものに対して、全身が震えるほどの敬虔な気持さえあれば、神仏を語る必要はない、寺や教会に行かなければ、神仏に合えないというのは、酸素ボンベにしか酸素はないと思い込むようなものだ」と著者はいう。そこが、既成宗教が自己否定を経験したのちに復活する真の宗教、つまり「無神教」の地盤である。

    この著者の素晴らしいところは、抽象的になりがちなテーマを、つねに具体的な事例を挙げながら進めることだ。またどのページにも必ずといっていいほどに深い洞察力を感じさせる文章が散りばめられている。著者の宗教についての考え方に強い共感をもつから、それだけ多く共感する文章に出会うということなのかも知れないが。とくに最後にふれた「無神教」の考え方は、私自身のサイトでも長年発信してきた考え方と同じである。

  • 前半はよいのだが、後半ところどころ消化不良、説明不足、こじ付け部分が出てくる。

  • 「われわれが大切にしている宗教は、霊的に幼い人類に与えられた歩行器のようなものである」

     キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教は唯一の神を信ずるゆえに、部外者を認めようとしない。それゆえに、自らの幸せのために部外者に不幸をもたらす。宗教が完全なものを求める故に、心に宗教を植え込まれた人間は、その信仰によって閉じ込められた負の抑圧を部外者に投影してしまう。宗教は不完全な人間が、その内なる葛藤から逃れ、安らぎを得るために作り出した幻想である。宗教が、自分が幸せに穏やかに過ごすために祈られ信ぜられるものである限り。全ての行為は自己中心的なエゴである。
     人類が前に進んでるのであれば、宗教という外部に頼らず、個として自立しなければならない。神は自らの中に存ずると悟らなければならない。

    なんか、ニーチェの超人思想みたいで苦しい。
    無神教になって他者を認めて、エゴを超えて成長しなければならないんだって

  • <a href="http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51160646.html">小飼さんのとこ</a>より。

    冒頭で著者は<q>人類最大の敵は何か。</q>と問い,<q>他ならぬ「宗教」こそが,人類最大の敵だと考えている。</q>と答える。本書は,宗教,とりわけ一神教がどうして「人類最大の敵」と言えるのか,そして一神教をどのように克服し,その代わりとしてどのような精神的基盤を持つべきなのかについて述べた本である。

    著者はまず,現代社会が一神教を基盤としているためにどのような問題を抱えているのかを述べる。この部分は本書の中で最も素晴らしい部分である。特に<ruby><rb>&#1497;&#1512;&#1493;&#1513;&#1500;&#1497;&#1501;</rb><rp>【</rp><rt>エルサレム</rt><rp>】</rp></ruby>を巡る現状の描写は,十分な背景知識に根ざした興味深いものとなっている。

    また,著者は現代社会が<q>アメリカ教</q>に毒されている,すなわち現代社会における価値だとか進歩だとかがUnited Statesから広がったある種の一元主義により語られている,という現状についても批判的に考察している。

    そして,一神教に因る諸問題を克服するため,多神教の持つ自己否定を一神教に取り込むことによって一神教における善と悪とを合一して止揚し,<q>〈愛〉</q>に基づく<q>無神教</q>という新たな枠組みを構築すべきである,と説く。神を自らの中に取り込んだり,或いは具体的現象が普遍的真理と同一であることを理解する,ということである。

    僕は子供の頃からずっと,自己の外にある「他の何か」に依存する,ということに違和感を覚えていた。一神教は勿論,仏教だとか「お墓参り」にも嫌悪感を抱いていた。最近は<a href="http://www.misho-web.com/bookshelf/8">Cahier Sauvage</a>に影響されて,自然崇拝を基調とする多神教だとか,あるいは神道に接近し,お墓参りをそれらによって理解したり,或いはこの時空間への畏敬の念を抱いたりしていた。であるから,著者の話はとても受け入れやすく,また著者の主張に全面的に同意する。<a href="http://www.misho-web.com/bookshelf/8">Cahier Sauvage</a>で中沢は,第三次形而上学的革命が<q>一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することによって</q>もたらされると述べているが,それよりもこちらの方が,中沢の所謂「第三次形而上学的革命」を正しく記述しているだろう。

    しかし本書がゲンミツであるか,すなわち他の様々な主張に対して公正かつ論理的に反駁できているか,という点については若干の疑問がある。例えば著者は<q>一神教の中にも多神教的要素は数多く埋め込まれている</q>ことの具体例として,<q>「創世記」の中では,神はなぜか自分のことを複数で呼んでいる。</q>と述べている。しかしこの部分については当然のことながらあのすばらしく緻密な「聖書学」において,「三位一体論における複数形」として議論され,少なくとも彼らの中では正当化されている。或いは著者が〈愛〉の具体例として挙げているfair tradeについての批判の中にも,〈愛〉の文脈に照らし合わせて妥当な批判が見あたる。あまり宗教学などの文系学問に明るくない僕でもこのようなアラが見つかるので,この本を以て一神教主義者を説得することは出来ないであろう。

    むしろ僕は,この本は「生き方指南書」である,と見なす。例えば,冒頭での<q>人類最大の敵は何か。</q>において,著者は次のように述べる。
    <blockquote>
    もう少し倫理的なものの考え方をする人なら,人間の欲望こそが人類の敵だと答えるかもしれない。(中略)かといって,まったく欲望がない人生など,果たして生き甲斐があるのだろうか。
    われわれは欲望があるがゆえに苦しみもするが,それゆえに努力もし,向上もする。五官の欲も満たされないことには,肉体をもって生きている意味もなくなる。無欲至上主義なら,早くホトケになって,仏壇に納まったほうがいい。
    </blockquote>

    僕はこの著者の講釈に,心を貫かれるような衝撃を受けた。本書には,この他にも様々な「如何に生きるべきか」という,おそらく著者の豊富な宗教的知識に裏打ちされた生と死への理解に基づく指南が含まれている。

    死や生の意味などは,おそらく誰しも一度は考えるところであろうが,その理解を深めるための一助として,僕はこの本を推奨する。おそらく,宗教も本質的にはそのような「生の拠り所」としての意味があるのであろうが,その宗教を内包し,あるいは止揚した結果としての本書は,特に日本人にとってはとても有用な「心の聖典」となるであろう。

    もちろんその聖典は,自分の中に取り込み止揚された後は,確実に破棄されなければならないのである。

    <a href="http://www.misho-web.com/bookshelf/74">みしょのねこごや - Bookshelf No.74</a>

  • 宗教についての入門になった。

  • 自分の知らなかった事を知る事ができた。宗教について考えさせられる一冊です。

  • まだ読んでない

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著者プロフィール

1950年京都市生まれ。14歳で出家し、大徳寺にて修行。34歳の時に大徳寺を離れ渡米、ハーバード大学神学部で神学修士号、ペンシルバニア大学東洋学部で博士号を取得。シンガポール国立大学大学助教授、プリンストン大学准教授、東京外国語大学教授、広島大学大学院総合科学研究科教授を経て、現在、広島大学名誉教授。日本・アメリカ・ヨーロッパ・台湾などで「ありがとう禅」を開催している。著書に『法然・愚に還る喜び─死を超えて生きる』『山の霊力─日本人はそこに何を見たか』ほか。

「2016年 『講座スピリチュアル学 第7巻 スピリチュアリティと宗教』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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