イエスの学校時代

  • 早川書房
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本棚登録 : 95
感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152099341

作品紹介・あらすじ

少年ダビードはシモンとイネスの庇護のもと、言葉を学び、友を作った。犬のボリバルも健在だ。やがて少年は七歳になり、バレエスクールへ入学する。ダンスシューズを履いた彼は、徐々に大人の世界の裏を知る――成長とは? 親とは? クッツェーの新境地!

感想・レビュー・書評

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  • 「イエスの幼子時代」の続編.ちなみに第三作「イエスの死」も刊行済みらしい(未訳).
    相変わらず不思議なトーンで淡々と話は進むのだが,今回は殺人事件も起こる.犯人ドミトリーは,名前からしてカラマーゾフ風なのだが,人物もやっぱりカラマーゾフ風で,非常に濃い.彼の思考回路は独特なのだが,よくよく考えてみれば登場人物のダービド,イネスを始め,全員が思考に特徴があり癖が強い.決してお互いを理解することはない.一見,唯一まともに見えたシモンさえも,なんだかおかしい.
    そんなすれ違いが続くなか,シモンの空回りが徐々に目立ってきて,物語は唐突に終わる.
    この先,一体この疑似家族はどうなってゆくのだろうか?

  • 物語自体はすんなり読めるが、訳者あとがきを読むとやっぱり奥が深い。
    後半はドミトリーの話で、ダビートが脇に追いやられた感がする。

  • ふむ

  • シモンが健気すぎて切なくなる

  • クッツェーによる聖書を思わせる寓話『イエスの幼子時代』につづく2作目。

    『幼子時代』のときの衝撃はないものの、今回も「なぜだかわからないが面白い」という不思議な魅力でぐいぐい読ませる。

    前回、無駄に制欲を持て余していたSimonがやや不快だったが、今回は相変わらずワガママで気が強いDavidや自分の人生を歩み始めるInesから家族として必要とされなくなり、悲哀とおかしみがすごい。

    ヨセフって、自分と愛を交わしていない妻から生まれた自分の子供じゃない子供(しかもやたら偉そう)を実直に育て、にもかかわらずまるでスポットライトが当たらない不遇な聖人で、聖書のお話の中でもいつのまにか姿を消すし(高齢だったのでどこかで亡くなったのだろうけど、とはいえお話として触れられない…)、宗教画でも聖家族の脇で1人だけ居眠りして描かれていたり(まるでロバ番かのように…)、なんか可哀想だなと常に思っていたので、その姿と重なる。

    予想外の殺人事件が起きたり、Davidが覚醒しそうでしなかったり、最後まで読んで早くも続きが読みたい!

  • 何を言いたいのか私にはよく掴めなかった。
    ただ、ページが進むにつれて、シモンが愛おしくなる。
    ダビードやイネスに冷たくされながらも、ダビードの為に、一所懸命になる姿に応援したくなる。

    シモン、イネス、ダビードは疑似家族。でも、シモンはダビードの為に、父親としての任を果たそうと頑張る。
    イネスのように、自身が打ち込める何かを見つけるわけではないし、ダビードのように明晰な感じでもない。

    それでも、ダビードのために一所懸命な姿は、世の中の親の一般的な姿ではないかと思ったし、それで、いいんじゃないのかなって思った。

    特筆すべき何かがなくても、誰かの為に一所懸命になる、愛を注ぐ。それができたら、いいのだって。

    シモンの不器用な感じは、聖書のペテロ(シモン)のよう。

  • 『言葉とは弱々しいものです―だからこそ、わたしたちは踊るのです。そうして踊ることで、超然たる星々のかなに住む数を呼び寄せる』

    主人公のシモンをヨセフ、シモンが前世からの渡航中に知り合った子供であるダビードをイエス、失われた筈の記憶がダビードの母親だと告げるイネスをマリアに擬えて、物語は進行していると前作である「イエスの幼子時代」を読んだ時から思っていた。マリアが受胎告知を受け授かってしまった子を育てるヨセフの視点の話だと。何から何まで聖書の物語を当て嵌めて考える必要はないのかもしれないが、今回もダビードが7歳になろうとする時に国勢調査が行われる際にダビードを隠すエピソードなどは、マタイ書のヘロデ王の幼児虐殺の物語と史実としての国勢調査の関係をを連想させる。だがどうやらタイトルにある「イエス」とはダビードのことを指しているのではなく、主人公であるシモンのことであるように徐々に思えてくる。

    ダビードはヒポクラテスのように「なぜ」を繰り返し人々が無意識に受け入れている常識に疑問を投げ掛ける。あたかも独自の倫理観、正義があるかのようなふるまいもする。しかしそれは結局のところ子供故の浅はかさでもある。あるいはそういう文脈でイエスの存在を周囲の人々が見ていたのではないかという文学的問題提起なのかも知れない、という思いは残るものの、ダビードが生れ落ちて(前世から渡航してきて)しまった世界の矛盾や不正義に苦しむ様子はほとんどない。むしろ現実に対応しつつ世の不条理を嘆くのはダビードの庇護者である筈のシモンである。それに加えて、本書の最終章のシモンは、まるでヨハネによる洗礼を受ける人のようでもある。

    本書では、クッツェーを読むと必ず感じる人間に対する嫌悪感が、これまでになく希薄だ。老いが人間の根源的な醜悪さを薄めていくのか。前作と比較してみても、主人公の変化にはそんな思いを抱かせるようなところがある。全てを著者の実世界活へ帰結させる必要もないが、クッツェーの重ねた歳が、主人公の価値観にもうっすらと投影されているのかも知れない。

  • おっと、冒頭から家族の体だ。たまたま私は前作と続けて読んだが、間をあけて読んだ人とか、混乱しないかな。少なくてもピンでこれだけ読む人には(いないか?)背景説明が最初の方に欲しいかも。セニョーラ・アローヨのスピーチは第7章だ。
    ともあれ、ドミトリーよ!!!クッツェー・オリジンな性格造形に加えて、「ドミトリー」という名前の登場人物がどうしたって背負う、不気味にデモーニッシュな色彩は看過できないけど。あと、鴻巣女史がどう平仮名を駆使して頑張っても、このダビードが6歳児ってのは無理あるやろー。

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著者プロフィール

1940年、ケープタウン生まれ。ケープタウン大学で文学と数学の学位を取得して渡英、65年に奨学金を得てテキサス大学オースティン校へ、ベケットの文体研究で博士号取得。68年からニューヨーク州立大学で教壇に立つが、永住ビザがおりず、71年に南アフリカに帰国。以後ケープタウン大学を拠点に米国の大学でも教えながら執筆。初の小説『ダスクランズ』を皮切りに、南アフリカや、ヨーロッパと植民地の歴史を遡及し、意表をつく、寓意性に富む作品を発表して南アのCNA賞、仏のフェミナ賞ほか、世界の文学賞を多数受賞。83年『マイケル・K』、99年『恥辱』で英国のブッカー賞を史上初のダブル受賞。03年にノーベル文学賞受賞。02年から南オーストラリアのアデレード郊外に住み、14年から「南の文学」を提唱し、南部アフリカ、オーストラリア、ラテンアメリカ諸国をつなぐ新たな文学活動を展開する。
著書『サマータイム、青年時代、少年時代——辺境からの三つの〈自伝〉』、『スペインの家——三つの物語』、『少年時代の写真』、『鉄の時代』、『モラルの話』、『夷狄を待ちながら』、『イエスの幼子時代』、『イエスの学校時代』など。

「2023年 『ポーランドの人』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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